その髪に指を絡めた。そっと、絡めた。その感触が何時しか指先に馴染むようになった頃、私は心を蝕む闇ですら受け入れようと思うようになっていた。
ゆっくりと浸透する心を蝕む闇。痛みと切なさだけを伴い、そして心を侵蝕する闇。けれどもそれはお前を思う限り、決して消えはしないものだったから。
「――――将軍?」
私がお前の髪に自ら触れたのが不思議だったのか、その紫色の瞳が少しだけ驚いたように見開かれる。けれども私はこの指を離さずに絡めたまま、お前を見つめた。
「私がお前に触れたいと思う事は、変か?」
何時しか私達の身長はほとんど変わらないまでになっていた。こうして少しだけ頭を下げれば目線が合うほどに。私はお前がまだほんの子供の頃から知っていると言うのに、何時しかお前は私を『男』として抱きしめるようになっていた。
「いいえ、嬉しいです。将軍」
私だけがずっとあの頃のままのようだった。あの頃のまま立ち止まり、お前だけが前へと進んでゆく。大人へと成長してゆく。
私の後を追いかけていた少年は、何時しか私を欲望の対象として見るようになっていた。いや違う、私をお前は…。
「貴方からそう言って貰えるとは、思いもしなかったから」
愛していると、言った。ずっと愛していたのだと。子供だった少年は、私を真っ直ぐに見つめながら男の瞳でそう言った。私にそう、告げた。
「何時も私ばかりが…貴方を追いかけていたから……」
髪を絡ませていた指を取られ、そのままその腕の中に抱きしめられた。それは確かに男の腕だった。幼い子供の腕ではなく、立派な一人の男のものだった。
その腕に抱きしめられ私は静かに目を閉じた。命の鼓動が聴こえる胸に顔を埋め、その音を聴く。命の音を、聴く。
こうして抱きしめられひどく安心感を憶えたのは、お前の腕が初めてだった。
お前だけが、教えてくれた。お前しか、教えてくれなかった。
私にとって欠けていたものを。私にとって存在しなかったものを。
――――お前だけが…私を知らない場所へと…導いた……
ずっと私は王子のために生きていた。それが私の全てだった。
自分自身よりも何よりも大切な者は王子だけだった。
あの人に剣を捧げる事が、あの人の騎士になることが。それが。
それが私の生きる全てだった。私の存在の全てだった。
それ以外の生き方を知らず、それ以外の意味を必要としなかった。
私には『私自身』がなかった。私自身の心は、必要としなかった。
王子のために生き、王子のために死ぬ。それだけがあればよかった。
それ以外のものは何一つ私にあってはならずに、持ってはいけないものだった。
大切なものは一つでいい。それ以上抱えてしまったら、決して護りきれないから。
けれどもお前はそんな私の心を無理矢理開いた。
閉じ込めていたものを、捨ててきたものを無理矢理。
剥き出しの心と引き換えに、全てを。
私の閉じ込めて失くしてきたもの全てを暴き出した。
それは愛する事。誰かを、愛する事。忠誠でも騎士道でもなく、人として。
ただの人として、誰かを愛する事を。誰かを、愛する事を。
顔を上げて、お前を見つめた。一途とも言える真っ直ぐな瞳が私を見返す。思えばずっとお前は私にこの瞳を見せていた。ずっと私にこの瞳を向けていた。
「…クレイン……」
もう一度手を伸ばして、その髪に触れる。馴染んでゆく指先に伝わる感触。ずっと触れていたいと思うこの感触が、私を戻れない場所へと連れてゆく。二度と戻ることの出来ない場所へと。
「―――将軍」
指先は髪に触れたままで、私は目を閉じた。お前の唇が私の額に落ちてきたから。そのまま額から睫毛、そして頬へと唇が滑ってゆく。
柔らかく暖かいその感触に、自然と睫毛が震えた。唇を落とされてこんな風になる自分を私は想像も出来なかった。こんな風になってしまう自分を。
「パーシバル将軍…愛しています……」
囁かれる言葉、胸に落ちてくる言葉。愛していると言う言葉を私に告げたのはお前だけだった。お前だけがその言葉を私にくれた。私に与えてくれた。お前だけが、私に教えてくれた。
「愛しています、将軍」
そして私の唇にお前の唇が重なる。睫毛が震える口付けなんて、私は知らなかった。口付けだけなのにこんなにも、胸が震える事を。
私は王子のもので、それ以外のものにはなれない。
あの人がこの国を再建し、腐敗したこの国を改革すると告げた時。
自らの手を汚してでも、全てを行うと告げた時。
私は迷わずに、その手を取った。王子に着いてゆくと決めた。
上に立つが故の苦悩と孤独と、そして穢れてゆく手。
自らを犠牲にし、それでもこの国の為に全てを成し得ようとする王子を。
そんな王子を私は裏切る事は出来ない。裏切れはしない。
王子が歩む修羅の道の代償に、私は全てを捧げると決めたのだから。
けれども、それすらも。それすらもお前の前では無力なものになっている。
抱きしめられるたびに、胸が締め付けられ。口付けられるたびに、もどかしいほどに苦しくなる。身体を重ねてしまえば、そのぬくもりを求めずにはいられずに。愛される事を憶えた心は、激しいまでの渇望に襲われる。
「私が愛していると言うたびに、貴方の罪は増えてゆく。それでも私は告げる事を止められない」
王子には私しかいなかった。上に立つものの孤独を分かち合える相手は。けれども私には。私にはお前がいた。王子以外に見つけてしまった。
大切なものは一つでしかいけないはずなのに。大切なものは、ひとつでなければならないのに。
「構わん、クレイン…構わないから…言ってくれ……」
私は弱く、そして愚かな人間だ。分かっていてもそれども止められずに。止める事が出来ずに。この罪に身を焦がしながら、それでもお前を求める事だけが…止められない。
「…言ってくれ…お前の口から…聴きたい……」
自分からは決して言えないのに。自分からは決して告げられないのに。それなのに、私は求める事を止められない。求める想いを、止められない。
それがどんなに自分を傷つけ、深い闇へと落としてゆく事になると分かっていても。蝕む闇が全身を埋め尽くしてゆくのが分かっていても。
「愛しています、将軍。貴方だけを、愛しています」
「…クレイン……」
「…貴方だけを…愛しています……」
唇を、重ねた。そのまま互いの息を奪うように激しく重ねた。舌を絡めあい、唇が痺れるまで。感覚がなくなり、神経が麻痺するまで。何度も何度も唇を重ねる。
声が吐息に摩り替わり、想いが口付けに零れて、私はもつれる指をその髪に絡ませた。絡ませて指先に感触を伝えて、そして。そしてもう一度目を、閉じた。
浸透し蝕む闇に身を浸しながら、その闇ですら侵せないその綺麗な金色の髪に。