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地上に落ちた羽


―――空へと届く、翼が欲しい。


「俺は、嘘つき…なんだ」

それが、加賀が最初に気付いた新条の口癖だった。
何時もどこか人よりも遠い所を見ている漆黒の瞳で。誰にも見せる同じ顔で。新条は加賀に言うのだ。それはまるで自ら壁を作っているように。
だから、自分は。何時しかそんな彼の壁を崩してみたいと、思った。


「…お前は何時も真っ直ぐ前だけを見ているんだね……」
ベッドの上にパジャマの上だけを羽織って、浅く座っている新条は、何気なく加賀にそう言った。
「―――風邪、引くぜ」
加賀は新条の質問には答えず、前のボタンすら嵌めようとはしない彼を注意する。
「相変わらずだね、お前は」
苦笑混じりに新条は答えると、加賀の言われた通りにパジャマのボタンを嵌める。但し相変わらず第二ボタンまでしか止めなかったが。それでも彼にしては珍しい程、素直な行動だった。
いつもなら―――うるさいな、お節介…と、憎まれ口を叩くのに。
「加賀は、俺の質問には答えてくれないのか?」
「俺はそういう事を意識した事なんかねーよ。でもお前がそう言うんなら、そうなんじゃねーの?」
「だから前だけを見ているって言うんだよ」
新条は組んでいた足を組み変える。たまたま視線を走らせた加賀がその素肌の白さに驚かせる。同性の物とは思えない細い足と、殆ど色素の無い肌の色に。
「―――何、見ているの?」
加賀の視線に気付いた新条がくすりと微笑って言った。その声に弾かれるように加賀は彼の顔に視線を合わせる。
「…随分と細せーんだな、お前…俺よりも全然……」
「太ると、怒られる」
「そうだな、あんたの大事なオーナーさんになっ」
加賀は自分の言った言葉に少しだけ非難めいたモノが含まれているのを否定出来なかった。
分かっているのに…彼が誰の所有物だと言う事など分かりきっているのに。今だって鎖骨の上には所有の痕が、見え隠れしている。
「―――運動をしているから…不健康な……」
微かに濡れる紅い唇が妙に加賀の瞳に鮮明に映る。それはとても煽情的で。そして何処か淋しげだった。
「セックス?」
「―――そうだよ……」
新条の親指が自らの口に持っていかれ、その爪を軽く噛む。これも、加賀が見つけた彼の癖の一つだった。こんな時の彼は…傷ついている事も…。
―――そう、彼は傷ついている…自分で自分自身を傷つけている。
「例えば、こんな風に――」
新条の言葉が不意に途切れる。それと同時に加賀の瞳に飛び込んできたのは夜空の色だった。
気付いた時には、唇を塞がれていた。そしてそれは加賀が瞳を閉じる間も無い早さで離れてゆく。
「お前からキスしてくるなんて、どう言う風の吹き回しだか」
くすっとひとつ微笑って、新条の顔を見下ろした。そんな彼に新条は挑発とも思える笑みを浮かべて。
「何て顔してんだよ…やる事は…一緒だろう?」
細い両腕が加賀の首筋に絡みつく。近づいた髪からは微かな匂いがする。それは夜の、匂い。―――夜の濡れた、匂い。
「―――まあ、そうだけどな」
その言葉に何かが、崩れた。新条の中で、止められていた何かが。殺してきた何かが。
「そうだな…お前もオーナーと…一緒だ…俺の身体が欲しいだけ……」
「新条?」
その問いに答えず、再び加賀に口付けた。自ら唇を開き、加賀を誘い込む。加賀はその細い腰を抱き寄せて、新条の誘いに答えた。そのまま舌を絡め取ると、激しく貪る。
「・・んっ・・」
激しい口付けに新条の睫毛が微かに震える。それを見届けるように貪欲とも言える執拗さで彼の口内を貪る。
―――崩してみたいと、ずっと思っていた。
例えその手段が何であろうとも、この突きつけられた冷たい壁を。この手で崩したいと、ずっと思っていた。ずっと、自分は思っていた。
今、その壁に微かにほころびが出始めている…新条の、こころの壁に……
「・・ふぅ・・」
絡め取られていた感触が不意に消滅する。しかし新条が思考を巡らそうとする前に、その柔らかい両唇を舌でなぞる。その度に腕の中の肢体がぴくりと、揺れる。
「―――誘ったのはお前の方だかんな…今日は好き放題させてもらうぜ」
やっと開放された身体は新条の思うように動く事が出来ず、その腕の中に抱きしめられたままだった。無論、新条はそれを離そうなどとは全く思わなかったが。
「…何時も…好き放題だろう?……」
「―――お前は痕を付けさせなかった…オーナーにばれるのが怖いからって、な……」
低い声が新条の耳元で囁かれる。それは自分が聞いた、初めての彼の声だった。


本当はずっとこうしたかったのかも、しれない。
全てを拒絶した視線と、作られた表情を。
この手で、この腕で、むちゃくちゃにしてやりたい。
そして、隠された本当の顔が見たい。
―――造り物じゃない、本物の顔を……。

「・・あっ・・」
加賀の舌がくっきりと浮かぶ鎖骨へと滑る。その度に新条の身体がぴくりと、跳ねる。
「・・やっ・・」
舌は鎖骨から胸元へ辿り、そして小さな胸の果実へと辿り着く。
「・・ぁ・・ん・・」
それを舌先で転がしたり、軽く歯を立ててやる。その度に腕の中は反応をし、加賀の背中に廻した腕の力を強める。
「…そうやって、お前はオーナーに媚びるの?」
「・・ちがっ・・」
やっと唇での愛撫が開放されたかと思うと、次には滑らかとも言える指先が胸の突起を捕らえていた。
「・・あぁ・・」
人指し指と中指でそれを摘み上げると、新条は耐えきれないような甘い息を洩らす。その声はひどく、官能的だった。
―――甘い声も髪の匂いもその表情も全て、アイツにも与えているものなのか?この腕の中で乱れていく様子も、同じなのか?
ずっと思っていながら、それでも否定してきた事だった。分かっていた事だったから。お前は俺のものではないと言う事を。この関係が崩れそうなほど弱い一本の糸の上に成り立っている事を。でも。でも今お前の壁が崩れようとしたから。
「・・はぁ・・ぁぁ・・」
快楽を追い始めた新条の瞳には自分など映ってはいない。―――映してほしい。自分だけをその夜空の中に。
「…新条……」
「・・か・・が・・?・・」
不意に愛撫を重ねていた加賀の手が止まる。それと同時に呼ばれた名前に新条は不信そうに目を開ける。
「―――お前の傷ついた瞳が、見たい」
「・・え?・・」
―――全てを拒絶しているお前の、護り通しているものが見てみたい。
「お前を傷つけたい」
何も彼も隠し通しているお前の、真実が見たい。

「・・あぁ・・」
生暖かい感触が新条自身を包み込む。形を辿るように舌先は滑り、先端をつつく。それに耐えきれずに先端からは快楽の涙が零れ始めていた。
「・・ぁ・・もう・・んっ・・」
しかし彼は新条を開放させなかった。イキそうになると口を離し、付け根の部分や太股に愛撫を施す。新条は耐えきれずに加賀の緑の髪をくしゃりと、乱した。
「・・か・・が・・はや・・く・・」
新条の瞳から快楽の涙が伝う。それに気付いた加賀は己の指先でそれを拭ってやる。
「―――素直だな、お前。普段のお前からは想像も出来ねーほどに」
「・・くぅ・・」
どこまでも、お前を苦しめてみたい。許しを乞うまで、己を求めるまで、どこまでも狂わせてみたい。それは目覚めてしまった残酷な獣の性。―――永遠に知らない筈の…。
「・・もう・・だめ・・・」
押し寄せる快楽の波に新条は耐えきれずに身体を震わせる。しかし加賀は自身には指一本触れようとはしないのだ。それどころか見下ろすようにそんな様子を見つめていた。
「・・か・・が・・助けて・・」
縋るように濡れた瞳が加賀を映し出す。それは確かに望み通り自分だけを映していた。
「―――俺が、欲しい?新条」
「・・ほしい・・か・・が・・」
新条の腕が延ばされて、加賀の背中に絡み付く。まるで自分しか頼るものが無いとでも言うように、きつく。
「・・お前・・だけ・・・・ずっと・・」
―――これが新条の言葉になった最後の声だった。


「―――ああっ」
何の準備も施されなかったにも関わらず、新条は加賀をたやすく迎え入れた。絡み付く肉壁は貪欲に加賀を締めつけ、離さないとでもいうようだった。
「・・あぁ・・ぁ・・」
もう新条の口からは甘い喘ぎしか零れない。彼の意識は快楽の海の中へと旅立ってしまった。だけれども…。
「…新条……」
「・・あっ・・ぁぁ・・」
最後に言った彼の言葉は確かに、本物の言葉だった。嘘でも、造り物でも無い…新条の本音だった。
「…ならば、何で俺を苦しめんだよ?……」
「・・あぁ・・ん・・」
もう加賀の呟きなど新条には分からなかった。ただ痛い程彼の背中にしがみつき、その快楽を追う事しか。
「・・ぁぁ・・あ・・」
細い腰を掴まれて揺すられる度に、新条の意識は飛ばされてゆく。爪が白くなる程、加賀の背中に食い込ませる。そして次第にそこから紅い血が零れ出していった。
「…俺は…お前を……」
―――本当は、知っていた。何故、こんなにも苦しいのか。胸が痛いのか。そして…こうして彼を抱いたのかを。本当はずっと知っていた。
何故、彼の本物の顔を見たいと思ったのかを……。
「―――っ」
新条の細い悲鳴が室内を埋めたと同時に、二人は全てを開放した。


空へと届く翼が欲しかった。
そうすれば空に飛び立つお前を追ってゆけたから。
決して人間には空へ届かないから。
―――だから、空へと届く翼がほしかった……。


「俺を傷つけるのなんて、簡単だよ…加賀」
隣で静かな寝息を立てている人に新条はそっと呟く。無論、眠っている彼には届く筈のないものだけれども。
これは、純粋な『欲』だった。ただこの人が欲しい。それだけだった。
――――その為ならば自分は、何でも出来た。
「お前が俺を捨てればいいんだ」

地上に降りた天使の翼は、醜い心の色で黒く染まっていた。


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