水の中の月



遠くに見える。水面の月が、ひどく遠くに見える。まるでその月は、今の貴方のようだった。


「―――貴方を愛していると言って、どんな顔をするのか見たかった」
今更だと思いながら、告げてみた。その頬を撫でながら。白く冷たい頬を、撫でながら。まるで死人のようにこんやりとした頬。肉は削げ落ち扱けてしまった頬。生きるという事を放棄した貴方は、ただここで息をしているだけだった。息をしているだけの人形。でも私はそんな貴方を、愛している。
「貴方の世界に入って、告げてみたかった」
戦場の上で戦っていた貴方の強さと、そして内側から零れて来る危うさと、その奇妙なバランスに惹かれ、気付けばこの瞳が追っていた。その不安定さを、追っていた。
「そうしたら、貴方はどんな顔をしたのでしょうね」
手に入れたいとは思わなかった。戦場で戦い貴方を欲しいとは思わなかった。けれども…今の貴方は欲しかった。今の壊れた貴方はどうしても手に入れたかった。目で追い続けていた貴方よりも、今のここにある貴方が欲しい。
「愛していますよ、パーシバル将軍」
壊れて、空っぽになって、入れ物になって。そんな存在になった貴方が欲しかった。それは何処かで分かっていた事。何処かで理解していた事だから。貴方の心は絶対に自分のものにはならないのだと。
身体はあの王子のものだった。そして心は…彼のものだった。だから自分はこうして。こうして抜け殻になった貴方を手に入れた。

――――結局誰が一番しあわせだったのか…分からないままに……


「…クレイン……」
唇から零れるのは彼の名前だけ。
「…私は…お前を……」
告げる言葉は彼が生きている間には決して。
「…お前を…愛……」
決して言えなかった言葉。閉じ込めていた言葉。
「…愛…して…いる……」
貴方が本当にただひとつ、告げたかった言葉。


私は貴方の弱さを憎み、そして哀れむ。愛する者の死に耐えきれなかった脆弱な心を。けれどもその脆弱が故の美しさを、その綺麗な想いを、私は何よりも愛する。何よりも愛しいものだと思う。それがどんな形であろうとも、どんな愚かな事であろうとも。
「…愛して…いる…私は…ずっと…ずっと…お前を……」
こんなにも綺麗で残酷な愛情を私は他に知らない。貴方が持っていた唯一の想いが、彼に関わる人々を傷つけていった。消費されていったのは彼のはずなのに、本当に傷ついたのは廻りだけなのだ。でなければこんなにも。こんなにも彼は綺麗でいられない。こんな笑顔をする事は出来ない。
「…愛して…いる…クレ…イン……」
縛られるものはもう、何もない。貴方を縛りつけるものは何もない。自ら縛っていたものすらも、もう。もう何処にもない。今の貴方は自由だ。今の貴方は剥き出しだ。だからこそ、こんな笑顔が出来る。こんな笑顔を、出す事が出来る。
「――――愛していますよ、将軍」
最後に残ったものがこの想いで、ただひとつの愛だった。だから貴方は微笑う事が出来る。この笑みを浮かべる事が出来る。それほどまでに貴方の想いは…綺麗だったのだ。
「私はそんな貴方を…愛していますよ」
頬を飽きる事無く撫で、拒まない唇に口付ける。入れ物の貴方に、口付ける。貴方が唯一ここで『生』を見せる時は、彼の名前を呼ぶ瞬間だけだ。それだけだ。それでもいい。それでも、構わない。

――――私はそんな貴方を、愛している。


もしかしたら、狂っているのは私の方かもしれない。もしかしたら狂っているのはこの世界の方なのかもしれない。本当は貴方が見ている世界が真実で、私のいる現実こそが幻なのかもしれない。
貴方の伸ばした手の先にあるのは彼の指で。彼の手が貴方の指先を包み込んで。そして。そしてそっと、絡め取る瞬間。貴方は微笑う。貴方はそっと、微笑う。それがもしかしたら本当の事なのかもしれない。これが真実なのかもしれない。貴方の笑顔こそが、本当なのかもしれない。
闇の中に生きながら、それでも光を持ち続けた人。光に生きながら、ずっと心に闇を抱えていた私。罪深いのは一体どっちなのだろうか?どちらが、幻を見ているのだろうか?
「…将軍……」
貴方はここにいるのに、幻のよう。彼はここにいないのに、現実のよう。貴方の見ている世界と、私の見ている世界は、こうして触れたぬくもりだけで辛うじて繋がっている。この指先のぬくもりだけで。
「…貴方を愛していますよ…それだけは、本当の事だから……」
それでも。全てが幻で、何もかもが嘘であろうとも。砂上の上の楽園であろうとも。この胸の痛みと喜びと、そして甘い疼きがある限り。この胸の甘い痛みがある限り。


――――この気持ちは、やっぱり本当のことだから。


水面が、風に揺れる。月がそっと歪んでゆく。水の中の月は、歪んでいく。
けれどもここに月はある。歪んでそして輪郭を滲ませたとしても。
淡い光を放ち、ぽっかりと浮かぶ月。私達を見下ろす月。そして私達を見上げる月。


それはどちらも本当は同じものだから。本当はひとつのもの、だから。


貴方が見ている世界も、私が立っている現実も。
きっとどちらも。どちらも、夢で現実で。幻でリアルで。
そしてひとつに繋がっている。繋がって、いるんだ。


廻りが何と言おうとも、自分が見ているものが、本物なのだから。



「…愛しています…将軍……」



だからこれが、真実。これが今。今私にとっての唯一の、真実。