――――あなたのもとへと、飛び立てることが出来たならば……
夢を、見る。優しい夢をみる。哀しすぎる程に優しい夢だから。だから、思った。目覚めたくないと。もう二度と目覚めたくないと。――――それが絶対に叶わないと分かっていたから…だから、願った。叶わない願いだから、願った。
背中から延びる影を必死になって追いかけた。小さな私の歩数ではどんなに頑張っても追いつけなかったけれど、それでも必死になって追いかけた。
「―――エルフィン、待って。待って、もうちょっとだけ」
どうやっても追い付かない事が哀しくて堪らなくなって、その名を呼んだ。呼べば振り返ってくれると分かっていたから。振り返ってそして、微笑ってくれると分かっていたから。
「どうしたんですか?小さなお嬢さん。そんなに急いで」
微笑ってそして。そして必ず私のそばまできて、同じ目線までしゃがみ込んでくれるの。こうやって同じ位置まで、来てくれるの。
「エルフィンがね、先に行っちゃうから。だからファ…追い付きたくて、追いかけたの。一緒の場所にいたいの」
「フフ、それはごめんなさいね、ファ。貴方はまだこんなにも小さいのに無理をさせてしまいましたね」
宝石のようなきらきらした瞳が、そっと優しくなる瞬間が好き。この瞬間がずっと続いてほしいと子供の頃の私はそんな事ばかり考えていた気がする。このきらきらした瞳をずっと見ていたいと。
「大きくなったら、一緒の場所にいれる?大きくなったら、一緒に歩ける?」
不思議だね、あんなにも幼くて子供だったのに、私は今でも鮮明に覚えている。私がその問いをした時の貴方の顔を。貴方の淋しそうな顔を、私はずっと覚えている。一番刻みたかった宝石のような瞳よりも、ずっと鮮明に覚えている。
「…そうですね…そんな日が来るのを私はずっと待っていますよ……」
差し出される白い指先に私は迷う事無く絡めた。小さな私の手のひらを包みこんでくれる指先の暖かさが、どうしてだろう?あの時嬉しくてそしてひどく哀しかった事を、私は覚えている。ずっと、ずっと、憶えている。
―――――なにもいらないから、他になにもいらないから。だからもう一度あなたに逢いたい。逢いたい、逢いたい、逢いたい。
しあわせは、本当に瞬きする程の時間でしかなかった。それでも私にとっては大切で、何よりも大事な瞬間だった。貴方の指先が私の指先に結ばれているこの時が。
「ね、エルフィン。エルフィンの影がね、凄く長かったの」
見上げた先にある眩しい夕日よりも、貴方の顔が私の瞼の裏には焼きついている。何時でも何処でも、こうやって目を閉じて浮かぶものは貴方の顔だけで。
「ファのは短いですね。でもこうすれば」
指先は繋がったまま、貴方は私の後ろに立った。そうする事で影は重なって長いものへとなる。私と貴方の影が重なってひとつになる。
「わー、本当だっ!長いねっ!えへへ、一緒だね」
「ええ、これで一緒ですよ。貴女と私は一緒ですよ」
見上げれば想像通りの笑顔があって、その顔を見たら私もひどく嬉しくなって、だから微笑った。二人で笑った。一緒だねって…微笑んだ。
――――笑顔の行方を貴方は知っていた。この先に在るものを貴方は知っていた。それでも微笑ってくれた。微笑っていてくれたの。
優しいの、とても優しい夢なの。だから目覚めたくない。目を覚ましたくない…瞼を開いた先に貴方がいない現実を、私は受け入れたくない。
「――――エルフィン……」
それでも私は瞼を開いて現実を受け入れる。それが許されない事だと分かっているから。理解しているからこそ、願った。叶わない願いを…願った。
「…逢いたい……」
繰り返し見る夢が、私を満たし蝕む。どうする事が出来ないと分かっていても、目覚める瞬間を怯え、叶わないと分かっていても永遠の夢を願う。そこに何もないと分かっていても。からっぽだと知っていても。
「…逢いたいよ…貴方に…逢いたいよ……」
ただ一度の恋。一瞬の恋。永遠の恋。気が狂うほどの長い時間の中で、瞬きする程のこの一瞬が私にとっての全てだった。剥き出しの想いと、狂うほどの愛をただ一途に貴方だけに向けた。
「…声が聴きたいよ…顔が見たいよ…貴方に…触れたいよ……」
綺麗な指先が何時しかかさかさの老人の手になっても、眩しい金色の髪が真っ白になっても、宝石のような瞳が濁ってしまっても、それでも私は貴方を愛していた。貴方だけを、愛していた。ううん、貴方だけを、愛しているの。
「…エルフィン…私は……」
重なった影だけが、ふたりを同じにしてくれた。時間軸の違う時計の針は、一瞬だけ重なり、そして離れてゆく。離れて、そして。そして別の場所へと連れてゆく。私をこの地上に留め、貴方は空へと旅立ってゆく。死というものが貴方を空へと飛び立たせてゆく。その場所に追い付くためには私は。私は後どれだけ生きてゆけばいいのだろうか?
――――それは叶わない願い。叶わないから、願う。叶わないから…祈る……。
生きてと、あなたは言った。せいいっぱい、その命をと。
『…ファ…貴方の笑顔が……』
あなたは、言う。笑っていてと。ずっと笑っていてほしいと。
『…ずっとこの地上に…咲き続けますように…』
そばにいるからと。大気になって、そばにいるからと。
『…それだけが…私の望みです…私はあなたを……』
ずっと、ずっと、私にそばにいるからと。
『……しています……小さな…お嬢さん…………』
でもあなたはもういない。どこにもいない。この指が触れる事が出来ない。この瞳がその姿を映す事は出来ない。貴方の命に、ぬくもりに、体温に、指先は触れる事が出来ない。
「――――それでもあなたは言うのね、笑えと。そして生きろと」
それはどんなに優しく、どんなに残酷な言葉なのだろうか?どんなに嬉しく、どんなに哀しい言葉なのだろうか?
「…生きろと…言うのね……」
口許が作る笑みの形が歪んではないだろうかと確認する前に、瞼が閉じるのを止められない。そうしなければ微笑えない、貴方のいない世界では。こうして瞼の裏に在る貴方の存在を確認出来なければ。
叶わない願いを、願った。叶わないから、願った。貴方の元へ逝きたいと、それだけを…祈った。