深い緑の奥に、静かに漂う夢の跡。それは永遠に消える事無く、この胸の奥に眠るのだろう。眠る事しか、出来ないのだろう。
『―――あの時の事は…忘れてください…ダグラス殿……』
王子がこの国に戻り全てが元通りになり、それでいながら全く違うものになったのは、一重に目の前の男のせいだとダグラスは思った。けれどもそれを修正する事も戻る事も出来ないのは、嫌と言う程に分かっている。いやむしろ戻る事がしあわせとも限らないのだから。
「…自分勝手だとは分かっています…でもあの時の私は正常じゃなかった……」
ぽつりと呟くように言う青年を、ダグラスは責める事は出来なかった。責めることが出来るはずが、ない。あの時自分自身も正常と言われれば…そうではなかったのだから。
「分かっている、パーシバル。お前は王子に仕える騎士だ…それだけが事実だ」
「…ダグラス殿……」
自分を見つめる彼の顔が何時もよりも白く見えるのは気のせいじゃないだろう。エトルリア人特有の白い肌の持ち主だった。太陽の光を浴びても焼ける事のない、白い肌。その白さが今は何処か憔悴し青白く見せていた。
「…ありがとう…ございます……」
綺麗な金色の髪がふわりと揺れて、そして頭を下げるパーシバルを見つめながら、ダグラスはある一つの疑問を抱いた。けれどもそれを口に出す事は自分には出来なかった。
あの日は空から激しい雨が降っていた。それぞれの心と未来を案じるような激しい雨が。その中で知らされた事。知らされた、事――――ミルディン王子の死亡。
それがどれだけエトルリアの未来を闇に閉ざされたか。それがどれだけ皆の心に激しい痛みと絶望を植え付けたか。その瞬間を思い出せば今でも胸が痛むほどに。
その中でも一番絶望し壊れていったのは、パーシバルだった。自分は国に王に仕えていたという自覚はあったが、彼は…パーシバルが仕えていたのは『王子自身』だった。それが彼の唯一ともいえる生きる意味だった。
それがあの日、突然失われた。突然消滅した。突然、なくなった。
激しい雨の中、まるでその雨の中で自分を無くしてしまうおうかというように。そのまま王子の後を追うかというように。色の無い顔で、表情すら無くしてしまった顔で、パーシバルは立ち尽くしていた。
そんな彼を見つけ、無理矢理自分の屋敷へと連れていった。焦燥し、衰弱し、今にも壊れそうな彼を。そして。そして……。
雨が、降っていた。外では激しい雨が。
「…ダグラス…殿…私は……」
激しい雨が、世界を覆う。哀しみで覆う。
「…私は…どうすればいい?…もう……」
そして全てを。全てをその雨が隠してゆく。
「…もう…どうしていいのか…分からない……」
全てを激しい雨が、隠してゆく。
小刻みに震える身体を、気付いたら抱きしめていた。そこに何があった訳ではない。ただ冷たかったから。ひどつ冷たい身体をしていたから、抱きしめただけだった。それだけだった筈なのに。
『…もう…何も考えたくない……』
腕の中でそう呟くと顔を上げ、そのまま。そのまま唇を重ねてきた。そのまま拒めば良かった。拒まなくてはいけなかった。けれども気付けば。気付けばその身体を。その濡れた身体を床に組み敷いていた。
憶えているのは甘い吐息と、触れるたびに朱に染まってゆく白い肌。今まで彼をそういった対象で見て来た事など無かった。そういった想いなど考えた事も無かった。けれどもこうして腕の中に抱いて、肌を重ねれば。こうしてその身体を貫けば。沸き上がってくるのは激しいまでの欲望だった。
その腰を掴み思いのままに揺さぶり、中を抉り欲望を吐き出したいと。最奥まで貫いて、自分の名前を呼ばせたいと、そう。そういった衝動が激しく自分を襲った。けれども。
けれども抱いた瞬間に、気が付いた。その身体がこういった行為に慣らされている事を。同性に抱かれると言った事をすんなりと受け入れている身体。それを意味する事はただ一つ。ただ一つ。彼が身も心も全て王子のものだという事。こうして男に抱かれる事を、王子の手によって憶えていたという事。
それでもその身体に溺れた。貫いた器官は熱くきつく、自身を締め付ける。淫らに内壁は絡みつき、それを引き裂くたびに口から零れる悲鳴のような声が。
汗ばみ濡れた肌が。夜に濡れた深い蒼い瞳が。その全てが、無茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。このまま激しく貫いて壊してしまいたいという衝動に。
ただ背中に爪だけは、立てられなかった。どんなに激しく貫いても、背中に爪だけは。爪だけは…立てられなかった。
「あれは夢だった、そうだろう?」
ダグラスの言葉に顔を上げたパーシバルは、こくりと頷く事しか出来なかった。例えどんな理由であろうとも、自分からその行為を求めたのは事実だった。自分から、熱を求めた。
「わしにとっても、お前にとっても…それだけの事だ」
「…ダグラス殿……」
そこにあったのは、愛ではなく哀だった。憐れみで、そして傷の埋めあいだった。空洞になった自分の心を身体で埋めようとしただけだった。それだけだった。
「お前は王子の騎士だ、永遠にな」
その言葉にパーシバルは頷く事が…出来なかった。それを見てダグラスは、さっき浮かんだ疑問の答えに気が付いた。けれどもそれを。それを口にする事は…最期までしなかった。
爪を、立てていた。背中に爪を、立てていた。
唇を噛み締め声を殺しながらも、その背中に。
その背中に爪を立て、そして。そして彼を受け入れていた。
…あの時彼を抱いていたのは。あの時その身体を、抱いていたのは……
「…パーシバル、一つだけ聴いてもいいか?」
答えは彼自身の中にある。それをダグラスは知る権利は無い。そしてそれを知った所でどうにもならない事も分かっている。それでも。
「何ですか?」
それでも例え一度でも。一度でも、その身体を重ねたのだから。たとえそれが二人の永遠の秘密であろうとも。
「お前には王子よりも、大切な存在があるか?」
確かにこの腕が、その身体を抱いたのだ。確かにその身体を貫いたのだ。そして身体を、繋いだのだ。それは事実だから。事実なのだから。
「――――それは…私には答えられません…けれども……」
例えこの背中に爪を立てて貰えなかったとしても。それでも自分にとっては消えない記憶として残るものだから。
「…けれども私は……」
「…あの時と違った意味で…今死にたいと思ってます…王子の騎士のままで……」
その言葉にダグラスはひとつ頷いた。今彼にそんな事は許さないと、あの時のように死ぬのは許さないと。そう言う事は、自分は出来なかった。それが答えだと、嫌と言うほどに分かったから。
「―――そうか……」
自分では救えなかったのだ。あの時壊れた彼を、救えなかったのだ。一瞬だけその空洞を埋める事は出来ても、本当の意味で彼を救う事は出来なかったのだ。
「…それ以上は…聴かないでください…そして私にも言えません……」
憐れみと同情と、そして欲望だけでは救えない。背中に爪を立てることを出来なかった自分には。
深い森の、その奥に。その奥に全てを閉じ込めよう。この秘密と、そして。そして自分が見た彼の罪を、そっと。そっとこの森に埋めてしまおう。その先は誰にも、自分にも、立ち入る権利など無いのだから。
…そして微かに残るこの胸の甘い疼きも…永遠に閉じ込めよう……