乾いた華



何時しか分かる日が来るのかもしれない。見えなかったものも、見えるようになるのかもしれない。けれども知らなければしあわせだと、そう思えるものもまた確かにここにあった。


気が付かなければよかった。気付かなければよかった。そうすれば胸に過ぎる罪悪感も、心の微かな痛みも、ただ。ただ過ぎ去りし思い出として、そっと残るだけだったから。
「さよならだね、これで」
ひどくその笑みが儚げに見えた。そんな言葉と無縁の世界で生きてきた男なのに。なのに今自分に見せた笑みはひどく儚く、見えた。
「―――カレル……」
その名を呟いた自分の声にひどく違和感を感じた。そう言えば自分は彼の名を何時も呼んではいなかった。こうして改めて呼んでみて気付いた違和感が、二人が積み上げてきた関係の全てだったのかもしれない。
「楽しかったよ、君といた時間は」
無造作に切られた髪が風に揺れる。その髪に指を絡めて眠った夜はどれだけあっただろうか?その身体を組み敷き、声を上げさせた日々は。
今思えばその何の生産性のない日々ですら、懐かしいものに感じる。こうして永遠の別れに気付いた瞬間から。
「楽しかったよ、本当にね」
何も生み出さず、何も与えられない。それでも必要だった時間。それでも存在した時間。そこに何もなかったのかと聴かれれば、やっぱり答えはノーだろう。何も生み出すものがなかったとしても、二人にとっては意味のあるものだった。二人にとっては。
「またあんたは、消えるんだな。剣聖の名から逃れるために」
自分の問いかけに彼はまた微笑った。それは何時もの。何時もの彼の穏やかな笑みだった。全てを悟り、全てを諦め、そして全てを越えた者だけが持つ、笑みだった。


初めて彼と出逢ったのは、まだ部族が健在だった頃。ふらりと現れた剣聖の名を持つ者。まだガキだった俺はその意味すらろくに分からないまま、ただその強さのみに憧れていた。そして現れた時と同時にふわりと消えた男。その記憶は俺の中に埋もれ、完全に忘れ去られていた。
次に出逢った時、俺は帰るべき場所をなくしていた。ベルンの侵略によってサカの部族は散り散りにされ、俺は傭兵として転々としていた。やっとの事で見つけ出した長の孫娘スー様とともにロイ軍に加わり戦いに明け暮れた日々。帰るべき部族はなく、今ここで戦ってスー様を護る事が全てになって。そうなった時、あんたは再び俺の前に現れた。剣聖の名を持つ男として、ロイ軍に加わる事となって。

あの頃純粋に憧れとして存在していた彼は、今別の意味を持って俺の中に存在している。

身体を重ねるようになったきっかけは、本当に些細な事で今もきちんと思い出せないでいる。ただ彼がそういった行為に慣れていた事だけが、印象に残っている。ろくさま前戯もしないで貫いたのに、淫らに反応して身体が。
「私は何処までいっても私でしかない。それだけだよ」
性欲を満たすためだけのセックス。純粋に欲だけを追求した行為。そこに打算も思考も想いもなくただ。ただ本能のみだけが作り上げた関係。だからこそ純粋に溺れた。セックスのみに没頭していた。それが二人の関係だった。それが、二人が作り上げたものだった。だから何も残らないはずだった。こうして全てが終わり別れが来ても、二人の間に残るものは何もない筈だったのに。
「…カレル……」
何もなかったはずなのに、どうしてだろう。どうして胸の中に罪悪感と、心の痛みが存在するのだろう。これは、一体何なのだろうか?
「―――さようなら、シン」
それでも、終わりだ。これで、終わりだ。最期のキスをしたら、二人の間にあったもの全てが終わる。後は遠い思い出として心の隅に残るだけだ。我を忘れるほどに溺れたセックスも、獣のように抱き合った日々も。
そこに想いは何も。何もなかったはずなのだから。


髪に指を絡めて、そして眠った夜も。
声が枯れるまで、抱き合った夜も。全部。
全部それは思い出となる。その存在すら。
何時しか胸の奥底に閉じ込められてゆく。

初めから分かっていた事だ。最初から分かっていた事だ。
そうしなければ、この関係は成立しないのだから。



「…さようなら…シン……」



触れて離れた唇。何度も舌を絡ませ合いしてきたものなのに。なのにこんな。こんな触れるだけのキスが。ただ触れて離れただけのキスが、こんなにも胸に広がるものだなんて俺は知らなかった。知らなかった。


離れてゆくぬくもり。唇の感触。そのまま。
そのまま振り返る事無く、小さくなってゆく背中。
今見ているこの映像のように、彼の存在も。
彼の存在も俺の中で、静かに消えてゆくのだろう。


遠い思い出として。胸に微かに残る、誰にも告げる事のない思い出として。


もう二度と逢う事のない相手。彼が言った。もう次はないと。次はないのだと。剣聖の名はこれで終わりだと。もう何処にも自分はいないからと。だからさよならだと。
元々この関係に想いはなかった。何もなかった。ただ抱き合い性欲を満たすためだけの関係だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。そう、それだけだった。それだけ、だった。



「…思い出…かよ……」



口に出した声に俺は笑った。バカだ、本当は。本当はとっくに気付いていた。気付いていながら、俺は知らない振りをしていたんだ。そう、知らない振りをずっと。ずっと、していたんだ。


―――永遠のさよならは、あんたの『死』しかありえないのだと。


知っていた。知っていたよ。あんたはもう長くない。本当は分かっていたんだ。それでも俺は知らない振りをしていた。ただあんたの望むままに抱いて貫いて、欲望に溺れさせて。何よりも強く何よりも達観し、全てを諦めていたあんたが。そんなあんたがそれでも何処かで諦めきれなかったものを、俺は知っている。生きたかったと、あんたが望んでいた事を。
「可愛い姪の為?それともロイが作り出す未来のため?」
もしもそれがあんたの生きたいと願った理由なら俺は、完全にあんたを思い出に出来る。そんなモノに拘って生きたいと思ったあんたなら、俺は完全に剣聖への憧れに決別出来る。
「でも…違う…違うよな…あんたは……」
気付かなければよかった。知らなければよかった。知らなければしあわせだった。分からなければ、しあわせだった。
「…そんなものじゃない…あんたの拘りは…俺だ……」
何も残らないように。俺に残らないように、その為にあんたは生きたいと…時間が欲しいとそう願っていた事を。


初めてあんたを抱いた夜。あんたは言った。全て私のせいだ、と。ただそれだけを言った。戦争が終わり、全てを清算し死を待つだけのあんたを。そんなあんたに俺という存在が、新たなものを作ってしまった。作ってしまったものを片付けるために、あんたはわざと何も残らないようにこうした。セックスだけの関係に。それだけに、した。
あんたは気付かないように。本当の、俺の心の奥底に気付かないように。気付かないようにこうして欲望だけに埋めさせた。それだけに摩り替えた。でも。でも、俺は。俺は本当は。



「…好き…だった…カレル……」



気付かなければよかった。知らなければしあわせだった。
けれども気付いてしまった。けれども知ってしまった。


俺の想いを気付かせないために、俺の想いが完全に思い出に摩り替わるように。けれども皮肉だな。あんたがそうすればそうするほどに、俺は分かってしまった。そしてそんな風にしてくれたあんたの想いも…俺には…伝わった。


ただ抱き合うだけなのに、こんなにも溺れたのが答えだ。
互いしか見えなくなるほどに身体を重ねたのが答えだ。


伝わった。痛い程に伝わった。あんたの俺への想いが。そして俺は伝えていた。あんたへの想いを。


どんな言葉よりも、どんな態度よりも。
どんな仕草よりも、どんな…瞳よりも。


繋がった身体よりも雄弁に語るものはなかった。それを分かっていたから、騙されるしかなかった。知らない振りをするしかなかった。




「――――好きだ……」




俺にとって出来る事は最期までそばにいる事じゃなく、全てを騙される事しかなかった。