近くから、遠くから響く鐘の音。その音に包まれ、最期の糸がぷつりと、切れた。傾きかけた十字架からぽろぽろと銀の破片が零れて、床に散らばった。
「私は結局聖職者でも何でもなかった。ただの一人の男だった」
見下ろした相手の金色の髪が、窓から零れる月の光にそっと反射するようにきらきらとした。その淡い光に包まれたその色は、ひどく幻想的にサウルの視界に映った。
「それに気付かせてくれたのは貴方ですよ…将軍」
失われた片手を上げようとしている動作が、ただひたすらに哀しかった。その手を失ったから愛するものの屍すら抱けなかった。抱こうとして零れてゆくその屍を。
「所詮全ては私のエゴだった。それだけです」
ぺたりと床に座ったまま空っぽの瞳で自分を見上げる相手を、サウルはしゃがみ込みそのまま腕を伸ばして抱き寄せた。その身体には騎士の中の騎士と言われた鍛えぬかれた肉体は何処にもなかった。食べる事すら忘れた身体は、あばらが浮き出るほどに細く壊れそうなほどだった。
壊してしまいたいと、ふと思った。このままきつく抱きしめ、粉々にしてしまいたいとも。
そんな衝動が自分にある事にサウルは苦笑せずにはいられなかった。こんな熱い感情が自分の中にもあったという事が。今まで何時も自分は全てを冷めた目で見ていた。ありのままの現実を受け入れていた。夢など見る事無く、未来を語る事もなかった。そんなものを語ってもどうにもならない事を知っている。
神を唱えながらも、多分一番神を信じていないのは自分だ。信じて全てが救われるのならば『自分』なんてものはいらない。ただ信じる事だけを考えればいいのだから。
本当に大切な事は自分の意思で考え、そして実行する事だと思っている。その為の自分を信じる力の為に神に祈る事が、一番必要な祈りだという事も。
その為の手段だと。自分自身の力を信じるための手段だと。その為に祈りがあるのだとも。
けれども今。そんな自分自身すらも否定するように…いや本当はこれこそが本当の自分の本質だと確認するように、サウルはその身体を抱きしめるのだ。
「壊れた貴方を救うために、教会に連れて行った…でもそれは貴方を救うためではなかった」
髪を、撫でる。金色の細い綺麗な髪。指先にこの感触が馴染むようになったのは、何時からだっただろうか?何時からこの髪がこんなにも。こんなにも自分の指に心地よい感触を与えるようになったのか。
「―――本当は貴方を王子から引き離したかった…それだけだった」
クレインの亡骸を見つめながら壊れゆく彼に、初めてふたりの関係に気付いた王子はそれでも彼を手に入れようとした。それを自分が無理矢理引き離した。
王子には分かっていた筈だ。相手が自分を庇って死んだ以上、永遠に彼は自分のものにはならないと。それでも手放したくないと言った王子から、教団の力を使って彼を奪った。
―――発狂した人間に適切な治療として……
そんな大義名分を掲げながら、実際自分こそが彼を手元に置きたかったのだ。狂って、初めて自分の手元に降りてきた存在。壊れて初めて、この腕に与えられた存在。
「今更ながらにそれに気付かされて…私は自らの愚かさを知った……」
欲しかったのは自分の方だったのだ。手に入れたかったのは自分の方だったのだ。こんな形でも手に入れたかったのは…自分だったのだ。
入れ物だけになっても、心が壊れてしまっても、ここに残ったものが抜け殻だけでも、それでも。
「愚かですね、将軍…私はそれでも貴方が欲しかったのです……」
愛ではなかったはずだ。欲望でもなかったはずだ。でも欲しかった。でも手に入れたかった。それは明らかな矛盾を含んでいる。でも本当の事だった。自分にとっては、全てが本当の事だったのだ。
「…パーシバル将軍…私は貴方が…欲しかったのです……」
硝子のような瞳を見つめながら、その唇をサウルは塞いだ。それはただひたすらに罪の味がするだけだった。
私の愚かさは、私の罪は、壊れた貴方が欲しいと願った事。
完璧に見えながらも内側から崩れてゆく貴方を見つめながら。
見つめながら、何処かで思っていた。何処かで、願っていた。
――――全てが崩れ崩壊した貴方を。
それはどんなものよりも、きっと。きっと綺麗だろう。
どんなものよりも、美しいだろう。この世のどんなものよりも。
壊れゆく貴方は、何よりも美しいのだろう。
罪の味。甘い蜜の味。蕩けるような禁断の想い。どうしてそれを貴方に私は見出したのか。どうして貴方にそれを見つけたのか。
けれども、もう。もう今となってはそれすらもどうでもいい事になってゆく。
「…クレイン……」
染み出してゆく狂気の渦が私を静かに飲みこんでゆく。その中で貴方だけが綺麗だった。ここにいない貴方だけが、綺麗。
「…クレイン…何処だ…何処にいる?……」
何処にもいない貴方だけが綺麗。現実という名の醜い空間の何処にもいない貴方だけが。そこだけがただひたすらに美しい静寂の鐘を奏でている。そこだけが、貴方の心を弔っている。
「…何処に…いる?……」
伸ばされた手。現実にはない右手。けれども貴方がいる場所にはその手があって、そして彼の手に繋がっているのだろう。指先は絡まり、ぬくもりを分け合っているのだろう。ここではない何処かで。ここではない、どこかで。
「―――ここにいますよ、将軍」
それでもこの場所は現実だ。貴方がどこにもいなくても、私はここにいる。ここにいて、貴方に触れている。貴方の残っている左手に。
その指先を手に取り、そのまま手の甲に口付けた。そのままひとつずつ舌で指を絡め、私の中に貴方を取り込んでゆく。私の中に、貴方を。
「ここにいるから…貴方は何処にも行かないでください……」
抱きしめた腕の中で壊れ笑顔で微笑う貴方は何よりも綺麗でそして哀しい生き物だった。けれどもそれこそが。その笑顔こそが、私がどうししようもないほどに焦がれ欲しいと願ったものだった。
もしかしたらと、思う。もしかしたらこれこそが。
これこそが愛なのかもしれないと。歪んだ愛なのかもしれないと。
欲しいと言う願いこそが、彼への想いならば。
――――これもまた、愛なのかも…しれないと……