何も、いらなかった。貴方以外、何も欲しくなかった。
ひんやりと冷たいその指先をそっと重ねて、そのまま瞼を閉じた。伝わるぬくもりは何処にもなかったけれど、それでもこうして触れていたかった。
「…エルフィン……」
指先に触れて、ありえないぬくもりを感じて。感じて、そして微笑って。口許だけで、微笑って。そして、声をあげて泣いた。
しあわせってなんだろう?うれしいってなんだろう?
もうそれが私には分からなくなっていた。分からなかった。
貴方といる時間がしあわせで、そして哀しい。
終わりが来るのを分かっていながら、止められない想い。
止められる事なんて出来ない、気持ち。終わりが来ると分かっていても。
しあわせな時間。うれしい時間。でも何時も。何時も心の中で怯えていた。
怯えていた。この時間が終わる瞬間を。ずっと、怯えていた。
髪は、背中まで伸びました。小さな羽は今は真っ白な翼となって、私を空と飛ばしてくれます。小さな手足は何時しか貴方と同じ速さで歩く事が出来るようになって。貴方のハープを聴くしか出来なかった子供は、今この指で貴方のそれを奏でる事が出来るようになりました。
貴方と同じように奏でる事が出来るようになった時、貴方の指は楽器を引く事すら出来なくなっていました。
大人になって追いついた私を、その目で見る事が出来なくなっていました。
何もいらなかった。何も、いらない。
しあわせも、いらない。ぬくもりも、いらない。
もう何も欲しくない。貴方がここにいないのなら。
…指先にないぬくもりを捜して、私は必死になって捜して……。
「…エルフィン……」
痛みなんて何でもない。痛みなんてどうでもいい。
「…エルフィン…ずっと……」
身体の痛みも心の痛みも、全部。全部、もう。
「…ずっと一緒に…いたかったよ……」
もう、どうでもいいよ。どうでもいい。
「…一緒に…いたかった……」
自分なんて、どうでもいい。貴方が何処にもいないなら。
生まれて初めて好きになった人が、私にとっての永遠だった。最初の恋が、最後の恋だった。永遠のような時間の中の、瞬きする程のほんの一瞬が私にとっての全てだった。
きっとバカみたいなんだろう。端から見たら愚かなのだろう。未来はまだ先にたくさんあるのに。しあわせはもっと色んな場所に転がっているのに。それなのに私は。それなのに私は、その選択肢すら簡単に捨ててしまう。このただひとつの恋の為に、これから先にあるものを捨ててしまう。
「――――エルフィン……」
しあわせになってくれと、言った。しあわせになって小さなお嬢さんと。貴方にとって私はずっと。ずっと小さな子供。貴方を追い駆けている小さな子供。貴方に手を引かれ、おぼつかない足取りで歩いていた子供。
「…好き……」
でも私、子供じゃないよ。もう子供じゃないの。小さな子供でいられたならば、こんな気持ちにはならなかった。こんな想いを知らずにすんだ。子供のままでいられたら…ずっと貴方は優しい笑顔だけを私の胸に刻んでくれた。
「…貴方が好き……」
貴方の優しい笑顔だけを思っていればよかった。子供だったら永遠のさよならですら、何時しか切ない思い出として胸に閉じ込められた。子供だったら、私はまだ空を飛べた。
もう私は空を飛べない。自由に未来を描けない。
貴方という存在が私の中に根付いて、そして。そして消える事がない以上。
もう私は自分の中に未来を描く事は出来ないから。
空はもう飛べない。背中の羽は、もういらない。何も、いらない。
私と名の付くもの全部、全部もういらないから。もう、いらないから。
「…貴方を…愛している……」
好きという言葉なら幾らでも告げられた。無邪気な瞳で、私は貴方に告げていた。何時も言っていた。大好きだって。貴方が一番大好きだって。でも今は違う。今は、違う。私は貴方を愛している。愛しているの。
冷たい指先。ぬくもりのない肌。開く事のない瞼。身体の中の時間軸が違う以上、私達の針が重なり合えるのはほんのひとときだけ。ほんの僅かな時間だけ。後に残されるのはただ。ただ静かな貴方の死だけだった。冷たくひんやりとした、静かな死だけだった。
分かっていた。分かっている事だった。それでも愛した。貴方だけを、愛した。
貴方との時間を何よりもしあわせだと思い、その限られた時間の終わりを何時も怯えていた。しあわせと恐怖が入り混じり、どうにもならない想いが私を支配しても。それでも、愛する気持ちは止められなくて。どんなになっても、止められなくて。
私はしあわせか?私はしあわせだったのか?それともただの憐れで悲しい娘だったのか?どうなんだろう。どうなんだろうか?自分自身に問い掛けても分からないから。分からないから、貴方の顔を見つめた。もう二度と私を見ない瞳を、もう二度と私の名前を呼ばない唇を。
『小さなお嬢さん。私の大事な…お嬢さん』
うん、大切。私も、大切。貴方が一番大事な人。
『貴方がいて初めて気付きました…貴方がいたから気付けた』
私も。私も貴方に出逢ったから。貴方と出逢えたから。
『王子でも、公人でもないただの私に…気がつけた』
私は知る事が、出来た。誰かを愛する気持ちを。ただひとつの想いを。
『私が心から愛していると言えるのは…貴方だけですよ、ファ』
私も。私もよ、エルフィン。貴方だけを愛している。貴方だけ。
『…貴方だけが…私にくれた…優しさを…そして暖かいものを』
うん、エルフィン。私も。私も貴方といたからとても。とても暖かくなれた。
優しくて、そして暖かいもの。切なくて、そして苦しいもの。全部、全部、貴方だけが教えてくれた。
「…愛している…エルフィン……」
しあわせも、ふこうも、くるしみも、よろこびも。
ぜんぶ、ぜんぶ、くれたのはあなたでした。あなただけ、でした。
優しさをありがとう。ぬくもりをありがとう。
光をありがとう。喜びをありがとう。
愛をありがとう。暖かさをありがとう。
ありがとう。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。ともに生きてくれて、ありがとう。
もう私は空を飛べない。貴方がいないから、未来を描けない。
でもそれが不幸なのかと言えば、私にとってそれはノーだった。