――――お前が、微笑えと言ったから。
背中に見える海が、漆黒の闇に染まっていた。空に浮かんでいた月は隠され、ただ聴こえるのは波の音だけだった。無人の砂浜に、二人の影だけが浮かび上がっている。まるで世界から、取り残されたように。
一度だけ。ただ一度、だけ。その声を上げて、泣いた。ずっとずっと堪えてきたものが吹き出して、止まらなかった。
「…しゃーねぇな……」
お前がひとつ、微笑う。太陽みたいだった。空の月は闇に隠され、光は何処にもなかったのに。なのにお前だけは。お前だけはひどく。ひどく、眩しく見えた。
「―――今だけは、な。月も隠れてるし…誰も見てねーしな」
頬に手が伸びて、そっと。そっと零れる涙を受け止めて、そのまま。そのままゆっくりと舌を這わせる。頬に掛かる濡れた筋を、舌が辿る。
「今だけは…泣けよ…お前の弱さ全部、俺が貰ってやっから」
そしてそのまま髪をくしゃりと乱され、そしてそっと。そっと、腕の中に抱きしめられた。
『ルトガー、お前は大事な我々の家族だ』
大きな手が、そっと。そっと俺の髪を撫でる。
『大事なサカ族の一員だ。皆そう思っている』
たくさんの大きな大人の手が、俺の髪を撫でてくれる。
『大事な大事な、家族だ』
独りだけ容姿が違う俺を、皆は家族だと言って受け入れてくれた。
あたたかいもの、やさしいもの。それが全てあの日を境に奪われた。
「…ディーク……」
あの日以来涙なんてものは枯れて何処かへ消えていったと思っていた。もう俺の何処を捜してもそんなものは存在しないと思っていた。
「あん?」
ただ復讐のためだけに剣を振るい、生きてきた俺は。いや、生きると言う意味すら分からなくなっていた俺は。ただひたすらに人を殺す以外に何も出来なくなっていた。何も、分からなくなっていた。けれども。
「…お前がいてくれて…よかった……」
けれどもお前が。お前がこうして。こうして俺の忘れていたものを、なくしていたものを、引き出すから。心の奥に沈めてきたものをこうして。こうして暴いてゆくから。
「どーした?珍しく素直だな」
背中をぽんぽんと叩かれて、ひどく安心出来る自分がいる。ほっとしている自分がいる。こんな風に安らげる場所などもう。もう俺には何処にもないと思っていたから。もう何処にも…ないと思っていたから。
「…お前がいてくれたから俺は……」
その先を言おうとして顔を上げたら、ひどく。ひどく優しいお前の瞳にかち合った。誰にでもお前はその瞳を向ける。俺と同じように手を血で汚しながらも、それでも。それでもお前は前だけを見ている。真っ直ぐに前だけを見つめ、そして。そして微笑っている。全てを包み込むような笑顔で。
――――その笑顔に俺がどれだけ救われたか…お前は、気付くだろうか?
お前が、微笑うから。
「…俺は……」
ひどく優しく、微笑うから。
「…ひとで…いられる……」
そっと包み込むように、優しく。
「…ひとのこころを…持っていられる…」
優しく、お前が、微笑うから。
人を殺すたびに、ひとつずつ剥がれてゆくものがあって。
ぽろぽろと俺から剥がれてゆくものがあって。そして。
そして剥き出しにされてゆく俺は、ただの。ただの人の形をした殺戮人形だった。
人を殺すためだけに生きている、ただの抜け殻だった。
――――俺は自分が『ひと』であることすら…見えなくなっていた……
「バーカ、お前はお前だろう?それでいいじゃねーか」
こつんと額が重ねられる。真っ直ぐな瞳が俺だけに向けられる。お前の瞳に映る俺が、一番好きだった。自分を好きだと思えなくなっていた俺が見つけた。見つけた唯一好きだと言える自分は、今ここに。お前の瞳の中にいる。
「…それで、いいだろーが…難しい事考えんなよ。俺は今ここにいるお前が…好きなんだからよ」
重なった額が離れて、そしてその変わりに唇が重ねられる。触れるだけの口付けだったのに、それなのに俺の睫毛は震えた。ただ、震えた。
「…ディーク……」
背中に手を、廻した。俺だけにやると言ってくれた。この場所を俺だけにやると。その言葉に今は。今はただ甘えていたかった。みっともないけれど、でもそんな自分をお前は受け入れてくれるから。みっともない情けない俺でも、お前は。
「好きだぜ、ルトガー。お前みてーなめんどくせー奴は…俺くれーでねぇと相手出来ねーだろ?」
「…お前はっ……」
「ハハ、やっと普段のお前に戻ったな。そんでいい、それでいいんだよ」
乱暴なくらいにひとつ抱きしめられて、そのまま。そのまま柔らかな砂の上に、押し倒された……。
肌を触れる指が、舌が、その全てが熱く焼けるようだった。お前が触れた個所だけがひどく熱い熱を帯びていて。
「…あっ……」
首筋に舌を這わされそのまま鎖骨の窪みをきつく吸われた。そうして俺に消えない痕を作るのは。作るのは…そうして生きているんだという証を刻む為だった。
「ルトガー、もう少し楽に生きろ…俺がいるから……」
「…ディーク…あぁっ……」
胸の果実を指で摘まれ、それだけで甘い息が零れるのを抑えられなかった。柔らかく摘まれ、尖った突起を指の腹で擦られる。その刺激に耐えきれず髪を乱せば、砂がさらさらと絡んできた。
「…俺がいるから…ずっとお前とともに……」
「…はぁっ…あぁ……」
囁かれる言葉に睫毛が震える。触れられる指先よりもざらついた舌の感触よりも、その言葉に。その言葉に俺は。俺は…。
「――――独りにしねーから……」
「ああっ!」
脚を開かされ、大きな手が中心に触れる。その手の感触に背筋がぞくぞくとした。大きくて厚くて、肉感のあるその手に。
「…ディーク…あぁ…あ……」
がくがくと小刻みに脚が震える。膝を立たせられたけれど、それすらも危うくなってきた。俺は背中に廻した手で必死にしがみ付き、訪れる波に飲まれないように堪えた。
「ルトガー」
名前を呼ばれるのが、好きだった。お前の声で呼ばれるのが。必要とされているような気がして、好きだった。
「…あぁ…ディーク…っ……」
手の中でどくどくと脈打っているのが分かる。先端部分を指で抉られ、びくんっと身体が跳ねるのを止められなかった。そしてそのままお前の手のひらに白濁した液体を吐き出した。
「…んっ…んんんっ!……」
口付けられながお前が俺の中に挿ってくる。吐息を奪われながら、貫かれる刺激に耐えきれず背中に爪を、立てた。立てていいとお前が言ったから。そうやって背中に傷を刻んでいいと言ったから。
「…んんっ…はぁっ…ああっ!……」
唾液が絡み合うほど唇を重ね、何度も息を奪われる。剥き出しにされた背中に砂が擦れて、少しだけ痛かった。それに気付いたお前の手が、俺の身体を抱き上げる。そのせいでより深くお前を受け入れる事になったが、それすらも今の俺にとっては。
「…あぁぁ…ディーク…っ…ディーク……」
そんな優しさすらも、今の俺にとっては苦しいほどに嬉しいものだったから。胸が苦しくなるほどに、俺にとっては。
「―――砂いっぱい付いちまったな」
「…はぁぁっ…あぁぁ……」
髪から砂がぱらぱらと零れてお前の身体に降って来る。それでも繋いだ身体は離さなかったし、突き上げる動きも止まらなかった。ただ大きな手だけが、俺の顔についた砂をそっと。そっと落としてくれる以外には。
「…ディーク…ディーク……」
「ああ、好きだぜ。ルトガーお前が誰よりもな」
目尻から零れる涙が何の為に流れているのか分からなくなっていた。それでもお前が俺の名前を呼ぶたびに、零れてゆく。お前が俺の名前を、呼ぶたびに。そして。
「――――あああっ!!」
深く突き上げられ中に熱い液体が注がれた瞬間、砂の上に俺の欲望も吐き出された。
柔らかい砂が、俺を埋めてゆく。
さらさらと、さらさらと。けれども。
けれどもその砂から引き上げてくれる手を。
その手を俺は、知っているから。
こころが埋もれていた。感覚が埋もれていた。お前が引き上げてくれるまでは。
「…ディーク…責任取れよ…お前が俺をこんなに…したんだ…」
「ああ、とってやるさ。お前は大事な俺の『相棒』だからな」
「―――― 一生…取ってやるかんな……」