錯覚



身体を丸めて眠るのは、心臓の音を聴いてないと眠れないから。


隣で眠るその顔を見下ろしながら、アストールはひとつ溜め息を付いた。こうして目を閉じていればその顔はひどく子供のようで。そのあどけなさを自分が汚したような気さえしてきて。
「参ったね、こりゃ」
紫とも紺とも見えその髪を撫でてやりながら、苦笑を浮かべるのを抑えきれなかった。実際自分としては一夜限りのつもりだった。密偵という身分である以上、自分と関わるには命すら危なくなる。真っ先に自分と関わりのあるもの、大切なものが狙われるからだ。
実際そのせいで自分はただ一度だけ本気になった相手を…そして子供を捨ててきた。ただ独り、愛した女を。
もう二度と本気にはならないと、誰も愛しはしないと、そう決めて生きてきた。誰とも深い関係は持たずに、と。なのに、自分は。自分は今こうして。


――――身近にいる相手とともに、一夜を過ごしてしまっていた。


似ている所は何処も無かった。ただ独り愛した女とは何一つ。全く正反対とも思える相手。更にましてその相手は男だ。
なのにこうして身体を組み敷いて、気付けば抱いていた。その身体を貫いて欲望を吐き出していた。
今までこうして他人と一夜を過ごした事は多々あったのだが、どれもこれも行きずりや名前すら知らない相手だけだった。けれども今。今こうして自分の隣で眠るのは。
「…オージェ……」
そっと名前を呼んでも反応は無かった。ただ自分の胸に顔を預けて眠っている。まるで子供のように。実際自分から見たら、子供でしかないのだけれども。
それでも確かに自分の身体は欲情をし、その見掛けよりも細い肢体に欲望を吐き出していた。貫いた瞬間に苦しそうに眉を寄せながら、それでも必死に耐える表情が。痛みを堪えるように廻された両腕が、そのどれもが。どれもがひどく、愛しいものに感じて。
それは自分が久しく忘れていた感情だった。いやもう二度と自分が持ちえるはずの無い感情だった。ただ独りの相手と永遠の別れを決めたあの日に、全てのそう言った想いは置いてきたはずだ。なのに。
「――――」
こうして頬を撫でてやれば無意識に擦り寄ってくる、仕草が。一途とも思える瞳で自分を見つめながら、身体を開いた瞬間が。そのどれもがひどく。ひどくこころの何かをざわつかせて。
「…参ったな…本当に……」
どうにもならないと言った呟きをアストールに零れさせるだけだった。



身体を丸めて眠るのは、心臓の音が聴きたかったから。
この音を聴いていないと安心して眠れないから。だから。
だから、こうして何時も。何時も丸まって眠っていた。
けれども今は。今はそれをしなくても。そんな事をしなくても。
こうして音が、聴こえてくる。とくん、とくんと。
耳に届く、命の音が。優しい音が、聴こえてくるから。


「…あ……」
睫毛が揺れて、オージェの瞳が開かれる。それを純粋にアストールは綺麗だと思った。穢れたものを知らない綺麗な、無垢な瞳だと。
「よぉ、目醒めたか?」
こんな場面など幾度も経験している筈なのにひどくアストールにはぎこちないもののように感じた。それは自分を見上げてくる瞳があまりにも無防備だったせいで。
そうだ無防備な瞳。それは彼女がしていた瞳だ。何処も似ていないのに、瞳は…同じだ。
「…はい…よく眠れました」
「身体は痛くねーのか?」
アストールの言葉にオージェは一瞬きょとんとして、そして次の瞬間に微かに頬を赤らめた。それが面白いようにアストールに伝わって彼の口許を綻ばせる原因になった。
「あ、その少し…痛いです」
「初めてだしな、そんなモンだろうな」
本当に正反対だった。どんな時でも強くあろうとした彼女とは。最期の最期まで涙を見せずに気丈に生きようとしている彼女とは。正反対の素直さ。正反対の単純さ。今時珍しいほどの生真面目さと、そして一途さ。
それは自分が昔に置いて来たもので、そして失った筈のものだった。
「でも俺…そのアストールさんが……」
好きと言いかけた唇をアストールはそのまま塞いだ。その先の言葉を自分は聴けなかったし、答える事も出来なかった。出来ないもの、だった。
「今夜の事は、お遊びだと思っとけ」
出来るはずがない。愛という感情は彼女の元へと置いて来た。そして自分の未来にその感情を持ちえる事は許されないのだから。



貴方がそう言うだろうと分かっていたから、その先を言えなかった。
貴方が俺を抱きながら、誰か別の面影を見ていた事に気付いたから。
けれども。それでも。それでも俺にとっては。俺にとっては。


身体を丸めなくて眠る事が出来る、ただ独りのひと、だから。


「…遊びでもいいです。貴方がそれでいいならば」
貴方には深い闇がある。それは俺が覗く事すら出来ない闇が。
「でも俺にとっては違うから」
けれどもその闇を何時か。何時か少しでも抉じ開けられたならば。
「…俺にとっては…違うから……」
そうしたら貴方は、少しは救われますか?捕われている闇から救われますか?


「…俺にとって貴方は…そういうひとです……」



性格は正反対で、何もかもが違うのに。
違うのにお前は。お前はあいつと同じ言葉を。
同じ言葉を俺に告げるんだな。同じ、言葉を。


――――胸に突き刺さる、ただひとつの想いを……



『貴方が何者かなど私にはどうでもいい事です』
記憶のなかった俺を見つめ、そして微笑ったお前。
『私にとって貴方は大切な人。ただそれだけ』
途方にくれ何もなくした俺に、お前がくれたもの。
『…私にとって貴方は…そういうひとなのです……』
それが愛だった。俺が唯一持っていなかったものだった。


それを今同じ言葉で、お前が俺に与えようとしているのだろうか?



「…遊びにしとけ…若いうちは変な錯覚を起こすものさ」
それでも、俺はそれを受け入れる事は出来ない。どんなになろうとも。
「一瞬の気の迷いだよ、オージェ」
お前に彼女と同じ運命を辿らせる事は…出来ないから。



そんな俺を見つめるお前の瞳はやはり一途で真っ直ぐだった。それは彼女と同じ瞳、だった。