―――それは、予感に似てた。
まだ、太陽は生まれたばかりだった。
窓から差し込む光が眩しくて、健は目を覚ました。
「・・ちっまだ五時前じゃんか・・」
伸ばしっぱなしの肩に掛かる髪を煩わしそうに掻き上げる。
―――変な時間に起きちまった、と健は心の中で舌打ちをする。空手の稽古にはまだ早い。
かと言って、また寝直すのもバカらしい。しかたなく、ベットから飛び下りる。
「どーしよーかな・・」
健は呟きながら、窓を開ける。朝焼けが痛い位眩しかった。
「散歩でもすっか・・」
健はそう決めるなり素早く服を着替え、外へ飛び出していった。
朝一番の学校は怖い位静かだった。
健は結局、気付いた時は自分の通ってるこの小学校に来てしまっていた。
健は閉じている門の前に立って校舎を見た。
―――その時だった。微かに健の耳に物音が届いたのは。
暫くそれを聞いていたが、それが何の音だか気付くのにそう時間は掛からなかった。
……ボールを蹴る音だった。
「え・・?」
健は音のする場所を確かめようと、耳を傾ける。その音はグランドの方から聞えてきた。
―――こんな朝っぱらから、ボールを蹴ってる?一体どんな奴だ?
健はその好奇心にかられ、門をよじ登って学校内に侵入した。静かな学校にボールの音だけが響く。その音のする方向へと足を向ければ段々と大きくなっていくまが分かる。
「よっぽど、暇なのかな?」
健はぶつぶつ呟きながらグランドへ足を運んだ。
―――その足が、止まった。
いいや正確には『動かなく』なった。
身体中が、かなしばりにあったみたい動けなくて。
心臓の鼓動の音がうるさい程、耳に届いて。
足が、身体が、震えた。
立っていられない程に……
―――クルシイ……
稲妻が身体を貫く。
衝撃が心を引き裂く。
・・・ナンダ・・コレ・・?・・・・
胸が詰まりそうに苦しい。
心臓が壊れてしまう程、鼓動が早い。
「・・なんでだよ?ちきしょー・・」
気付いた時健は、泣いていた。
―――生まれて初めて心で、泣いていた。
―――ヒュウガ コジロウ―――
それが、そいつの名前だった。
あの日あの朝、気まぐれで行ったグランドに独り、ボールを蹴ってた人。
それが、日向小次郎だった。
朝の日差しだったのに、そいつの前で日差しは、真夏の太陽特有のぎらぎらしたものに見えた。
そのぎらぎらした日差しを一身に受け止めた様に焼けた小麦色の肌。
獲物を捕らえようとする獣みたいな鋭い瞳。そして、あのシュート。
あいつの瞳が一瞬光ったかと思うと気付いた時にはゴールに吸い込まれていたボール。
その瞬間が、一枚の絵になって瞼の裏に焼きついて離れない。
余りにも凄くて、そして・・綺麗で・・。
そして、無意識の内に流れた涙。
あれは何だったんだろう?
分からない。分からないけど泣きたかった。あんなに泣きたいと思ったのは生まれて初めてだった。
―――ただただ、凄くて。あいつの全てが凄くて。
今でも、思い出せば身体が震える程の衝撃だった。
「えー、日向?知んねーそんな奴」
あの日以来、健は日向小次郎の事を調べていた。
なんであんな奴。そう思っても健は日向小次郎の事が気になって仕方無かった。
空手で鍛えた筈の平常心も日向小次郎の事に関しては全て無駄だった。
―――どうして、気になるのだろう?
いくら考えても答えが出ない。それが返って自分を追い詰めている気がした。
そして、それは全て日向小次郎のせいだった。
「あー俺知ってる。あの怖えー奴だろ?」
「怖い?」
「ああ、すんげー目付きが悪くってさーいっつも一人でいる奴だろー?あれってやっぱ皆怖くて近づけないんだろーな」
「そうかな・・」
―――怖い?あいつが?
健は心の中で否定した。あの時震えたのは涙が出たのは、怖かったからじゃない。じゃあ何?健は必死であの時の感情の言葉を探していた。
「でも、サッカー上手いよな」
サッカーと聞こえて考え込んでいた健がはっとする。
「ああ、上手いよな。俺たちと同じ四年のくせに誰もあいつのシュート止められないんだってな」
「でも、怖いよやっぱあいつ」
「サッカーしてる時なんて特に凄いよな」
健はいつのまにか、時間がある時は必ず放課後、グランドに足を運んでた。
「日向っシュートだっ」
「いけっ!」
ぞくぞく、する。日向小次郎のサッカーは。
見てるだけでこんなのに。あのボールを止められたらどんな気分だろう?どんな、気持ちだろう?
―――いつしか自分は、あのボールを止めたいと思っていた。
「お前いつも小次郎を見てるな」
急に掛けられた声に健はびくっとするが、それでもすぐに何時もの顔に戻ってその声の主を見据えた。空手で鍛えられた神経は何時でも自分を平常心へと導く。
「これはなかなか。ガキのくせにいい瞳をしてる」
「――――」
「わしは、この明和FCの監督の吉良だ。お前名前は何て言う?」
「―――若島津健」
「どうして、小次郎を見てる?」
「凄いから」
それが素直な答えだった。今はこの言葉しかこの気持ちを表現出来なかった。
「あの凄いシュートを止めてみたいんだ」
「ほう、それはそれは・・」
吉良は感心したような呆れたような溜め息を洩らす。
「なかなの決心じゃな。しかし、あれを止めるには相当の力が無いと無理だぞ」
「ならば、力をつける」
真っ直ぐに自分を見つめ言う健に、吉良はいきなり豪快に笑い出した。そして、一瞬真剣な瞳で。
「―――お前、サッカーしないか?」
初めて、父に逆らった。
いつでもどんな時でも絶対の存在であった父親に逆らった。
あいつのシュートを止めるために。
見つからない言葉を探す為に。
―――サッカーを、するために……
―――その日から健は吉良監督の秘密特訓を受けた。
健は生まれつきの運動神経の良さと空手で培った反射神経で、吉良監督を驚かせる程上達た。しかし健は満足しない。
―――まだまだ、だった。
日向小次郎のボールを止めるには、まだ全然力が足りなかった。あのシュートを止めるには・・。
「最近、サッカー三昧ね」
心配そうに母親は健に忠告する。
「サッカーに夢中になるのもいいけど・・空手を厳かには、しないでね」
「・・・判ってる」
健は笑顔で母親に答える。母親に変な心配をさせない為に。そして、自分に言い聞かせる為に。
サッカーを始めたからって空手の腕が落ちると思われるのが嫌だった。でも、それ以上に日向小次郎のシュートを、止めたかった。
―――そして、……
「今日から新しく入る奴を紹介する」
心臓が脈打ってる。足ががくがくしてる。立ってるだけで眩暈を起こしそうだ。
「若島津っ来い」
「はいっ」
―――心臓が、痛い。
「こいつが、若島津健だ。ポジションはGKだ」
―――苦しい。
「試しに、小次郎。シュートを打ってみろ」
「はい」
日向小次郎がボールを地面に置いて、こっちを睨む。それだけなのに、重苦しい威圧感が健を襲う。それだけなのに、打ちのめされる程の敗北感が貫く。
「いくぜっ!」
獲物を捕らえようとする瞬間の野獣の双目。ぎらぎらして、鋭くて、刃みたいに攻撃するその瞳。ぞくぞくする位、くらくらする位、激しくて熱くて。
―――でも、どうしてだろう?
その時、確かに思った。
―――こんなに綺麗な物は見たことないって……
―――それは、予感に似てた。
ボールを止める事も忘れて、あいつのシュート姿を茫然と見つめてた自分と。
そして、やっと見つけた言葉を。
……それは、敗北感と同時に理解した、感動だった。
―――許される事のない罪。
神への冒涜。
永遠の罪人。
永遠の捕らわれの身。
足元に繋がれた鎖。
砕けた翼。
引きちぎった、未来。
出られる事の無い毒の沼。
還らない、純粋な心。
壊れた光。残酷な幸せ。
優しい悪夢。
そして、
――――破滅への誘惑……
太陽は昇り始めていた。
「ねー、名前なんて言うの?」
講堂は人の熱気でむんむんとしていた。さすがに、マンモス校だけあって中等部だけでも軽く千人は越えてる。更に今日は入学式だけあって、父母達も多数来ている。
―――暑苦しいはずだ。
そう思いながら長い髪を掻き上げ、さっき声を掛けてきた奴の方へ振り返る。
「若島津健」
健はそう短く答えると再び長い髪を掻き上げる。
「ふーん、なかなか大層な名前じゃん。俺はね、反町一樹。よろしく」
反町は人懐っこい笑顔を健に向ける。
「こちらこそ」
「ねー若島津だよね。凄いねーその髪何で伸ばしてるの?」
好奇心と子供の様な悪戯っぽい目で健の長い髪を眺める。
「長い髪のほうが俺、いい男じゃん」
すました顔で健が答えると反町は愉快そうに笑った。
「ははっナーイスじゃん、健ちゃんってば。俺気に入っちゃったわ」
「男に気に入られても嬉しくない」
「やだー健ちゃんってたらし。でも顔いーしもてそうじゃん」
「とうぜん」
きっぱりと答える健に反町はますます笑いを深くした。
「最高ーっ。ねー女殺しの若島津くん。突然ですけど、部活何に入る」
「そう言う、お前は?」
「あ、俺ー?俺はサッカー部。やっぱ女にもてるにはサッカーが一番よ♪」
「―――」
思いっきり不機嫌そうに健が反町を見る。
「そんな不純な動機でサッカーやるのか?」
「やっやだー冗談ですよっ冗談」
健が余りにも凶悪な表情をするので反町は引きつりながらも笑顔で弁解をしなければならなかった。
「そっそれよりも、若島津は?」
「不幸にもお前と同じサッカー部だよ」
「やだっー一緒じゃない」
「俺はお前と違ってちゃんとした理由で入るんだからなっ一緒にするな」
「ちゃんとした理由?」
反町が健に尋ねようとした時だった。―――二人の背後から声が、した。
「若島津」
「日向さん」
「どうしたんですか?あんたのクラスは隣でしょうに」
健は振り返ると笑顔でその名を呼ぶ。その表情が心無しか嬉しそうに反町には見えた。
「だってよー退屈なんだ」
少し不貞腐れた顔で、『日向さん』と呼ばれた人は答えた。
「日向さんらしーですね」
「っるせー」
そう言った『日向さん』は少し顔を赤くしてた。それが照れてるのだと理解すると何だか可笑しくなった。だから。
だからさっき、健と一緒に振り返って『日向さん』を見た時は不覚にも反町は震えてしまった。その位このひとは初めて見た者に恐怖感と威圧感を与えるのだった。
しかし今、健の言葉に照れてるこの人を見たら何だか可笑しくってそしてとても、可愛く思えて。
……男に可愛いって思うなんて俺ってもしかしてその気があるのかしらん……
反町は一瞬不安になったが、それ以上にこの『日向さん』に興味を持ってしまったから。
「ねーねー若島津、この人誰?」
「日向さんだよ。日向小次郎。お前サッカーやるんだったら名前くらい知ってるだろ?」
どことなく突っかかる言い方で健は答える。けれども対照的にそれを聞いた小次郎の顔が嬉しそうになって反町に声を掛けて来た。
「お前、サッカーやるのか?ポジションは何処だ?」
サッカーの話になると小次郎は本当に嬉しそうに楽しそうに、する。健は何だか胸が突っかかったみたいで、理由の無い苛立ちが自分を襲う。
「いちおー、CFなんだけど」
「へーじゃあ一緒にツートップ組めるよーに頑張ろうぜっ」
小次郎の無防備な笑顔。それはいつもサッカーの事と家族の事にしか向けられないと健は知っていた。
―――家族。それは小次郎にとってサッカーと同じくらい大切なかけがえのない物だった。
三年前、初めて日向小次郎を見た日から、そして今までこの人を見てきた。
―――この人のサッカーを、見てきた。
日向小次郎のサッカーは勝つサッカーだ。力が全てのサッカー。
この人は誰よりも勝利の喜びを教えてくれる。あの勝った時の瞬間の陶酔にも似た満足感と、苦しい位の幸福感。それは、皆日向小次郎によって与えられた。この人だけが、最高の時を自分に与えてくれる。いくら空手が上手くなっても強くなっても、こんなにも激しい物を知る事が出来なかった。
―――この人だけが俺を、感動させる。
あの、太陽が生まれた日。初めて彼のシュートを見た日。全ての神経が日向小次郎に傾いた日。そして、感動という言葉を知った時。
……それで、満足だった。この人と一緒に何処までもサッカーが出来れば。
何処までも、走っていければ。それでよかった。満足だった。
―――でも、何時しか健はどこか満たされない自分に気付き始めていた……
「皆も判ってると思うが、サッカーは実力勝負の世界だ。三年でも技術が無いと思えば落とすし、一年でも実力があればレギュラー入りは可能だ。判ったら練習に入る」
「はいっ!」
部活が正式に始まったのは、4月の中旬だった。そうは言っても小次郎は自主トレをしていたし健もそれに付き合っていたので、始めると言う気分でなかったが・・。
「うへーっいきなり校庭20周・・。信じられない」
そう、弱音を吐いたのは他でもない反町だった。小次郎はそんな反町をちらっと睨む。
小次郎の視線に気付いて途端に反町はおとなしくなった。さすがの反町でもまだあの小次郎の鋭い視線にはなれない。
「日向さん」
「何だ?若島津」
半分以上の距離を走ったのに小次郎の息は切れてない。鍛え方が凡人とは違う。無論、健もそうだが。
「すげー、な。あいつら」
反町が半ば呆れ半ば感心しながら、二人を見てた。自分も決して体力の無い方じゃない。しかし彼らは特別に、見える。
「やっと、サッカー出来ますね」
「ああ」
「やっと東邦でサッカー出来ますね」
「若島津、そっち片付け終わったか?」
「ええ、もう終わります」
健と小次郎は寮の部屋が同室になった。さすが、私立だけあって東邦の寮は広い。二人部屋には贅沢な広さで、小次郎なんかはこんなのに金をかける必要ない、と言った程だ。
「日向さんはどうですかっと・・聞くのは野暮ですね」
「ふんっ」
小次郎は片付けが苦手だった。大した量は無いのに全然終わらない。健が小次郎の倍以上の量を半分で片付けてしまうのとは対照的だ。
「こっち終わりましたから手伝いますよ」
そう言うなり健は小次郎の目の前の荷物をどんどん整理していく。その手際のよさに小次郎はあっけに取られて健を見てた。
「・・すげーな、お前」
「この位朝飯前ですよ」
「それ・・厭味か・・?」
「いいえ。日向さん」
にっこり笑って健は答える。・・・その顔自体が厭味みたいだっ・・・こんな健の顔を見る度に小次郎はそう思ってしまう。
「でも、日向さんは片付けなんて出来なくていいんですよ」
「なんでだよー?」
少し拗ねた口調で小次郎が尋ねる。
「俺がしてあげますよ。あんたが苦手な事全部」
「・・それじゃー不公平じゃねーか?」
この人は変な事にこだわる人だ。健はそう思いながらもそんな小次郎を可愛いと思ってしまう。―――可愛い?
「どうして、日向さん?あんたは俺に沢山の物を与えてくれたんだ。当然だよ」
「俺は何もてめーにやってねーよ」
冷静な口調で健は言ったつもりだった。小次郎は気付かない。健の声が微かに上擦っていたのを。健の心臓の鼓動が高鳴っていたのを。
「くれたよ、日向さんあんたは俺に数え切れない位沢山の物を」
「サッカーを、勝利する喜びを、そして・・」
―――そして……?
「・・目の前でゆーなよ。照れるだろっ」
「ごめんね、日向さん。でも言って置きたかったんだ」
「・・バカ・・」
気付けば小次郎の顔は真っ赤になっていた。ぷいっとそっぽを向いて小次郎は黙ってしまう。照れているのは一目瞭然だった。
健はそんな小次郎の背中を見つめながらぼんやりと考えていた。さっきの気持ちを。
小次郎を可愛いと思った自分と、言い掛けて止めた言葉と。
―――何かが違う。
確かに何かが変わっていく。日向小次郎に対するこの感情が。尊敬以外の何かが静かにそして激しく健の胸に押し寄せてくる。緩やかに見えて実は止めることの出来ない速さで健の心に浸透していく。…これは、何?
――――まだ、答えが見えない。
――――太陽が今、昇る。
「あちー」
「そーか?俺は好きだぜ」
反町はぎらぎらする太陽を恨めしそうに眺めた。その横で小次郎は楽しそうにボールを蹴っている。
「日向さんは特別だよなっ若島津」
「ああ」
健はくすっと笑うと目の前でボールを蹴る小次郎を見つめる。本当に楽しそうに嬉しそうにこの人はボールを蹴る。
「でも、夏って日向さんに似合うな」
「・・ん・・」
「もろ夏ってイメージだよな」
「ああ・・」
小次郎は夏そのものだった。あのぎらぎら熱い太陽が、この人に重なる。灼熱の太陽をそのしなやかな肢体に閉じ込めてしまってる様なあの、激しさ。
―――誰にも、触れるな。
そう、あの人は言っているように見える。全身で言ってる様に、見える。
夏の太陽の様に激しく熱く魅力的で誰も近づけない。
それが、日向小次郎。健の知っている、彼。
「でっさー健ちゃん」
「ん?」
「日向さん、レギュラーだって。一年でたった一人」
「当然だろう。あの人なら」
「あーあっ俺も大会でたいなー」
「だったら実力つけなきゃな」
「へいへい」
そう言っているこの二人は実はレギュラー入りしてもおかしくもない実力の持ち主だった。健は言うに及ばず、軟派で軽い奴だけだと思っていた反町の評価を健はすぐに変更しなければならなかった。
反町のサッカーの技術は確かに非凡だったのだ。特に小次郎とのツートップの時の攻めなんかは健を感心させる程だった。小次郎がパスを送ろうとする場所にはいつも何も言わなくってもそこに走り込んでる。小次郎程では無いにしても反町のシュートはなかなか鋭かった。小次郎も健もすっかり反町を認めてしまった。したがって気付けば、良くつるむようになっていた。
「おいっ若島津、シュート練してーんだ、ゴール立ってくれよ」
小次郎がゴールポストの前で健を呼ぶ。
「はーいっ日向さん」
健がその場を立ち上がる。反町もそれに続く。
「でもさ、若島津」
「何だ?」
「俺、サッカーやって良かったよ」
「どうして?」
「だって日向さんに出会えたじゃん。あの人とサッカーを出来るなんてこれ以上の喜びは無いよね」
「・・そうだな・・」
日向小次郎と一緒にサッカーをする。それは経験したものにしか理解出来ない。
でも、一度経験をしてしまえばもう離れられなくなる。
気付けばいつのまにか日向小次郎に、魅かれる。魅かれて離れられなくなる。あの熱い激しさと焼ける闘志が全て、あの人だった。
それを身近に感じる事の出来る幸福な一握りの人間の中に自分がいる事が何よりも、幸せな事だった。
―――だから健は満たされない自分が不可解で苛ただしかった。
「―――以上が、夏の大会のスターティングメンバーだ」
小次郎はただ一人、一年でレギュラーに選ばれた。
誰もがそれを当然と納得した。小学校の時、あの天才児大空翼と、翼とゴールデンコンビと言われた岬太郎そして、天才GKと言われた若林源三を要する南葛と互角に戦い、渡り歩いたあの実力を知らない物は誰も居なかった。
「おめでと、日向さん」
反町がぽんっと小次郎の肩を叩いく。
「サンキュー」
短く答えると小次郎はグランドへ足早に向かって行った。その様子を見て反町の口元から自然と笑いが漏れる―――照れてるんですね、日向さん。
付き合っていく内に反町は小次郎に対する印象がすっかり変わっていった。初めは人を寄せ付けない、一人の似合う人だと思ってたのに実は違うのだ。
どうも、小次郎は人見知りするらしい。普段はぴりぴりとした何だか冷たい張り詰めた空気をしてるのに、気を許せる人の前での小次郎は信じられない位、可愛いのだ。
まるで猫みたいに。小次郎は気を許せる者の前では非常に素直になる。我が儘も言うし、拗ねたりもする。だから、こんな風に小次郎が物凄く照れ屋だと気付いたのは、やっぱり彼が自分に気を許してくれるようになってからだった。
それを知らない奴はきっと小次郎を誤解するだろう。でもそんな彼の人間的不器用な性格が身近な人間にとって、どんな気分にさせるかは、小次郎自身は気付かない事だが。
反町は気付き始めていた。それを知ってしまった人間がどうなるかを。ましてこの日向小次郎を尊敬し、憧憬していたら・・?
「―――若島津、お前の瞳、なんか危ねーよ」
小次郎と一緒に話している健を見つめ、反町は独り言を呟いた。
夏の全国中学生サッカー大会が始まった。
さすがに東邦学園は優勝候補の筆頭に上げられるだけに予選を順調に勝ち進んでいき、決勝も難無く勝って東京代表として本選に進む事になった。
「打倒、大空翼ですか?」
「―――当然だ」
サッカーの事になると小次郎の瞳は遙か前方を見つめるように真っ直ぐな視線をする。誰にも捕らえる事の出来ない視線。遙か彼方の夏を見てる視線……。
「俺は必ずあいつを倒す」
ブラウン官の向こうに映る日向小次郎の永遠のライバル、大空翼。翼のサッカーが楽しさを教えてくれる物ならば小次郎のサッカーは勝利の喜びを教えてくれる。
柔と剛、全く対照的な二人のエースストライカー。勝つ事しか知らなかった自分達に初めて負ける事を教えた奇跡の天才児。小次郎が激しい闘志を燃やすたった一人のライバル。
たったひとり……。
「―――っ」
「どうした?若島津」
小次郎が健の方を向く。途端に小次郎の表情が変化する。
「おっおいお前大丈夫か?」
「…平気です、唇ちょっと切っただけですから」
そう言った健の唇から紅い血がすっと一筋流れていた。
「ちょっとって・・こんなにいっぱい血ー出てんじゃねーかっ!」
「平気ですよ、日向さん」
健は心配させまいと笑顔を作る。しかし、痛みが走って一瞬顔が歪んだ。小次郎はそれを見逃さない。
「バカッそんな顔してっ痛いなら痛いって言えよっ、全く変なトコで意地っ張りなんだからなってめーは」
「あんた程じゃありませんよ」
健の冗談に小次郎がぎんっと睨みつける。彼なりに心配しているのだと分かると、自然に口元が緩んでしまう。
「何ニヤニヤしてんだよっ!」
「いいえ、俺って日向さんに心配してもらえて幸せ物だなって」
「・・当然だろっ」
健の言葉に小次郎がみるみるうちに真っ赤になって、それを隠したいのか小次郎は救急箱を探す為に健に背中を向けてしまった。
小次郎か今どんな顔をしてるかなんて健は目をつぶっても分かる。
「えっと・・救急箱は・・」
小次郎はこうしていると、とても華奢に見える。フィールドの上ではあんなに大きく強く見えるのに。今、自分が強く抱きしめれば壊れてしまいそうに、細い。
―――壊れるだろうか……?
この人を腕の中に閉じ込めれば、壊れるだろうか?
否、きっと壊れない。小次郎はそこからすり抜けてその背中の両翼で飛び立ってしまうだろう・・。
誰も、小次郎を捕まえられない。無垢な魂を汚すことなんて、出来ない。
「あった!あったぞ若島津」
振り向いた小次郎は子供のような無邪気な顔で健の前にすとんっと座る。
「ほらっお前も座れよ、手当て出来ないだろう?」
「あっ・・はい」
健は素直に小次郎の言葉に従う。健は小次郎には逆らわない。逆らえない。
「うーん、消毒液がねーなー」
「大丈夫ですよ、日向さん。もう血は止まりましたから」
「そんな事いって、もし黴菌でも入ったらどうするんだっ」
小次郎は救急箱の中身をあさりながら、ぶつくさ言ってる。それが彼の不器用な優しさだと健が気付いたのは何時だっただろう?
「しゃーねーな・・」
小次郎はぽりっと頭を掻くと少し顔を赤くし、健の切れた唇をぺろっと舐めた。
「―――!」
健は一瞬、何が何だか理解出来なかった。気付いた時はもう小次郎は救急箱を片付け始めていた。
「・・日向さん・・」
自分の声が信じられない程震えるのを健は感じた。
「何て声出してんだよ、応急処置だよっ。よく弟達にしてやってるからつい、癖で・・。汚いと思うんなら後で洗えよ」
「……」
健はそっと小次郎の触れた部分に指を触れてみた。眉薬みたく、痺れる。
その指を口に含んでみる。血以外の何かが、健の口内に広がる。
「日向さん」
それは、苦くて、甘い。
「何だよ?」
「・・ありがと・・」
―――そして、苦しい。
―――自分は醜いと、思った。
最低だと卑怯だと思った。
あの人に心配してもらう資格は自分には無い。
あの時、唇を噛んだのは翼に嫉妬したからだ。
―――嫉妬、そう自分は大空翼に嫉妬していた。
あの人の心を占める、あいつを。
あの人が認めるたった一人のライバルを・・。
じゃあ自分があの人のライバルになりたいのか?
それは、違う。そんなんじゃ、無い。
じゃあ何で嫉妬する?
―――答えは簡単だ。
あの人の心があいつで占められるからだ。
自分の目の前にいるあの人が、他人の事を考えてる。
それだけで嫌悪感が襲ってくるのだ。
「・・最低・・」
健は今、自分が一番に望んでるのは勝利でも力でも無く・・。
―――日向小次郎と言う人間の心だった。
「ねー、日向さん」
「ん?」
昼食の時間。小次郎は健の買ってきたメロンパンを口にいっぱい頬張りながら、反町の方へ向く。
「日向さんって好きな人いないの?」
「―――っ!!」
反町の言葉に小次郎は口からパンが吹き出しそうになる。それを堪えて一息に飲み込むと小次郎はぎんっと反町を睨む。
「なっなっ・・人が食ってる時に変な事言うなっ!!」
小次郎は耳まで真っ赤にしている。そんな小次郎を見て健が咄嗟にフォローを入れる。
「愚問だぞ、反町。日向さんは今サッカーに夢中で他の事なんて考える暇が無いんだよね日向さん」
健が柔らかい微笑を小次郎に向ける。何だか小次郎はそれを見ると、安心する。
「そーだっ反町、俺は今サッカー一筋なんだからっ」
「はいはい、判りましたよ、日向さんでもね・・」
反町はちらりと健を見た。健は気付かない振りをする。でも、彼がそれを見逃す訳がない。それでもあえて無視を、した。
「日向さんがそう思っても、廻りがねっ」
「何だよそれ?」
「一年でたった一人のレギュラーおまけにかっこいいと来れば女はほっときませんよ」
「・・俺・・かっこいくねーぞ・・」
「いいえ、かっこいいですよ日向さんは。男の俺が見ても惚れ惚れするくらい、なっ若島津」
「ああ」
急に振られても健はフォーカーフェースを崩さない。ただ曖昧な微笑を浮かべるだけだ。
「日向さん、恋人いないんなら俺立候補しちゃおうかな?」
「!!」
流石にこの反町の冗談には小次郎が絶句した。
「ね、俺日向さん大切にしますからっ♪」
「・・そ・・反町・・」
小次郎の声が引きつってる。そんな事はお構いなしに反町は極上の笑みで小次郎を見る。
「何ですか?日向さん」
「・・俺は男だぞ・・」
「いーじゃんっ恋愛は自由よ☆」
「―――」
小次郎はそれ以上、何も言えなくなってしまった。無理もないだろう、小次郎には相手が悪すぎた。
「でもー真面目な話、別に好きになる人が男だろうと女だろうと関係ないと思うな、俺」
「・・だからって・・俺に言う事ないだろ・・反町・・」
「やっだー冗談ですよ冗談。日向さんマジになったんですかー?可愛い」
「・・」
「で、さっきの話に戻るけど。やっぱこういうのは本人の問題でしょ?たとえ禁断の恋だってその本人の気持ちが真剣だったら俺は、いーと思うな」
「ふんっ、俺にはそんな事分かんねーよ」
小次郎はぷいっと拗ねてしまった。そんな彼を。
―――健は、黙って見ていた……。
――――太陽が傾き始める。
灼熱の日差しは焦げるように、熱い。
躯の芯まで、焼け尽くされる錯覚に陥る。
―――熱い。喉が焼けそうだ。
気だるい、太陽。まとわりつく、熱さ。
そんな中、幕は上がる。
「ピピーッ」
ホイッスルが鳴る。止まっていた時間が目まぐるしく動き始める。
「いけっ!南葛っ!!」
「頑張れ、東邦!!」
―――全国中学生サッカー大会の決勝が、始まった。
大方の予想通り、この両チームの対戦となった。小学校時代、あの血まみれの死闘をした永遠のライバル大空翼と日向小次郎が再びフィールドで対戦する時。
二人共この大会、一年生CFとして注目を集めていた。
―――健は試合を、日向小次郎をベンチで静かに見つめていた。
「―――」
健の双目に映るあの人は、猫科の肉食獣の様な鋭さとしなやかさで真っ直ぐゴールを目指してる。
鋭く尖った視線は、打倒大空翼それだけに向けられている。
―――それだけに……。
日向小次郎がどれだけ翼に思い入れをしているか知っている。そして、自分もこいつを倒す為に親の反対を押し切って東邦へやって来た。そのつもりだった。
―――つも…?
健の、絶対の筈の決心に疑問符が付けられる。自分は日向小次郎と一緒に、王者南葛を倒し全国制覇をする為にここへ来たのではないのか?
「違う・・」
健は誰にも聞こえる事のない小さな声で呟いた。
そう、違う。自分は大空翼を倒したいからここへ来たんじゃない。今、どうして自分が東邦に居るのかと言えば。
「簡単な事さ」
そう、とても簡単な事だ。どうして気付かなかったのだろうか?
―――こんな単純な答えを……。
「いけっ翼っっ!!」
観客の声で健ははっと我に返る。グランドを見つめると、翼が東邦ゴール前まで来ていて、今にもシュート態勢を作ろうとしている。
「―――っ」
小次郎がゴール前まで戻って翼のシュートを防ごうとしている。健は無意識にジャージを掴んでいた。その強さはジャージが引きちぎれてしまう程、爪が割れてしまう程の強さだった。
―――自分が、ゴールを守っていたら……
そう思うと胸が潰れる程、悔しい。悔しくて悔しくてどうにかなってしまいそうだ。
―――俺がゴールを守っていたらあんたをこんな所まで下がらせたりしない!!
それは、叫びだった。健が生まれて初めて感動した日向小次郎。
そんな小次郎に自分ならこんな事させない。絶対に、させない。
小次郎には似合わない。あの人は常に真っ直ぐゴールを目指していればいい。
その、稲妻の様な激しさで全ての者を蹴散らし、直線を描くシュートでゴールだけを目指せばいい。
ゴールを守るのはGKの仕事だ。エースストライカーである貴方のする事じゃない・・。
「ワアアァ―――ッ」
目の前で、翼のシュートがゴールネットに突き刺さる。先制点は、南葛だった。
「やったぜっ翼っっ!!」
南葛イレブンが翼の廻りを囲む。皆、この得点で意気が上がっている。
「―――」
健の視線はその中で、たった一人を見つめていた。日向小次郎を、見つめていた。
―――小次郎は、真っ直ぐ南葛ゴールを見ている。
それが日向小次郎と言う人間だった。健の知っている日向小次郎だった。
「いくぜっ!!」
小次郎の声がグランド中を貫く。小次郎は走り出す。南葛ゴールに向かって。真っ直ぐ前だけを、見つめて。
―――灼熱の太陽があの人の褐色の肌に反射する。汗がきらきら、光る。
綺麗だ。哀しいくらいに、綺麗だ。ただゴールだけを目指す野獣の瞳。痛い程眩しい。
「守れっ日向にシュートだけはさせるなっ!!」
南葛イレブンが小次郎をマークしシュート態勢を阻もうと必死になる。
――――無駄だよ。
健は何の疑いも無く、そう思った。
―――誰も貴方を止められない。誰も貴方を奪えない。
神に選ばれ愛された人。誰も汚す事の出来ない純粋な魂。
そう、彼は神に愛された神聖なる人。
永遠に高貴で気高いこの人を誰が汚す事が出来ると言うのだろうか?
小次郎の直線的なドリブルでどんどん敵を蹴散らす。
熱い、夏。彼は夏の太陽。
激しく鋭く、人を魅き付けて離さない夏の太陽。
小次郎の脚が高く振り上げられる。
―――もう誰も、止められない。
一筋の閃光がネットに一直線に突き刺さる。
「やったぞっ日向!!」
東邦イレブンが小次郎を褒め称える。小次郎は拳を高だかと突き上げる。そして、イレブン達を振り返る。
「やったぞっ!」
光さえも叶わない、夢さえも幻になる、小次郎の笑顔。
この世のどんな物も叶う事の無い、笑顔。
―――この人は神に愛されている、穢すことの許されない人。
そんな事は、知っている。誰よりも分かっている。
この人の純粋さを無垢な魂を健はもうずっと見つめてきたのだから。
「気付かないなんて、嘘だよな」
健は自分を蔑むような口調を、した。
「そう、そんなの嘘だ」
気付かなかった訳じゃない。答えを探してただけじゃない。
本当は、知っていた。初めて逢った時から知っていた。
感動と言う言葉では埋められない気持ちが有ることを。
翼に嫉妬した自分の心が、東邦へ来たかった理由が、全てたった一つの言葉で言い換えられてしまう事を。
―――ただ、認めたくなかっただけ。
この人を醜い感情で思いたくなかっただけ。
でも、もう止められない。止める事なんて出来やしない。
静かに浸透した思いは今、激しく躯を貫く。
それは余りにも幸福な絶望。それは余りにも残酷な真実。
――――俺は日向小次郎を愛している。
簡単で単純な答え。たったそれだけの事。
それだけの、事。
グランドに立つこの人に触れたかっただけ。
この人に自分の事だけを考えてほしかっただけ。
この人を抱き締めたかっただけ。
この人を…愛したかっただけ。
でも、それは罪。
誰も汚すことを許されない、この人を誰も奪えない。
神への冒涜。誰も救えない、永久の迷路。
―――もう抜けられない。
太陽が地平線に沈む。
「試合終了!優勝っ優勝は南葛ですっ!!」
アナウンサーの興奮気味の実況がスタジアム内に響き渡る。
「いやー凄かったですねーあの後半の翼くんの活躍ぶりは…」
延々とアナウンサーの言葉が続く。試合は、後半東邦のGKがパンチングで防いだこぼれ球を翼が得意のオーバーヘッドで決め、それがそのまま決勝点となって南葛が初優勝を手にしたのだった。
もう、グランドは紅く染まり初めていた。
ゴールポストを落とす影だけがくっきりと浮かび上がる。
その中に、独り小次郎は立っていた。
何も言わずただ、独りそこに立っていた。
試合中あんなに大きく見えた肩も今は、壊れてしまいそうに細い。
その肩が小刻みに、揺れているのが分かる。
その両手が痛い程強く握り締められている。
「・・日向さん・・」
自分でも信じられない程、ひどく優しい声だった。
「―――」
「お疲れさまでした」
「………」
「もう、日が沈みます。帰りましょう」
「・・若島津・・」
小次郎初めて、口を開く。その声は微かに、震えていた。
「何ですか?日向さん」
「……勝ちたかった……」
「はい」
「俺は翼に、勝ちたい」
「はい、日向さん」
「勝ちてーよっ―――」
小次郎はそう叫ぶなり地面にしゃがみ込んだ。そして、力任せに地面を拳で叩きつける。
「俺は翼に勝ちてーよっっ!!」
何度も何度も小次郎は叩いた。拳が血に滲むのにも気付かず、叩き続けた。ふいに、その手が抑えられる。
「―――っ!」
小次郎は驚いて顔を上げた。健が小次郎の血塗れになった両手をしっかり掴んでいた。
「・・離せよっ・・」
「だめです、日向さん。手から血が出ています」
「そんな事構わねーよっ離せよっ!!」
健は哀しい位優しい顔で、言う。けれどもそんな健に小次郎は夢中でかぶりを振り続ける。何も知らない子供のようにただ、ただ夢中に。
「離せっ!離せっ!!」
「―――嫌です、日向さん」
健はひどく優しく言ったのに、何故か小次郎はその声に背筋が寒くなる程の恐怖を感じた。
「俺はどんな事があっても日向さんを離さない」
健の視線が痛い程真剣に小次郎に向けられる。小次郎はそれに耐えられなくなるように健の視線から目を、逸らした。
「―――っ」
小次郎が唇を噛み締める。必死に何かに、堪えている。
「・・日向さん・・手、痛いでしょう?」
労るように優しい健の声。
「大丈夫ですか?」
健の声が優しすぎて、痛い。―――胸に、痛い……
小次郎の耐えていた物がカチャンッと音を立てて外れた。そしてそのまま、小次郎は健の胸に飛び込んできた。
「・・日向さん・・」
「っ・・うっ・あっ・・」
「ちきっしょ・・っ・・うっ・・」
堪え切れずに零れた涙に、健はそっと小次郎の背中に手を廻し、抱き締める。
その身体はひどく、熱くて。
まるでこの人の性格そのままに熱く激しくそして、優しかった。
「・・日向さん・・泣かないで・・」
「うっぁ・・あ」
「ね、泣かないで」
「・・かしまづ・・」
「何ですか?日向さん」
健の抱き締める腕に自然に力がこもる。
この人の体温を感じるたび、この人を感じるたび、自分は思い知らされてしまう。
―――自分がこの人をどれだけ好きか、を。
この人に優しくしたい、慰めたい。
確かに心でそう、思っている。
この人をこのまま離したくない、自分の物にしたい。
しかし、もう一つの心はそう言っている。
―――そう、言っている。
「・・お前の・・が・・いい・・」
「・・え・・?」
「・・・俺、お前が・・GKしている・・時が・・いい・・」
「―――!!」
「・・お前が・・ゴール守ってっと・・何だか安心・・する・・」
―――死にたいと、そう思った。
心の底からそう祈った。
このままで幸福な気持ちのままで、死んでしまいたいと。
死んでしまいたいと。
このまま、何よりも…幸せな…ままで……
「―――若島津」
どれだけそうしていたのか、もう健にも小次郎にも分からなかった。ただ小次郎の涙が止まるまで、ずっとふたりはそうしていた。
「何ですか?日向さん」
「・・来年・・」
「はい?」
「来年、一緒にここへ立とう」
小次郎は真っ直ぐに健を見つめて、言った。あのシュートをする瞬間の獲物を捕らえる野獣の瞳で。決してその獲物を逃さない野獣の瞳で。
「はい」
―――これで、死ぬことは出来なくなったな……。
健は心の中で自嘲の笑いを零していた。
―――許される事のない罪。
神への冒涜。
永遠の罪人。
永遠の捕らわれの身
足元に繋がれた鎖。
砕けた翼。
引きちぎった、未来。
出られる事の無い毒の沼。
還らない、純粋な心。
壊れた光。
残酷な幸せ。
優しい悪夢。
そして、
――――破滅への誘惑……
―――知っていた。
自分が日向小次郎に出会った事が、破滅だと。
あの人を愛する事が、神への冒涜だと。
そして、自分は自らその道を、選んだ。
―――そして、俺は罪人になる。