雨の匂い



窓に強く打ちつける雨の音が、痛い程に耳に突き刺さった。その音から逃れたくてその胸に顔を埋めれば、慈しむように髪を指で撫でられた。
「まだ私に怯えているのですか?」
初めての行為は強姦まがいだった。手首を拘束され、乱暴な愛撫とともに貫かれた。けれども次に抱かれた時は…苦しいほどの優しい腕だった。
「…クレイン……」
怯えているのならそれは別の意味だ。無理矢理貫かれたあの時ですら、私は恐怖を抱かなかった。抱け、なかった。肉体的な痛みよりも、心の中で沸き上がった想いの方が自分を支配した以上。苦痛よりも勝ったものが、存在した以上。
もしも私がお前に怯えるとしたら、それは別の意味になるのだろう。
「幾ら貴方を好きだと言ってもこんな風に関係を求めたのは無理矢理だった」
髪を撫でる指は止まる事はない。優しい指先だった。哀しくなるくらいの、優しさ。そんな風に私は他人にされた事はなかった。私にとって『護る』事が生きてゆく上での全てで、誰かに護られると言う甘い感情など必要としなかったから。けれども。けれども今、私はこの腕の中で。
「貴方の意思を無視して、私は貴方を自分のものにした…本当は貴方は私が怖いのではないのですか?」
護られているんだと、思う。護られているのだと。私には必要のないものだった。私には必要のないはずのものだった。けれども今それを。今それを心から享受している自分がいる。心から求めている自分が、いる。
「怖いのなら、とっくにお前の喉元に剣を突き刺している」
「――――将軍?」
「お前を殺して、私は逃げている…私は…それを許される立場だ……」
「殺せないのは貴方の優しさですか?それとも自惚れてもよいのですか?」
腕を伸ばし背中に手を廻した。そのまま抱き寄せて、無防備な唇に口付ける。それは甘い罪の味だった。逃れられない、逃れたくない、罪の味。このまま全身に注ぎ込まれ、そして内側から侵されてゆくのを分かっていても。分かっていても止められないもの。
「貴方は、私にとってずっと目標でした」
唇が離れ再びその腕が私を抱き寄せ、そして。そしてぽつりとお前が告げ始めた。その言葉を私はただ聴くしかなかった。
「貴方のようになりたいと、幼い頃からずっと目標にしていました。貴方の背中だけを追い続けていました。けれども」
答えてやる事は、出来ないから。全てを答えてやる事は、私には出来ないから。だから私は聴く事しか出来ない。お前の告げる言葉を。
「けれども何時しかそれは別の想いに変わっていました。貴方に振り向いて欲しいと…貴方に私という存在を認めてほしいと…そして何時しか貴方を私のものにしたい、と」
「――――」
「私は女性を抱きたいという思いよりも…貴方を抱きたいという思いの方が先に芽生えました。綺麗な貴方の瞳に私だけを映させて、そしてそのまま身体を貪りたいと」
小さかった、お前。私と王子の後を何時も着いてきたお前。大人になったら私の後など追わずに、自分の道を見つけるだろうとそう思っていた。そう、願っていた。私の後など追っても、それはお前にとって何ひとつプラスにはならないから。お前にとって私は何もしてやれないから。
だから私など追いかけずに、自分だけの場所を見つけて欲しかった。けれども。
「貴方を、王子から…奪いたかった……」
けれどもお前の瞳は反らされる事なく、私を見つめた。私を得る事にどれだけのリスクと障害があると分かっていても。それでもお前は、私をこうして抱いた。それがどんな意味を持つか分かっていながら。分かっていながら、私をその腕が抱いた。
「貴方だけだ。私が欲しかったのは、昔からずっと貴方だけだった」
それを。それを嬉しいと思っている自分がいる。それを喜んでいる…自分がいる。お前を拒絶しなければ苦しめてしまうと分かっていても。分かっていても拒めなかった自分。お前を、求めた自分。お前が…欲しかった自分。
「…将軍…貴方以外…私に欲しいものはないんです…」
抱きたいと思ったのは、お前だけだった。抱かれたいと思ったのも、お前だけだった。自分から願ったのは、ただひとり。ただひとり、お前だけだった。お前だけが…私の隠してきたものを暴いた。必死に隠して、そして心の一番深い場所に沈めてきたものを。
「貴方がいれば、私は何も要らない」
「…クレイン……」
こんなにも剥き出しの想いを。こんなにも真っ直ぐな想いを。苦しいよりも先に、嬉しいと思ってしまう自分がいる限り。喜んでいる、自分がいる限り。
「駄目だ、クレイン。お前には未来が幾らでもある…私なんかに捕われるな」
こんな言葉も説得力など何もない。こんな風に言いながらも、瞳はお前を求めている限り。心がお前を求めている限り。
「未来なんて貴方と引き換えならいらない。そんなもの幾らでもくれてあげますよ」
「駄目だ、私なんかの為にお前が犠牲になる理由は何もないんだ」
「―――犠牲?…私の全てを犠牲にして貴方が手に入るなら…幾らでも犠牲になりますよ」
お前の手が私の手を取り、そのまま指先に口付ける。それは騎士が愛する淑女にするような仕草だった。私は女でもなければ、誓いをたてられる身分でもない。私にはお前に還してやれるものが何もない。
「いいんです。貴方は貴方のままでいてください。王子の騎士のままでいてください。私が勝手に貴方を想っているだけなのだから」
「…クレイン……」
「それでいいんです。私が勝手に貴方を愛しただけだ。貴方には何も罪はない」
「…それは違う…お前だけの罪なら…お前を受け入れた私は……」
気付いてしまった。自らに気付いて、しまった。私もお前を愛しているのだと、そう。そう気付いてしまった以上、お前だけの責任にはならない。お前だけに全てを被せられない。お前だけを…罪に濡れさせられない。
「私は貴方の盾になりたいんです。護る事しか知らない貴方を私が護りたいんです。他の誰も貴方を護らせたくない…私だけが貴方を護りたいのです」
初めて出逢った時は、本当に子供だった。私の背の半分しかなくて。大きな無邪気な瞳が私を見上げて。綺麗な紫色の瞳が、私を見上げて。そして。そして無垢な笑顔で微笑っていた。
そんなお前が今は。今はこうして大人の男になって、私を抱きしめている。私を護るとそう告げている。
王子の騎士である事に自分の全てを捧げ、それ以外の事を知ろうとしなかった自分。何時しか私の時計はその場で止まり、廻りの時が進んでいるのにすら気付かなくなっていた。子供だったお前がこうして自分の前に立ち、私にそんな想いを向けていた事すら気付かずに。止まったままの私よりもずっと先に、進んでいたお前に。
「…愛しています、将軍……」
指を絡め取られ、そのまま口付けられる。貪るような口付けに瞼を震わせながら、それを求めずにはいられない自分が今ここにいる。今、ここにいる。
お前を傷つけ罪に陥れても、それでも離せない自分が、ここにいる。


激しい口付けに酔いながら、耳元から雨の音が消えゆく。あれだけ胸に突き刺さった音ですら、お前の口付けの甘さの前では無力だった。