…初めて触れた指先の温もりが、忘れられない。
「そこの旅のお方、誰かをお探しかね?」
「…分かりますか?…」
「もう長い事ここにいるのでね。何となく分かるものさ」
そう言うと‘よっこらしょ’と言いながら、老婆は立ち上がった。そして目の前の少年の瞳をじぃっと、見つめる。
「綺麗な瞳じゃ。真っ直ぐに前だけを見ている…強い瞳じゃ……」
老婆の瞳が一瞬細められる。それは本当に瞬きをする程の時間でしかなかったが、それが全てを物語っていたのかもしれない。
「お主は強い宿命を持っておる。この世界を決めるほどのな」
「………」
「未だその事に気付いていないかもしれない。けれども、それは決して逃れられない。そして誰もお主の代わりにはなれない」
「俺は決められた運命なんていらない」
漆黒の瞳が強い意思を込めてそう告げる。何時も何時も、彼は前だけを見つめているから。真っ直ぐに、前だけを。
「運命は自分で決めるものだ。この手で変えられるものだ」
「…そうかもしれぬ…お主の言う通りかもしれぬな…。ならばこの世界の運命もお主の手で変えてくれ」
「でも俺にはしなきゃならない事があるから。今はそれが一番大事だから」
「そうであったな、お主は人を捜しておるのだった。してそれはお主の恋人か?」
老婆の一言に彼の頬が一瞬紅く染まる。その仕草はひどく少年ぽくって、彼を年相応に見せた。それが老婆の口許にひとつ、笑みを浮かばせる。
「図星じゃろう?で、美人かえ?」
老婆の言葉に彼はこくり、と頷いた。しかし照れは隠せなくてつい俯いてしまう。
「照れずとも良い。で、どんな女かい?」
老婆の言葉に彼は少しだけ戸惑いながらも、答えた。
…大きな蒼い瞳と金色の髪を持った、小さなお姫様だと……。
…独りでいるのは、怖くはない。貴方の事を考えている間は。
「モニカ様お茶入れたよ。飲みますか?」
「ありがとうございます」
モニカは華のように綺麗な笑顔を向けると、手渡されたお茶を受け取った。その暖かさが手に伝わって、モニカの口許に柔らかな笑みを浮かばせた。
…あれからどれだけの時間が経ったのだろうか?
それはとても短いような気がするし、そしてとても長いような気がした。モニカにはよく分からなかった。ただ、その手が今ここに無いと言う事以外には。
…どうしてあの時、離れてしまったのだろうか?
二人で海に飛び込んだ時、自分は全然怖いと思わなかった。そこには自分を包み込んでくれる大きな手があったから。
でも今、今こうして独りでいる事が。その手が自分を包み込んでくれない事が。とても。とても、怖い。
「でも驚いた、こんな所でモニカ様に逢うなんて」
少しはにかみながら笑うサラに、モニカも微笑んだ。その少しだけ懐かしい笑顔がモニカの心を暖めた。
ツヴァイクへと嫁ぐ事が決められた時も、自分はその運命を受け入れた。それがロアーヌの女王として生を受けた自分の運命ならばと。そして誰よりも大好きな兄の決めた事ならと。それが最良の選択なのだから。けれども。
けれどもモンスター達から逃れる為に、ふたり海に飛び込んだ時。自分はこの瞬間に死んでしまいたいと思った。誰よりも大好きな人の腕の中で、このままずっと一緒にいられるならば。
「噂ではモニカ様結婚するって聞いたけど…やめちゃったの?」
ちょっとだけ戸惑いながら聞くサラに、モニカはこくりと頷いた。そう…今まで他人が決めた事に従うだけのただの人形だった。でも。でも、これからは。
「だからこうして、今ここにいるのですわ」
これからは自分の意思で。自分の思う通りに生きて行こう。誰の為でもなく自分自身の為に。そして今度は真っ直ぐにあの人の瞳を見つめて。
…伝え、よう…この気持ちを……
何度も言いかけて、言えなかった言葉がある。何度も寸での所でその言葉は飲みこまれてしまって。何度も何度も後悔に襲われた。
「何か、ユリアン変わった」
「そうか?」
「うん。何だか私の知っているユリアンじゃない」
大きなエレンの瞳がユリアンを覗き込む。その瞬間ユリアンは不思議な感覚に囚われた。でも。でもそれは、何処かで…気付いていた。
「そうだね、変わったかもしれない」
彼女の髪から擦り抜ける太陽の香りも。生命力を感じさせる大きな瞳も。何かもかも変わってはいない。何一つ変わってはいない。けれども。
けれども自分は変わってしまった。以前ならくすぐったい程にときめいた心も。うるさい程に高鳴った鼓動も。それはもうここには無い。ただ暖かく懐かしい気持ちにさせるだけで。柔らかな想いを思い起こさせるだけで。
「何だか少し、淋しいね」
…その瞬間に永遠の心の鍵が掛かった。それは甘酸っぱい想いとともに、永遠に閉じ込められる。想い出と言う名の箱の中に。
「ユリアンは今、何をしているの?」
「君こそどうしてランスに?」
「私は自分の生きる道ってやつを捜している」
「俺も、捜している」
「…え?」
「君と同じだよ。ただ捜しているものが違うだけで」
自分の生きる道。それは彼女を護る事。もう二度とその手を離さない事。そして言えなかった言葉を伝える為に。それだけの為に自分は今、ここにいる。
「どうした?ご機嫌斜めじゃん」
「別に悪くないわよ」
そう言いながらもエレンの口ぶりは明かに不機嫌だった。そんな彼女にハリードはつい笑いを零してしまう。
「何笑ってんのよっ!」
「わるい、わるい。そんなに膨れながら言うからだよ」
「…別に膨れてなんか……」
そう言いながらもエレンは何となくバツが悪そうだった。けれどもハリーはそれ以上追及はしなかった。何となく、気持ちが分かってしまったので。
モニカ姫のプリンセスガードとしてロアーヌにいる筈のユリアンが、聖王廟を見学する為にランスを訪れていた二人に会ったのは昨日の事だった。それは本当に突然の事で、少なくともエレンをとても驚かせた。けれどもハリードの反応は少し、違っていた。
ランスに訪れる途中でツヴァイクへ嫁ぐ筈のモニカ姫の船が難破した事を聞いていたので。そして。そして、ここでユリアンに出会った事で。ハリードは一つの確信をした。
…それは哀しいくらい、自分の想いに似ている……
「あの坊やの事、好きなのか?」
「別に好きでも嫌いでもないわよ。そんな風に考えた事ないもの。そりゃー幼なじみとしては大切に思っているけれどね」
「そうか、それならいいけどね」
「どう言う意味?」
「…いや…あいつの瞳が俺に…似ていたから…」
「…似ていた?……」
エレンの問いにそれ以上ハリードは答えなかった。それを口にするには重過ぎる程の想いだったから。そう、重過ぎるほどの想い。
…愛する者を、求める想い。
「でも惜しい事をしたな。あの坊やちょっと見ない間に凄くいい男になっていたしな。後で後悔するかもな」
「別に後悔なんてしないわよ。ただ」
「ただ?」
「…少し…淋しいだけよ…自分のものが他人のものになっちゃったみたいにね…」
…それを‘恋’と呼ぶんだよ、とは。
ハリードには言えなかった。けれども何時しかそれに気付いた時に、甘い想い出となっている事を祈るだけで。
…たった一言、それだけを伝える為に。伝える為だけに、僕らは生きている。
とれだけ、この地上をさ迷っただろうか?とれだけこの地上を捜しまわったのだろうか?
…どれだけ…その面影を瞼に想い浮かべたのだろうか?…どれだけ……。
「…モニカ…さ…ま……」
柔らかい金色の髪。大きな空色の瞳。何千の夜、何万の朝、思い浮かべたその人が今、自分の目の前にいる。
「…ユリ……ア……ン………」
彼女の声は最後まで言葉として発せられなかった。もう後は。後は涙で滲んでしまって。
「モニカ様っ!」
その場に崩れ落ちそうになるモニカを寸での所で支えると、そのままユリアンは彼女の細い身体を抱きしめた。
「…本当に…ユリアン…貴方なのですね……」
モニカの腕がその存在を確認するために、ユリアンの背中に廻される。その腕は切ない程に、震えていた。
「ずっと捜していました、モニカ様。ずっと……」
ずっと、ずっと。ずっと彼女の事だけを。それだけを、それだけを想っていた。ただ、それだけを。
「…私も…捜していました…ずっと…ユリアン……」
何も、いらない。お互い以外には何一つ。今伝わるこのぬくもり以外には。この伝わる鼓動、以外には。
…もう何も…なにひとつ欲しいものなんて、なかった……
「あの時どうしてこの手を離してしまったのだろうと、そればかりを考えてました」
モニカの細い指先がユリアンのそれに絡まる。ユリアンはそっとその指を包み込んだ。触れ合った指先から互いの体温がそっと伝わる。
「もう、離しません。絶対に。絶対に俺はモニカ様の傍を離れません」
「ユリアン…未だ…私に‘様’をつけるのですか?」
「…あ、いや…何か癖になってて…」
本当に困った顔で答えるユリアンに。そんな彼にモニカは柔らかく、笑って。
「早く直してくださいね。そうでないと私、困ってしまいます」
「モニカ様…じゃなかったモニカ…どうして?」
「だって恋人の名前は‘様’を付けて呼ばないのでしょう?」
心地よい重みがユリアンの身体に掛かる。自分に凭れ掛かってきたモニカの細い肩を、ユリアンは少し照れながらも抱き寄せて。
「…そうだね…モニカ……」
ゆっくりとモニカの頬に手を掛けると、そっと彼女の唇に口付けた。その時少しだけ、彼女が震えたのがユリアンに伝わって。伝わったから。それが何よりも愛しくて。
「…未だ、ちゃんと言ってなかったね」
「ユリアン?」
「好きだよ、モニカ」
ユリアンの言葉に、モニカはこくりと頷いた。ずっとずっと、伝えたかった言葉。それだけを。それだけを伝える為に、互いは互いを捜し続けた。
「私もです、ユリアン」
もしも世界が終わる瞬間が来ても。ふたりでいれば怖くない。
…絡めた指を離す事は、もうふたりには出来ないから……