てのひらの雨



ひんやりと冷たいこの指先を、包み込むその手が欲しい。どうしようもなく、その指先が…欲しい。


声を上げてその名前を呼んでも、どうにもならない事は知っている。それでも呼んだ。それでも叫んだ。ただ声にして、言葉にして、そうしたら。そうしたら少しだけ貴方がそばにいる気がしたから。今はもういない貴方が『ここ』にいる気がしたから。



冷たい雫が頭上からそっと降り注ぐ。それを見上げる瞳は何処までも透明で、そして無邪気だった。説明出来ない不思議な色合いを持つその瞳をこうして少しだけ離れた場所から眺めている時間が好きだった。だから見ていた。飽きることなく、ずっと見ていた。
「エルフィン、この水は何?空から降ってくるのはどうして?空が、泣いているの?」
好奇心を無限に湛えた瞳で見上げてくるこの瞬間が大切な時間だった。この瞳に映る自分だけが、全てから解放された『自分自身』の唯一の時間だった。
「泣いているのではありません。これは雨というものですよ」
「あ、め?」
「そうです、雨です。ファは砂漠にずっといたから…見た事はなかったのですね」
「あめ…雨だね。憶えたよ、エルフィン」
「ふふ、ファは賢いですね」
雨に当たって濡れてしまった髪をそっと撫でてやれば、本当に嬉しそうに微笑った。無邪気で屈託のない笑み。その笑顔を見ているだけで、不思議と自らの口許も優しくなれる。優しく、穏やかになれる。
「へへ、もっともっと『いいこ、いいこ』して。ファ、エルフィンにされるのが一番嬉しい」
「一番嬉しいですか?それは光栄です、小さなお嬢さん」
「うん、だってファ、エルフィンが大好きなんだものっ!」
「私も大好きですよ、ファ。大切な小さなお嬢さん」
満面の笑顔で抱きついてくる小さな身体をそっと抱きとめた。そこにあるのは何の曇りもない透明な好意。駆け引きも思惑も何もないただ純粋な想い。色々な事に少しだけ疲れていた自分にとって、それは他のどんなものよりも癒されるものだった。かけがえのないものだった。


名前を呼ぶの。大好きな貴方の名前を呼ぶの。その言葉が口の中に広がるだけで、それだけで。それだけで、貴方がここにいるような気がするから。優しい響きを持つ貴方のその名前を、呼ぶだけで。


振り続ける雨は指先に伝わり、ぽたりと雫となって地上に落ちた。その透明な雫は、ぽたりぽたりと地上に零れ水の華を咲かす。
「―――エルフィン……」
何時しか視線は同じ位置になり、幼い笑顔は少女の微笑へと変化した。それでも変わらないものがある。ずっと、変わらないものがある。
「大好き、エルフィン」
その言葉を告げる時の無垢で無邪気な瞳。姿が変化しても容姿が大人へと変化しても、それでもずっと変わらないもの。変わる事のないもの。
「貴方だけが、好き」
伸びてくる腕は白く細い。小さく幼い指先ではない。それでも触れて伝わるぬくもりはあの頃のままで。あの雨の日に繋いだ指先から分け合った体温と同じ暖かさで。それはきっと、ずっと変わらないもので。
「…ファ…ありがとう……」
エトルリアの王として生きる事に不満はなかった。たとえそれが、自分が理想として作り上げた『王』を演じていたに過ぎなくても。そのかりそめの器でも人々が望み、そしてそんな自分を生かそうとしてくれた者たちがいた限り。一度は死んだ身だった。一度は消えた存在だった。だからこそ、それが例え本当の『自分自身』でなくても構わなかった。


――――立派な王になる事。エトルリアの国を護ってゆく事…それが『ミルディン』という命の意味だった。


濡れたままの指先が、頬に触れる。かさかさに乾いた頬に。
「…ずっとね、ずっと優しい瞳を……」
そして、撫でる。何度も何度もこの頬を愛しげに撫でてくれる。
「…ファにはしていてくれたね…今も……」
それはずっと変わらない。小さな手のひらで懸命に撫でてくれていた時から。
「…今もこうして…優しい瞳を、してくれるね……」
ずっと、ずっと、変わらないもの。変わる事のない想い。


貴女の瞳に映る自分が何よりも好きだった。そこに居るのはただの吟遊詩人のエルフィンで。何もないただの自分自身で。名前以外全部。全部、本当の私がそこにいた。
「それは貴女が優しいからですよ。ずっと、優しいから」
何もない剥き出しになった私は、ただの抜け殻のような老人で。それでも貴女の瞳は真っ直ぐに私を捉える。貴女の指先はそっと頬を撫でてくれる。どんな容姿になろうとも、どんな姿になろうとも、貴方だけは『エルフィン』という命を見つけてくれる。それはどんなに。どんなに幸せなことなのか。
「――――貴方がいるから、ファはしあわせなの。それだけだよ」
願いはただひとつ。この目の前の少女の笑顔だけだ。貴女が笑っていられる未来を願うだけだ。それだけだ。貴女がずっとこの優しい瞳をしてくれる事を…願うだけなんだ。


…他に何も望まない。何も、何も、願わない。だから。だから、ずっと微笑っていて欲しい……。




声を上げて名前を呼んだ。貴方の名前だけを叫んだ。声にして、言葉にして、地上に貴方の破片を降らせて。いっぱい、いっぱい、降らせて。
「…エルフィン……」
何時から恋になったのか?何時から愛になったのか?何時から全てになったのか?境界線も境目も分からなかった。もう分からなかったけれど。それでも。
「…大好き、エルフィン……」
どんな意味を持とうとも、この言葉しか想いを伝える言葉はなかった。それが憧れでもそれが恋でもそれが愛でも…。大好き以外の言葉は、なかった。
「…大好きよ、ずっと…ずっとずっと……」
降り注ぐ雨が、頭上から注ぐ雨が、零れる言葉をかき消してゆく。それでも口にする。それでも言葉にする。それでも想いを地上に吐き出す。
「…大好き…エルフィン……」
指先に雫が零れ、それがぽたりと地上に落ちた。水面に波紋となって、零れた。ぽたりと、零れた。


――――願う事はただひとつ。ただひとつ、貴女の笑顔。優しく無邪気な貴女の笑顔。


雨に濡れ瞳が濡れ、指先はひんやりと冷たくて。それでも少女は微笑う。そっと微笑む。愛しい男の名を口にする瞬間は、どんな場面でも微笑いながら告げられる自信があった。どんなに心が歪もうとも、どんなに瞳が濡れようとも。その名前を呼ぶ瞬間だけは。



――――ただひとつだけです。貴女には微笑っていてほしい。私が一番愛した貴女の笑顔をずっと。ずっと……