昨日の夢と今日の現実



昨日までその腕が私を抱きしめ、その指先が髪を撫でていてくれたのに。
今でもそのぬくもりが、この身体に。この身体に…残っているのに。


「危ないっ!王子っ!!」


ここでは身分を隠しているから、そう呼ぶなと言われたのに。言われたのに、私は我を忘れてそう呼んでいた。呼ばずには、いられなかった。
私は王子の騎士だから。王子だけの、騎士だから。だから貴方をどんな事があっても護らなければいけない。どんなになろうとも、貴方だけを。
私の命は貴方のもの。私の全ては貴方のもの。私の存在全てが…貴方のものだから。
貴方の前に咄嗟に立ちはだかり、そして。そして降りかかる剣をこの身体で受け止めようとして。受け、止めようとして…そして……。


「――――将軍……っ!!」



昨日まで、その指が私の髪に触れていた。
その腕が私を抱きしめ、その身体が私を。
私を激しく貫き、そして。そして夜の海に。
夜の海へと私を、溺れさせた。


『貴方のためなら、どんな事でも出来ますよ』
そんな言葉は聴きたくはなかった。そんな言葉は欲しくなかった。
『貴方の為ならば…私はどんな事でも出来るから…』
お前はお前の為に生きて欲しかった。私みたいに誰かの為にではなく。
『だから…もう少しこのままで…このままで……』
お前自身の為に、その為に生きていって欲しかったのに。



血が一面に飛び散った。生暖かい血が、飛び散った。
それは私の血でも、王子の血でもなく。敵の血でもなく。
真っ赤な真っ赤な血が、一面に。一面に降り注ぐ。
ぽたぽたと、一面に、その血が…降り注ぐ。


「…クレ…イン?……」


どさりと音ともに倒れた身体が。ふわりと宙に浮いた金色の髪が。綺麗な金色のその髪が…その、髪が。その髪が、真っ赤に染まる。血の色で、真っ赤に染まる。
「クレインっ?!」
王子が目の前で叫んでいる。どんな時でも冷静な王子が、珍しく大声を上げて。何かを…何かを言っている。何かを…叫んでいる。
何を言っている?何を叫んでいる?それを。それを私は聴くのが。聴くのが、怖い。怖くて怖くて、堪らない。その、言葉を聴くのが。


「…ぐん……シバル…しょう…ぐん……」


いやだ。いやだ。そんな声で私の名を呼ばないでくれ。何時ものように。何時ものように呼んでくれ。何時ものように…私の名前を呼んでくれ。そんな。そんな声を私は。私は聴きたくはない。そんな声を、お前から聴きたくはないんだ。


何時ものように、心を掻き乱すように激しく…けれども優しく…私の名前を……


―――パーシバル?……
王子が私の名前を呼んでいる。けれども声は遠くて。
――――止めろっ!パーシバル何をっ?!
遠すぎてもう。もう私の耳には届かない。届かない。
―――止めるんだっ!!お前の右手がっ!!
右手?ああ何か痛みを感じる。痛い、右手。でも。
――――パーシバルっ!!!
でも。でもそんな痛みなんてこころの痛みに比べたら。


お前を斬った男をがむしゃらに切り刻んだ。その瞬間背後から斬りかかった別の男が私の右手を切り落とした。重たい音とともに私の手が落ちてゆく。そこから飛沫のように血が溢れてきた。溢れて、そして。そしてお前の全身に散らばった。真っ赤な血の色が…散らばった。


「…か、ないで…将軍…私の為に……」


何を言っている?お前は何を言っている?
もう分からない。私には分からない。分から、ない。
お前の言葉が耳元を擦り抜け、そして。
そして溢れる血となって零れるだけで。もう。
もう私には何がどうしたのか…分からない……。


「…いやだ…クレイン…私より先に…先に死ぬなっ!」


もう分からない。何も分からない。
自分が言っている言葉すら、全てが。
全てが幻で夢のようだ。全てが嘘のようだ。
だってお前は昨日。昨日その腕で。
その腕で私を抱きしめ、そして髪を撫でてくれた。
熱い肌を重ね合い、きつく抱きしめてくれた。
だって今でも残っている。私の肌に、全身に。


――――お前の感触が…消えずに残っているんだ……


「…クレイン…クレイン……」
私は何もお前にあげられなかった。
「…逝くな…私より先に……」
お前になにひとつしてやれなかった。
「…逝くな…駄目だ…駄目だ……」
お前から与えてもらうばかりで、私は何も。


「…愛して…います…パーシバル……」


最期までお前は私に言葉をくれる。最後まで私に愛をくれる。
何も出来なかった私に。王子よりもおまえを選べなかった私に。
それでも。それでもお前は。お前はそうして。そうして私に。



「――――愛している…私も…お前だけを…愛している……」



言えなかった言葉。ずっと、言えなかった言葉。お前を縛りたくなかったから言えなかった言葉。ずっと、ずっと私が死に場所まで持ってゆくと決めた言葉。
けれども今。今言わなければ。今、この場所で言わなければ。私は私はお前に何も出来ない。何も、してやれないから。だから、せめて最期に本当の気持ちを。本当の想いを。



…だからお願いだ。お願いだから目を…もう一度その瞳を私に見せてくれ……



愛している。愛している、愛している。
私はお前ともにいたい。王子を裏切っても。
本当は、本当はずっと。ずっとお前と。
お前とともにいたかった。お前だけを愛している。
だからお願いだ。お願いだから目を、もう一度。


――――その瞳を…私に…私に見せて…くれ………