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薔薇の薫り


―――ずっと、貴女だけを…見ています……


もう二度と、貴女に触れる事は出来なくても。
もう二度と、貴女に語りかける事が出来なくても。
もう二度と、貴女の瞳を見つめ返す事が出来なくても。

…私はずっと…ずっと…貴女だけを……


消える事のない、薔薇の香り。甘く切ないその匂いだけが、全ての運命の絆だった。
「アセルス、本当に支配者…なんだね」
かつて共に戦った彼女は少しだけ淋しそうな顔で僕にそう言った。何時も元気で明くるくて、どんな時でも。どんな時でも僕の心をその眩しさで慰めてくれた彼女。
「でも何も…何も変わらないよ、アニー」
本当に何一つ代わらなかったならば、僕はここにはいないだろう。このファシナトゥールに。この過去しかない場所に。それでも。
「うん、その言葉信じるよ」
こつんとひとつ私の頭を叩いて、彼女は微笑った。その顔はやっぱり、ずっと変わらない眩しい笑顔だった。その笑顔に心の中で感謝しながら、僕はただ口許で笑い返すしか出来なかった。


身体に宿るこの血の宿命から逃れる為に人として生きる道を選ぶ事も出来た。
全てを忘れて未来と言う道を、選ぶ事も出来た。けれども、僕は。
私はこの場所から、この呪縛から、逃れる事が出来ない。僕は。

―――僕は過去から、進む事が出来ない……



むせかえるほどの甘い薫りが、何時も僕を包み込む限り。



「君は何も喋らないから…本音を言ってもいい?」
全てが終わった時、僕は他だ一度だけ本当の事を言った。多分僕は言葉にしなければ、きっと。きっと壊れてしまっていたのだろう。だからこそ、僕は。
「僕は多分、逃げているんだ」
そんな僕に君はずっとそばにいて、言葉を拾ってくれた。ただずっと、僕の零れてゆく言葉を。
「白薔薇のいない世界を受け入れられないから…僕は……」
「……」
君がそっと微笑う。優しい笑顔だった。君は決して言葉を紡ぐ事はないけれど、それでもこうして。こうして言葉よりももっと大切なものを伝えてくれるから。
「僕がファシナトゥールの支配者になろうと思ったのはただ一つ…ここに白薔薇がいるから。白薔薇の薫りが…消えないから……」
闇の迷宮に永遠に捕らわれた君。僕のもとへと二度ともどってくることはない君。けれども。けれども、僕は。
「ごめん、サイレンス…僕は少し弱くなっているみたいだ…」
そんな僕の呟きに君はゆっくりと首を横に振ってくれた。それだけで、僕は救われる。


―――アセルス様……
目を閉じて呼ばれるのは、その声だけ。耳元をすり抜ける、甘い声だけ。
―――ずっと、白薔薇は……
白い、手。細い、指先。僕の髪にそっと触れる指。
―――貴女だけを……
君の腕の中で、ずっと。ずっと眠っていたかった。


あれほど憎んだ妖魔の血にこだわる僕は。
他だ独りの君を、忘れる事が出来ないから。


「君は過去に捕らわれるんだね」
同じ痛みを持つ君は、それでも未来へと進んで行った。自らの大切な兄弟をその手で、殺して。そして永遠に消えない鎖を腕に巻きつけている君は。
「―――僕には白薔薇を…思い出に出来ない…ただそれだけだ」
「僕もブルーを思い出には出来ない…それでも前に進まなければいけない」
「うん、分かってる。それが君が選んだ道だ」
決して消える事のない罪。決して忘れる事の出来ない存在。それを胸に。それを全ての思いにして、それでも君は前に進もうとする。強い心で、強い思いで。
「アセルス…君にもきっと未来はあるよ……」
「…ルージュ……」
「きっと、君にも未来はあるんだ。過去に捕らわれないで」
分かっている、きっと。きっと君の言葉は正しくて、そして。そしてそれが本当の事だろう。けれども今は。今は、まだ。
―――まだ僕を包み込む薫りは…消えないから……




望みは、ただひとつ。
ただひとつ、貴女の。
貴女のしあわせ。
私はそれだけを。
それだけを願い。
それだけを願い、今ここに。

―――ここに聴こえない祈りを、貴女に捧げる……


アセルス様、未来を。
未来を、見てください。
貴女にはいっぱいの光と。
そしていっぱいの強さが。
そこにあるのだから。
だからアセルス様、前を。

―――前を見て…ください………



「本音言って…お前はここに残るとは思わなかった」
イルドゥンに言われた時、僕は僕もそう思ったと苦笑混じりに言った。
「オルロワージュ様の呪縛はもう何処にもない。それなのにお前はここに縛られるのか?」
「―――僕を縛るのはオルロワージュじゃない」
僕を縛るのはただ独り。甘い薫り、むせかえる薫り。白い手、白い指。ただひとつの。ただひとつの…。
「…僕を縛るのは……」
「分かっている、それでも。それでもお前には…別の道を歩んでほしかった…」
イルドゥンの言葉に僕は、何も答える事は出来なかった。



多分、未来は。多分、別の道は。
僕の前に広がって、そして。そして流れてゆくのだろう。
綺麗な道が、きっと広がっているのだろう。
それでも、僕は。僕は…


「…白薔薇……」
棺の中の君。幻の君。もう二度と逢えない君。君が眠っていたその棺を抱きしめ、そして口付ける。それだけが。それだけが今の僕と君を繋ぐただひつのもの。
「…白薔薇…白薔薇……」
それがただの自己満足でしかないとしても。ただの独り善がりな欲望でしかないとしても。それでも。それでも、僕は。
「…君が…いればそれでいい……」
前に進めなくても、何処にも行けなくても。君が、君がいればそれでいい。


―――僕の心に、ずっと君がいれば…いい……



アセルス様、ずっと。
ずっと私は貴女を見ています。
例え声が届かなくても。
例え視線が届かなくても。
私はずっと。ずっと貴女だけを。

…貴女だけを、見つめています。アセルス様……



何時しかアセルスはその棺の上で眠ってしまっていた。そんな彼女の廻りをふわりと。ふわりと薔薇の薫りのする風が包み込んだのを。


…彼女は知る事は…なかった……


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