死にゆく魂に捧げる、ただひとつの愛の歌。それを唱えられるはずの貴方の声は枯れ、空に飛び立つ筈の翼は、自らの手でもぎ取られていった。
捧げる祈りの言葉は神に届く事はなく、そこから零れるのは無言の悲鳴だけで。泣けない瞳から零れる血の涙だけが、全ての答えだった。
それを聴き、そして天に捧げる事すら、今の私ではただの無力な虚空でしかないのだろう。それでも唱える祈りの言葉は、貴方の耳に届く日が来るのだろうか?
「――――顔を上げなさい…パーシバル将軍」
一面のむせかえるような花びらの匂いが、生暖かい血の薫りを消し去ってゆく。本当はずっと貴方はこの薫りに埋もれていたいのだろう。生暖かい血の、薫りに。花びらの甘い優しい薫りよりも、貴方にとって必要なのは最期のぬくもりが残っている、この生臭い血の薫りだけ。
「………」
俯いたまま、貴方は決して顔を上げる事はない。棺の中にある死体を直視しないように。それを見ないようにと、俯いたまま。そうして貴方は今この場所にある現実から逃れようとしている。全てから逃避しようとしている。
「貴方が見届けなければ意味はないのです。彼の魂はさ迷ったままなのですよ」
私の言葉は果たして彼に届いているのだろうか?今この声は彼に届いているのだろうか?全てを拒絶し自らの内側に逃避しようとしている貴方に。
「…レ…イン……」
「顔を上げなさい、将軍。それが貴方の務めです」
ぽつりと零れた言葉はただひとつ。ただひとつその棺の中にある名前。棺の中にある塊の命ある頃の『名前』。でも今ここにあるのはその名前だった塊だけだ。彼はもうこの場所の何処にもいない。地上の誰もが届く事の出来ない綺麗な場所へと旅立とうとしている。
「…クレ…イン……」
「現実を見つめなさい、将軍。もう彼はこの世の何処にもいない」
「――――」
土の上に置かれていた手を強引に掴み、そのまま立ち上がらせた。まるで人形のように生気のない身体は非力な私でも簡単に立ち上がらせる事が出来た。かくんと首が垂れて、そのまま私の腕の中にその肢体が落ちてくる。それはまるで糸の切れた操り人形のようだった。
「貴方にとって失って怖いものは…あの王子だけだと思っていた。けれどもそうではなかったのですね」
普段から騎士として鍛え上げられているはずの身体が、今はひどく頼りないもののように思えた。実際焦燥し切っている彼は、戦場においての無類の強さの影は何処にも見えなかった。これが彼の本来の姿なのかもしれないと思えるほどに。
「貴方にとって絶対の王子よりも失って怖いものが…彼だったとは…随分と皮肉な運命ですね」
私は今自分でも残酷な事を告げていると、思った。けれども何故か止める事は出来なかった。彼が憎いわけでもない。彼を追い詰めたいわけでもない。ただ事実を述べているだけなのに、私はひどく自分が酷い男だと思わずにはいられなかった。それでも自分を、止められないのは。
「大切な王子を護るために、彼は死に至った。貴方の護りたいものを護ったために、貴方は一番大切なものを失ってしまった」
「…うっ…うう……」
私の言葉に貴方の口から声にならない声が零れて来る。それは何時しか嗚咽になり、押し殺した悲鳴となった。私はそれを聴きながらひどく。ひどく自分の心が満たされている事に気が付いた。そう、満たされている事に。
「―――貴方は本当に大切なものを、永遠に失ってしまった」
私の肩に顔を埋め、声にならない声で悲鳴を上げる貴方を抱き寄せながら。抱き寄せながら、私は。私は自分の心が血の色に染まってゆくのを…止められなかった。
綺麗な金色の髪。強い意思を持ちながら、何処か壊れている瞳。それに気付いたのは何時だっただろう?何時から、だったのか?
戦場で戦う貴方と杖を振るい癒しの言葉を述べる私とはあまりにも遠い存在だった。清廉過ぎる心と強い忠誠心だけで生きている貴方と、現実だけを見つめている私は何よりも相容れない存在だった。
だからこそふとした瞬間に。ふとした瞬間に、貴方は私の視界の中に飛び込んできた。
純粋に綺麗だと思った。戦っている貴方はひどく綺麗な生き物だと。その髪を血に塗れさせても、たくさんもの消えない傷を作っても、ひどく。ひどく綺麗な生き物なのだと。
それは私には持ちえないものだった。私には持つことの出来ないものだった。穢れを知り、醜い現実を直視してきた私にとって。
奇妙だと思った。神に仕えし私よりも、血塗れの貴方が綺麗だという事が。
「―――顔を上げなさい、将軍」
その言葉にまるで操られたように貴方の顔が上げられる。綺麗な貴方の瞳は完全に壊れ、そこから血の涙が溢れていた。その涙を舌で辿りながら、髪を撫でる。柔らかいその髪を。
「…クレイ…ン……」
貴方の口から零れるのはただ一人の愛する者の名前だけ。今はもういない愛する者の名前だけ。その名をずっと貴方は呼び続ければいい。永遠に貴方の元へと帰って来ない、ただ一人の名前を。
「…クレイン……」
その名を呼ぶ時だけ、ふと。ふと貴方の瞳の色が変化する。それはひどく。ひどく、綺麗だった。哀しいほどに綺麗だった。貴方が彼の名前を呼ぶ時だけ、そんな瞳をするのだと。こんな瞳を見せるのだと、その事実だけが私の胸に落ちてくる。
「そんなにも彼が好きですか?将軍。あんなにも強い貴方を、ここまで壊してしまうほどに」
強いというのは嘘だと分かっていた。貴方は、本当は強くはない。でなければあんな不安定な瞳をしたりはしない。あれだけ確固たる信念と忠誠を持ちながら、何処か壊れた瞳を。
「―――そんなにも彼を…愛しているのですね……」
けれどもそれが。それがどうしてなのか、今分かった。今、気が付いた。迷いのないはずの思いと、ただひとつの信念りも、もっと。もっと深く激しい想いが、貴方の中に存在していたから。その想いこそが、貴方の不安定さと、そして壊れた瞳だった。
「…クレイン…私は…お前だけを……」
微笑った。ひどく綺麗な顔で、貴方は微笑った。その顔があまりにも綺麗で、あまりにも儚く見えて。私は。私は気付いた時にはその身体を、組み敷いていた。
愛ではなかった。嫉妬でもなかった。
破壊衝動でもなければ、救済行為でもなかった。
そこに何があるのかと聴かれれば。聴かれれば。
今の私には答えが、思い付かなかった。
「…あっ…ああっ!……」
愛する者の屍の前で、貴方を抱いた。口から零れるその名前を持つものだった塊の前で。
「…クレインっ…クレインっ!……」
脚を開かせ、淫らに蠢く器官を貫く。抱かれる事に慣れた身体だと侵入して直ぐに分かった。貫いた途端淫らに媚肉が絡み付いて来る。刺激を逃さないようにと、きつく。
「…あぁぁっ…私はっ…あぁっ……」
背中に爪を立てながら、愛する人の名を呼ぶ。もう何処にもいないその人の名前を呼ぶ。それをひどく冷静な気持ちで見下ろしながら、私は欲望のままに身体を進めた。肉欲は確かに今ここに存在していた。乱れる姿に溺れ、無茶苦茶にしたい衝動に駆られる。
けれども身体の熱さと反比例するように、ひどく。ひどく心が冷めてゆくのが分かった。心が冷静になってゆくのが分かった。
「―――っ!!!」
腰を引き寄せその体内に欲望を吐き出した瞬間…襲ってきたのは激しい空虚だけだった。
「…クレイン…約束した…お前だけは…言ってくれた…ずっと私のそばにいると……」
意識が途切れる瞬間に、貴方の零した言葉が。その言葉が全てだった。その約束だけを信じ、彼だけを信じ、そして壊れた。それだけの事、だった。
貴方は最期に、信じたのだ。何もない貴方が唯一手にいれたものがそれだったのだ。騎士として生き、自分自身を捨てた貴方の。貴方のただひとつの『ひと』として、信じたものが。国と王子の為にしか生きられなかった、それ以外の生き方を知らなかった貴方の唯一の。唯一の自分自身として、手に入れたものが…ただひとつの約束だった。
「…そうか…私は……」
意識のない貴方の髪を撫でながら、その金色の髪を撫でながら。私は自らの答えに辿りついた。突き上げてくる衝動と、そして冷めた心の答えを。
「――――私は貴方を……」
「…貴方を…救い…たかった……」
それは愛でもなく、欲望でもない。
けれども愛であり、そして欲望でもあった。
無意識に視界に飛びこんできたのは、無意識に自分が追っていたから。
壊れかけた貴方の瞳を。不安定な貴方の瞳を。ただ一人、貴方を。
貴方が次に目覚めた時、私に貴方はどんな瞳を見せるのだろうか?
現実を見つめることが出来る瞳なのか。それとも完全に壊れた瞳なのか。
それは分からない。分からない、けれども。
…けれどもどんな瞳に出逢おうとも、私は貴方を追う事を止められない……