――――真っ白な服を着て、貴方のそばまで行きたいの。
足許に広がる水に小さな紅い塊がぽたりと落ちる。そこから紅い色が絵の具を垂らしたように水面に広がって、そして溶けていった。
「――――」
硝子玉のような瞳が、その色を見下ろす。水に溶かされて消えたはずの紅は再び落ちてきたそれによって、また色を成していった。
「…私…大人に…なったんだ……」
まだ幼さを残す少女の口許がそっと微笑って、鈍い痛みを伴っていた腹部に手を当てた。手のひらのぬくもりをそこに当てる事で、少しだけ痛みが和らいでくる。そうする事でやっと、実感出来るようになった。今自分が初潮を迎えて、女の身体になった事に。
「…大人に…なったんだ……」
それはずっと願っていた事だった。ずっと少女が願っていた事だった。大人になりたいと。早く、大人になりたいと。全てが終わってしまう前に自分の中の、時計の針を進めて。急いで進めて、そして追いつきたいと。必死になって、追いつきたいと。
「…大人になれたよ…ファ……」
足首から幾筋もの血がぽたぽたと滴ってゆく。けれども構わずに少女はその場にしゃがみ込むと、声を殺して泣いた。もう子供じゃないから、声を上げて泣く事は出来なかった。
――― 子供だからと。子供だから、と。
優しい瞳をして、貴方は言った。淋しい瞳をして、貴方は言う。
子供だから、傷つけられないと。子供だから、抱けないと。
身体を繋ぎ合わせるには、貴方は子供過ぎるからと。まだ知らないのにと。
本当の意味を知らないから。だから、駄目だって。
本当に誰かを愛したその時に。その時に、本当の意味を知ればいいと。
子供だから、誰かを愛せないなんて。子供だから、貴方のぬくもりをしらないなんて。そんなの嫌だった。
真っ白な服は血で汚れた。白いスカートに紅い染みが滲んでいる。それでも構わず少女は歩いた。水面から素足を出して、そのまま元来た道を戻ってゆく。この森の奥にある小さな小さな家へと。
全ての時間に忘れ去られた小屋。全ての空間から零れた世界。けれどもそれこそが。それこそが少女にとっての最期の楽園だった。
「―――エルフィン……」
扉を開ければ、優しい瞳が少女を迎えた。もうほとんど廻りを映す事のない瞳は今の少女の異常さに気付かない。真っ白な服を着て、太腿から血を流すその姿には。
「おかえり、ファ」
椅子に深く腰掛け、顔だけを少女へと向ける。皺に刻まれた顔は、それでも少女にとっては何よりも愛しい男のものだった。何よりも愛する男のものだった。
「エルフィン、ファね」
近付いてくるのは気配で分かっても、きちんと彼女の輪郭を捉えることは出来なかった。窪んだ目はもうほとんど視力を失っていた。そして身体も、もう自分の自由にならない事も。ほとんど抜け殻になった男は、訪れる死を望み怯える日々を送るしかなかった。そう、それしかなかった。
「大人になったのよ、だから」
願い、怯える。美しく大人になってゆく少女の幸せを願う。自分という幻想から解放されて、幸せになることを願う。それが自分にとっての願う死だった。けれども一方で、その死に怯えている。少女を独り残して死んでゆく事の恐怖に、怯えている。
これが愛だという事は、嫌という程に分かっている。それでも必死に歪めてきた。必死になって、歪めてきた。
認めてしまえば、全てを受け入れたならば。
残された彼女はどうなるのか?独りになる彼女は。
死を待つだけの老人と、幼い少女の純愛など。
しあわせになんてなれないから。未来なんてないから。
だから少しずつ、歪めて。少しずつ、反らして。
そうして小さな嘘だけを積み重ねて、ここまで辿り着いた。
――――それでも離れられなかったのに。それでも手を、離せなかったのに。
少女の匂いがする。微かに甘い匂いが。それが近付いたと思ったら、唇に暖かなものが触れた。それが少女の唇だという事は、すぐに気が付いた。
「だから、エルフィンと身体…重ねられるよ」
甘い匂いに混じって、生臭い匂いが混じっている。それは血の…少女が大人になった初潮の匂いだった。それに気付いて身体を離そうとしても、背中に廻された腕が許してはくれなかった。
もう独りでは立ち上がる事すら出来ない男に、少女を振り解くだけの力はない。
「好き、エルフィン」
「…駄目だよ、ファ…私はもう死ぬだけの老人だから…」
「エルフィンだけが、好き」
「ファには未来がある。だから―――」
その先を男が告げる前に再び唇が塞がれた。かさかさの男の唇に少女の唾液の湿り気が加わる。そのまま舌が口中に忍びこんできて、乾いた口内を濡らした。ぴちゃりと音と、ともに。
「貴方だけを、愛しているの。ファはずっと」
何度か舌を絡め合わせると少女は男の手を取り、自らの胸に当てた。まだ膨らみ始めたばかりの乳房に男の手を触れさせると、そのまま自らの手を上から握り締めた。
「…ずっと…エルフィンだけ……」
柔らかな胸の膨らみが男の指先に伝わる。そこからどくどくと心臓の音が伝わり、少女の胸の鼓動を確認させられた。指の隙間に当たった乳首が硬く立っているのも。それに指が当たるだけで、背中に廻していた片方の手がきつく自分の服を掴むのも。
「…エル…フィン…っ……」
「駄目だ、ファ。止めるんだこんな事は」
片方の手を胸に当てたまま、少女は下着を脱いだ。白い服はそのままで。血の染みついた下着を床に脱ぎ捨てると、そのまま。そのまま少女は男の服を脱がせた。
肉の削げ落ちた薄い胸板に、唇を落とす。
皺だらけの顔を何度も何度も撫でる。
真っ白な髪に指を絡めて、その感触を刻み。
重ねあったぬくもりに、睫毛を震わせた。
―――愛しい人。愛している人。苦しいくらいに、愛した人。
真っ白な服を着て、貴方のそばまで行きたい。目の前にある川は余りにも広くて、小さな私には渡りきる事が出来なかった。けれども。けれども、それでも。
それでもそばに行きたい。途中で溺れても、それでもいい。貴方のそばまでいきたい。
雄としてもう機能していないそれを、少女は自らの膣内に突き入れた。
「…エル…フィンっ!……」
腹部の鈍い痛みを感じながら、それ以上の鋭い痛みに唇を歪める。
「ふっ…はぁっ…あぁぁ……」
繋がった個所からは血が溢れている。生理とは違った血が。けれども。
「あぁっ…あぁぁ…っ!…」
けれども、もうそれがどちらかなんて分からなかった。分からなかった。
少女と老人のセックス。そこに種としての本能はなく、ただ。ただ愛する者のぬくもりを感じたいという純粋な想いだけが存在した。
歪んだ想いが今、解かれてゆく。ただひとつの想いに解かれてゆく。
「…愛して…いるの…ずっと…ずっと……」
それだけが少女に痛み以外の感覚を与えた。快楽を、与える。
「…ひとりは平気…ずっとひとりだったもの…でも……」
ただひとつの想いだけが、全てを満たし。そして全てを、壊してゆく。
「…でも…今は違うから…これからは違うから……」
男の歪みも、微妙に反らした嘘も。全てを、壊してゆく。
「…もう…ひとりじゃないから…ファの中にエルフィンがいるから……」
ただひとつの想いの前には、何もかもが無力だった。何もかもが偽りだった。
どんな綺麗事も、どんな優しい嘘も。剥き出しのこの、痛いほどの愛の前では。
「―――愛している…ファ…私も…私もだ……」
男は願った、少女のしあわせを。男は祈った、自らの生と死を。けれどもそれは全て。全てこの目の前の愛の為だった。