<ララムサイド>
今、あたしは生まれた。この腕の中で、あたしという命が生まれる。
差し出された手。あたしに差し出された大きな手。ぼろぼろになり蹲り、死を待つだけのあたしに、そっと。そっと差し出されたただひとつの手が。
あたしにとっての、救いの手だった。あたしにとっての唯一の光だった。
生まれてきてよかったと、初めて声に出して言えた。この世に生まれてきた事にありがとうって言えた。こうしてあたしの命があって、ここに存在している事にありがとうと。
「…今までよく頑張ったな……」
声を上げて泣いた。その腕の中で子供みたいに、生まれたての赤子のように。あたしは大きな声を上げて泣いた。そこにはプライドも自尊心も何もない。ただ裸のあたしが。裸の心のままのあたしが、そこにいた。
「―――よく頑張ったな……」
声を出して言葉を言おうとして、喉から零れる嗚咽がそれを形にしてくれなかった。けれども。けれども見上げた先の目がひどく。ひどく優しかったから。
そっと目を細めながら、ひどく優しくあたしに微笑ってくれたから。だから、あたしは。あたし、は。
「…頑張ったな……」
大きな手がそっと。そっとあたしの髪を撫でてくれた。大きくて、優しい手。傷だらけの、手。その手がそっとあたしの髪を撫でてくれた。
それはあたしが知らなかった男の人の手、だった。あたしが知らなかった、大人の男の人の手だった。
あたしにはいなかったから。そっと頭を撫でてくれるお父さんの手も、優しく抱きしめてくれるお母さんの腕も。何も知らずに、何も持っていなかったから。だから今こうして初めて。初めてそれはあたしに与えられた、無条件に与えられる優しさだった。
あたしに与えられる大人の手は、何時も欲望に塗れていた。それは金だったり、性欲だったり。
あたしに何かを与えてくれる人は必ず何か見返りを求めてきた。踊り子という職業それは当然なのかもしれないけれど。けれどもあたしはずっと、淋しかった。ずっとずっと本当は淋しかった。
何時も明るく振舞っていたけれど、自分の環境に負けないようにわざと楽しそうにしていたけれど。本当は、淋しかった。本当はずっと、淋しかった。
あたしはひとりだって。あたしは独りぼっちだって。あたしには誰もいないんだって。だってあたしにはない。あたしにはないの。無条件で与えてくれる優しさなんてなかったもの。
あたしが欲しかったのは、本当にちっぽけなものだった。
同じ年頃の頃の子供なら誰もが持っているもの。持っているもの。
それは無条件に与えられる愛情。親の、愛情だった。
あたしはそれが欲しかった。ただそれだけが、欲しかったの。
でも今。今それが、あたしに。あたしに、そっと。
「…呼んでも…いいの?……」
優しい腕が。暖かい腕が。あたしを包み込んでくれる。
「…『お義父さま』って…呼んでも…いいの?」
欲しかったもの。ずっと、欲しかったもの。ずっと、ずっと。
「…そう呼んでも…いいの?……」
ただひとつだけ、あたしが欲しかったもの。ただひとつだけ、願ったもの。
「――――呼んでくれ、ララム。こんなわしでよかったら…そう呼んでくれ」
生まれてきて、よかったと初めて思えた。
この命が今ここにあってよかったと。生きてきてよかったと。
どんなに踏み躙られても、どんなにぼろぼろになっても。
諦めないで、よかったと。希望を捨てないで、よかったと。
「…お義父さま…あたしの…お義父さま……」
初めて心から笑えた気がする。本当に心から、微笑えた気がする。踊りながら皆に見せた作り笑いでもなく、わざと楽しそうに振舞って声を立てて笑っていた顔でもない。今本当に心から。心からあたしは。あたしは微笑う事が、出来たから。
貴方の目がそっと細められる。目じりの皺が優しく細められる。
「ああ、ララム。お前はわしの娘だ…誰がなんと言っても…わしの大事な娘だ」
命の音。命の鼓動。大切な音。
あたしが生きている、ただひとつの証だから。
<ダグラスサイド>
ありがとうと、言いたい。お前という命がこうして存在していることに。
こうしてわしの前にお前がいることが。お前が微笑っていることが。
ありがとうと、言いたい。お前という命を与えてくれたもの全てに。
「お義父さまっ!見て見て」
お前がいるだけで、ぱあっと廻りが明るくなる。まるで春風を運んでくるかのように。
「どうした?ララム」
「庭のお花が咲いたのっ!凄い綺麗なのよお義父様っ!!」
わしの腕をぐいっと引っ張ると楽しそうに笑いながら、庭へと連れて行く。
その顔は本当に子供のような無邪気な顔だった。子供みたいな、屈託のない笑顔だった。
「ねえ、綺麗でしょう?凄く綺麗」
お前の指差した先には小さな白い花が咲いていた。今年初めてこの庭に咲いた花。
小さいけれど懸命に咲いた花。まるでお前のようだった。
小さいけれど一生懸命に生まれて、そしてこうして花開いたところが。
「ああ、綺麗だな。お前が一生懸命育てた花だ。花も…気持ちが伝わるんだろうな」
「だってお義父さまに見せたかったから…あたし、お義父さまに一番に見せたかったから」
「…ララム……」
「ララムはお義父さまが喜んでくれる事が、一番嬉しいの」
お前の笑顔。本当の心からの笑顔。親馬鹿と言われるかもしれない。
けれどもわしはお前以上に綺麗な笑顔を見たことはない。この世界の何処にも、見た事はない。
打ち捨てられ今にも息が途切れて消えそうな命だった。
――――アタシハイキタイノ……
小さな小さな命だった。けれども、その手は必死に伸ばされた。
――――シニタクナンテナイ…アタシハマダナニモシラナイカラ……
わしに向かって伸ばされた手。あかぎれまみれの手。骨と皮だけになっている手。
けれどもその手は一生懸命に伸ばされた。『生』を掴む為に必死に伸ばされた。
生きたいといっていた。生きているんだといっていた。
ちっぽけな命だってこうやって。こうやって懸命に生きているんだと。
それは何よりも尊い。それは何よりも哀しい。そして何よりも、強い。
お前がここにいる。わしの前にいる。
「ララム、わしは」
生きて笑っている。楽しそうに笑っている。
「お前がこうして笑っていてくれる事が一番嬉しい」
踏みにじられてきたお前が。何も持っていなかったお前が。
「わしにとってそれが何よりものしあわせだ」
こうして静かに過ぎる日常の中で、しあわせを手に入れていることが。
「しあわせだ、ララム」
何気ない日常の中見つけたものをお前が、こうして大事に育ててくれていることが。
お前がいたからわしも知ることが出来た。
お前のお陰でわしは知ることが出来た。
こんな穏やかな想いを。こんなにもやさしい想いを。
血など繋がっていなくてもわしらは間違えなく親子だ。親子だから。
「ありがとうお義父さま。ララムを見つけてくれてありがとう」
お礼を言うのはわしのほうだ。わしのほうだ、ララム。
「あたしをお義父さまの娘にしてくれて…ありがとう」
お前の笑顔が、お前の明るさが、お前の優しさが…どんなにわしの心を満たしてくれるか。
どんなにわしの心を暖かくさせるか。
「…大好き…お義父さま……」
それを教えてくれたのはお前だけだ。それをわしに教えてくれたのは。
ありがとうと言いたい。わしにお前を与えてくれた全ての存在に。
そしてこうして生まれてくれたお前という命に、ありがとうと。