初めてお前が『私』ではなく『僕』と言った日。遠くから、波の音が…聴こえた。
夜の海は世界の全てを呑み込もうかというように、ひどく暗い色をしていた。漆黒とは違う青みががった黒。それが銀の砂の上を覆い、月に照られた淡い光を連れ去ってゆく。
「このまま時が止まってしまえたらいいのに」
消えた砂を辿るように素足を水に浸したら、その手が遮るように腕を掴んだ。それに反応するようにパーシバルは振り返り、自分を掴む腕の主を見つめた。
「それは言うな…クレイン……」
見つめて後悔をするのは何時もの事だった。全てを射貫くような真っ直ぐなアメジストの瞳。綺麗で純粋で、そして穢れのないその瞳こそが、何時も自分を追い詰めると分かっているから。それでも吸いこまれそうになるその色を見つめてしまう事を、パーシバルは自分自身ではどうにも出来なくなっていた。
「ならばこのまま時を止めてしまえたらいいのに」
掴んでいた手がそのまま腕を滑り、手首を取った。そして指先を自らの唇に引き寄せると、その手にクレインは口付けた。
「…また傷が…出来ている……」
パーシバルの指一つ一つを手に取ると、その全てに唇と舌をクレインは這わした。そうして指に刻まれた傷跡を見つけるたびにクレインはその全てを舌で辿るのだ。そうやって彼は自分を記憶する。自分自身ですら知らないものを記憶する。
「最近の貴方は、まるで死に急ぐように戦っている…そんなにも死にたいのですか?」
傷口に舌が触れるたびにパーシバルの睫毛が震えた。見掛けよりもずっと長い睫毛だった。そこから零れる月の淡い光がクレインの紫色の瞳に落ちてくる。それを綺麗だと思う前に、パーシバルの睫毛は降ろされた。
「―――王子の騎士のまま、死にたいのですか?」
言われた言葉に答える事が出来ず、ただパーシバルは睫毛を上げてクレインを見つめるだけだった。それは正しくて、そして間違っている答えだったから。そしてそれを誰よりも目の前の人物が知っている筈なのだから。
「…クレイン…お前は私を…許せないか?」
「許す?どうして?許すも何もないでしょう?貴方は王子のもの。王子だけのもの…それは私には嫌と言う程に分かってます」
「…それでも私は…お前を拒めなかった……」
「拒んでも拒まなくても、私の苦悩は変わりません。どうやったって貴方の全てを手に入れる事は、私には出来ないのだから」
絡まっている指をそのまま引き寄せられ、きつく抱きしめられる。その腕の強さに甘い吐息を零す事を、パーシバルは止められなかった。どうしても止める事が、出来なかった。
このまま死ねたらと、思う瞬間は。
戦場の上よりも、こうして。
こうして抱きしめられている瞬間。
この腕の中に強く抱きしめられている瞬間。
――――今この瞬間に、死にたいと…何時も思っている……
髪を撫でられる。髪に口付けられる。強く抱きしめられて、骨が砕けるほどにかき抱かれる。その腕の強さが何時しかパーシバルの全てを埋めていった。
「…嘘でもいい…将軍…私を好きだと言ってください……」
耳元に熱いと息とともに告げられた言葉に、ただひたすらにパーシバルは切なくなった。切なく、そして苦しかった。
自分から好きだと彼に告げたことはない。けれども彼が好きだった。彼だけが、好きだった。その想いは嫌になるくらいにパーシバルの心臓に絡みつき、根を降ろしている。恋とか愛とかそういったものは全て自分の中で排除してきた。王子以外のものに心を捕らわれる事などなかった。何よりも自分の中心に王子がいる以上、それを越える存在などありえない筈なのだから。
なのに今自分は恋をしている。どうにもならない恋を。それはどうにも出来なくて、どうする事も出来ない想いだった。
「…クレイン……」
愛している者に愛していると告げられない、そんな恋だった。本当に言いたい相手に言えない、そんな想いだった。それでも止める術を知らなくて。溢れる想いが自分を埋め尽くすだけで。
「…好きだと言って…ください……」
熱く真剣な想いに呑み込まれながら、それでも必死の所でパーシバルは堪えた。その言葉だけは、言えなかった。言ってしまえば二人の間に永遠の枷が植え付けられる事が分かっているから。だから、言えない。言えなかった。それでも。
「…その言葉は…私が死に場所まで持ってゆく…だから言えない……」
「…将軍……」
「これ以上お前に私という枷はつけられない」
手を伸ばした。手を伸ばしその頬に触れ、パーシバルは。パーシバルはそのまま自らに引き寄せ、彼の唇を塞いだ。言葉で言えないものを今。今伝える方法はこれしかなかったから。
「今この場所でもしも貴方を殺したら…最期に好きだと言ってくれますか?」
「――――クレイン……」
「私の為にその言葉を与えてくれますか?そうしたら私は迷わず貴方を殺して私も死にます」
「…それは駄目だ…クレイン……」
「どうしてですか?」
「駄目だ、クレイン。私より先に死ぬな。そして私への想いを死に場所まで持ってゆくな」
「…それは無理な相談ですよ…将軍…もう無理なんですよ……」
「それでも駄目だ。死に場所まで…私に捕われるな…私はこれ以上お前を不幸にしたくない」
「不幸?そんなもの私にとって貴方を想えない事以外に何もない」
「…クレイン……」
「貴方を愛せない事以上に不幸な事なんてない。私は…いえ……」
「…『僕』は…貴方を愛する事が…自分の存在全てだから……」
本当なら今この瞬間にお前の唇を奪って、舌を絡めあって。そしてそのまま。
そのまま互いの舌を噛み切って。噛み切って、繋がったまま。
繋がった、まま。そのまま溺れてそして消えてゆけたらと。消えてゆけたら、と。
けれども深い海の闇は二人を連れて行ってはくれない。全てを呑みこんではくれない。
どんなになっても零れるものがある。この砂のように零れてゆくものが、ある。
――――それがある限り、私はお前とは逝けないから。
「愛しています…将軍……」
塞がれる唇の熱さがパーシバルにとっての罪で。
「…誰よりも…貴方だけを…僕は……」
彼の罰でもあり、そして喜びでもあった。
「…愛しています…パーシバル……」
それをどうする事も出来なくて。それはどうにもならない事で。
それでも止められないものだった。止めることの出来ないものだった。ただこの場に立ち止まり、愛という名の迷路にもがく以外に何も…出来なかった。