君の、煙草の匂い。
まるで空気のようにそれは自然に自分の近くにあった。
君の近くにあった。君の傍に、あった。
だから何時しかその匂いが、君になる。
血塗られたこの両腕で誰をいだくのか?
「火村」
名前を、呼ぶ。呼ぶ事でその存在を確かなものにする為に。幻ではないと夢ではないと確認する為に。
「…アリス……」
低くて良く通るテノールの声。聞きなれた声。けれども永遠に聞きなれる事のない声。
何度も何度もその名を呼ばれても。呼ばれてもそれがすんなりと耳に通り過ぎる事はない。何時も特別の意味を持って、自分の耳に届くその声だから。
手を伸ばして、その髪に触れてみた。白髪混じりの前髪。そこから微かに香る煙草の匂いが。その匂いが眩暈を起こさせる。
「火村の髪、さらさらや」
「そうか?」
見上げてくる瞳の先の、睫毛の思い掛けない長さに少しだけどきりとした。漆黒の、瞳。何時も他人を拒絶しながらもその奥底に深い哀しみを称えるその瞳。
どうしたら…どうしたら、その瞳は光を映し出すのだろうか?闇に囚われた君の瞳を。
どうしたら、光へと導く事が出来るの?
「うん、さらさらや」
触れて。指先で触れて。そしてそっと唇に絡めた。やっぱり香るのはほのかな煙草の香り。君に纏い付いて離れない、その香り。
「髪、食うな。バカアリス」
「食ってるんやない」
「じゃあなんだ?」
…キス…してる……そう答えようとして、言葉が止まった。そんな事を言ったらきっと、バカにされるだろうから。
「俺も食べてやる」
君の手が伸びてきて、自分の髪に唇が触れる。それだけで心臓がどきりと、した。そして。そして、そのまま歯を立てられる。
「…不味い……」
「当たり前やろっ髪の毛なんやから」
「じゃあこっちは?」
…え?…と尋ねる前に君の唇が、そっと重ねられた。やっぱり広がるのは、煙草の匂い。
君の、匂い。
初めて出会った時からずっと。ずっと変わらない君の匂い。
何時しかこの匂いが、自分の日常になる。
「…んっ…はぁっ……」
穢れた、手。血まみれの、手。それでも俺はお前を抱く。穢したくないと思いながら。穢して堕としてやりたいと思いながら。
「…火村……」
指を滑らせる度に、唇を落す度に紅く染まってゆく身体が。俺の血で染まってゆくように思えて。このまま染めてしまったら?
「…あぁ…はっ……」
傍にいて欲しいと思いながら、消えてくれればと何処かで思っている。
俺の心の弱さを受け止めて欲しいと思いながら、その弱さを決して見せたくはないと思っている。
何時も矛盾だらけだ。永遠に抜けられない迷路のように。そんな俺に、答えが出せるのか?
お前の身体に俺の煙草の香りが移る。
当たり前だな…俺が…こうして抱いているのだから…。
「ああっ!」
仰け反る喉元に噛み付いてみた。このまま引き千切ってみたいという欲望。
それが俺が穢れている証拠なのだと、思った。
「…あぁ…あ…」
貫いて引き裂いて、そして。そして俺だけのものにする?
…でも俺だけのものにしたら…何が、残るのか?……
君の背中に爪を立てた。食い込むほどに強く、血が流れる程に強く。
君の血が手に、付いて。そして指先にこびりついた。
それを舐めようとして口許に持っていったら、君の手が自分の指先を舐めた。
冷たい舌が、指先を舐めた。
「…火村……」
ざらつく舌の感触。生き物のように蠢く舌。その感触にまた、意識が零れそうになる。
「お前に俺の血は似合わない」
「何故?」
「お前は闇に堕とせない」
光、眩しい程の光。
目を開けていられない程の。
俺にはないもの。俺が手に出来ないもの。
…俺が穢せない…もの……。
「お前はここまで来れない」
君の煙草の香りが自分の全てに染み込んでゆく。
全身に包まれてゆく。そして。そして、内側から破壊されてゆく。
破壊されたいのに、壊されたいのに。
君は。君は、自分を傷つけてまでも護ろうとする。
「火村の傍に、いきたい」
手を伸ばして、君の髪に触れる。
手を伸ばせば君はそこにいる。君に触れられる。
けれども。けれども、君の魂までは、君の心までは触れられない。
君の本物のこころ、までは。
だからせめて。せめてこの香りに、包まれていたい。