そっと指を伸ばして、その頬に触れた。冷たい頬に、触れた。
「エルフィン、寒い?」
風が吹いている。穏やかな風が、吹いている。けれども今のふたりには強すぎる風だった。全てを浚ってしまうほどの強い風だった。
「…寒いの?…小さなお嬢さん……」
もう『小さなお嬢さん』じゃないんだよ。もう、違うんだよ…そう言おうとして、言葉を止めた。窪んでしまって灰色に濁った貴方の瞳では私を映す事は出来ないから。出来ないのなら、私は。私は貴方の『小さなお嬢さん』でいよう。小さな、お嬢さんで。
「寒くないよ、ファ。寒くないよ…エルフィン……」
「貴方が寒くなければそれでいいのです、ファ」
まるで春が来るのを思わせる声だった。耳元に擦り抜けてゆく声は、そっと。そっと春が訪れる瞬間のような声だった。耳元に届き、そして。そして私の中に降り積もる声は。
でも今は声はしわがれて、耳元に春はやってこない。けれども、好き。けれども、大好き。春なんて来なくても、永遠にここが冬でも、それでもいい。それでも、いい。貴方がそばにいてくれるのならば。
「エルフィンが暖かいから、ファもずっと暖かいよ」
触れる指。触れた頬。冷たい頬、しわくちゃな頬。かさかさになった肌が、指の一つ一つに感触を伝えてくる。でも大事だよ。でも大事なの。貴方だから、大事なの。
「…ずっと…暖かいよ…エルフィン……」
もう、誰も私達を捜さないでください。もう誰も、私達を見つけたりしないでください。
もうすぐ世界の終わりが来るから。だから、ふたりでいさせてください。
ひとりぼっちは怖くない。貴方がいなくなっても怖くない。
「…ごめんね…ファ…私はもうすぐ死ぬ……」
貴方をひとりぼっちにしてしまうほうがずっと。ずっと怖いから。
「…貴方をひとりぼっちにしてしまう……」
貴方をこの世界に一人にしてしまうほうが、怖いから。
「――――平気…平気だよ…だってエルフィンいっぱいファにくれたから……」
全てから解放されて。王というものから、国というものから、解放されて。そしてやっと『自分自身』に戻れた時、私はもう死を待つだけの老人だった。そんな私が願ったものはただ一つ。ただ一つ、この竜の娘だけ。この小さな少女だけだった。今まで築き上げてきたもの全てを振り返っても、私自身が心から願ったのは…この少女だけだった。
「いっぱいくれたよね。暖かいものを、だから大丈夫」
私の救い。私の願い。私の祈り…私の救済。人を殺す事も、人を騙す事も、どんな非道な事も私にとっては何でもない事だった。どんな残酷な事でも国のためならば出来た。人を欺く事も、人を裁く事も。けれども『私の為』に出来る事は、何一つなかった。何一つ与えられなかった。
「大丈夫、エルフィン…ファ…しあわせだから……」
私は本当は救われたかった。私は本当は赦されたかった。私は本当は…裁かれたかった。そんな私に唯一。唯一与えられたもの。そんな私が唯一望んだもの。それが貴方。それが貴方、だった。
――――ただ願ったものは、この小さな指先だけ。
もしも赦されるならば貴方と生きたかった。
「…好きですよ…ファ……」
国よりも王冠よりも、本当は。本当は、私は。
「…ファも好き…エルフィンが好き……」
ただの吟遊詩人として、貴方とともに。貴方の隣で。
「…大好き……」
ただずっと。ずっと指が動かなくなるまでハープを弾いていたかった。
貴方のそばにいたかった。ずっとそばにいたかった。それだけでよかったのに。
冷たい頬。かさかさな唇。濁った目。でも大好き。
「…キス、してもいい?…エルフィン?……」
貴方のものだから、好き。貴方だから、好き。どんなになっても好き。
「…してくれるのですか?小さなお嬢さん……」
どんなカタチでも。どんな体温でも。どんな感触でも。
「…大好き…です…エルフィン……」
貴方だから好き。貴方だから、愛している。ただそれだけなのに。
かさかさの唇にキスをした。ずっとこうしたいと願っていた。子供の頃から、願っていた。
命なんていらないけれど。もういらないけれど。
でも私の心の中で貴方が生き続けるから。貴方がいるから。
私の中に貴方が在り続ける限り。やっぱり。
やっぱりこの命は必要で。やっぱり私は生きるから。
「…ずっと抱いていてあげるね…ファが…抱いていてあげる……」
もうすぐ訪れる静かな死が。そっと訪れる死が。
淋しくないように、ひとりぼっちにならないように。
私が貴方を抱いている。貴方をそっと抱きしめている。
だから、ね。だからちゃんとファの中に。ファの中に、いてね。
魂になったらファの心の中にずっと。ずっと存在していてね。
ふれる。てのひらで、ふれる。あなたに、ふれる。あなたのこころに、ふれる。