その一言だけが、どうしても告げられなかった。どうしても言葉にする事が、出来なかった。今この場で、今この瞬間。この言葉を貴方に告げなければ。
告げなかったならば、僕は。僕はこの先どうする事も出来ないのに。どうにも出来ないのに。それなのに、どうしても。どうしても僕は、この一言だけが。一言だけが、言えない。
『…ずっと僕のそばにいてくれ…お前だけはずっと…僕のそばに……』
貴方の選んだ道がどんなに険しく、どんなに辛いものだと気付いた瞬間に。貴方が進む道がどれだけ困難で、どれだけ痛みを伴うか理解した瞬間に。僕はこの選択肢以外を選ぶ事が出来なくなっていた。それ以外の回答を、見つけられる事が出来なかった。
夢がずっと夢のままならば。ぬくもりがずっと、そばにあるならば。何も怖いものなんてなかった。
「…ごめんなさい、ランス様……」
顔を上げる事が出来なかった。どうしても、出来なかった。本当は貴方の目をちゃんと見て、そして微笑っていなければいけないのに。でも僕にはどうしても、それが出来なかった。
「―――ウォルト……」
耳元に届く貴方の声は何処までも優しい。何処までも、暖かい。僕は誰よりも貴方に名前を呼んでもらえる瞬間が、大好きだった。他の誰よりも貴方のその声で。出来るならばずっと。ずっと貴方の声でこの名前を呼んでもらいたかった。
「…全部…忘れてください…今までのことは…全部……」
笑って言うつもりだった。何時ものように笑って。貴方が一番好きだって言ってくれた笑顔を向けて、そして。そして告げるつもりだった――――さよなら、と。
『お前だけは、ずっと僕のそばにいてくれ』
そばにいます。ずっとそばにいます。だって僕らは。
『どんな事になってもそばにいてくれ』
僕らは初めて指を絡めた相手。初めて言葉を交わした相手。
『お前がいてくれれば、僕はどんな事にも耐えられるから』
何時も貴方だった。僕の初めては貴方だった。どんな時も、どんな瞬間も。
ただひとつだけが。ただひとつの事だけが、貴方以外から与えられただけなのに。
そのひとつがこんなにも。こんなにも僕を苦しめる。ふたりで築き上げてきたものはこんなにもたくさんあるのに。両手で抱えきれないほどたくさんあるのに。なのにこのたったひとつの感情が。たったひとつの想いが。それだけが僕を。僕を戻れない場所へと導いた。戻れない所へと。
「それは出来ない、ウォルト」
そうたったひとつの事。たったひとつの、事。それはひとを愛するという事。誰かを愛するという想い。どうにも出来ないほどに恋焦がれ、そして苦しいほどに貴方だけを願う。貴方だけを、想う。
「お前を忘れるなんて、私には出来ないよ」
優しい声。穏やかな声。そして何処か胸が苦しくなる、声。貴方は全てを分かっているのだろう。僕がどうしてこんな言葉を貴方に告げるのか。どうして僕が顔を上げられないのか。貴方には全部、分かるのだろう。
それでも僕は告げなければいけない。貴方は受け入れなくてはいけない。それはどうしても変えられないことだから。それが、僕が選択した事だから。
「出来ないよ、ウォルト」
ええそれは。それは僕も同じです。同じなんです。どんな事になってもどんな道を選んでも。貴方の腕の中にいた時間を、忘れる事なんて僕には出来ないから。
「…忘れてください…お願いです…もう僕のことは…僕の事で貴方を縛りたくないんです……」
でも忘れて欲しいんです。忘れて欲しいんです。僕にとって貴方という選択肢がない以上、貴方にしあわせになって欲しいから。僕ではない誰かと、しあわせになって欲しいから。だからどうか。どうか、僕の事は思い出に変えてください。
「…どうかお願いです…ランス様……」
僕はずっと貴方を好きでいるから。この先どんな事になっても、貴方をずっと好きでいるから。だから貴方は違う場所に飛び立ってください。飛べなくなった僕の代わりに。
僕にとっても貴方にとっても一番はロイ様である事実が変わらない以上。
二人にとっての絶対がロイ様である以上。僕達は一緒にはいられないから。
ロイ様が僕を求める以上。僕は全てを懸けてあの人のそばにいたい。ただ一人の主君の為に、ただ一人の半身の為に、僕はずっとそばにいたい。そして貴方にとってもロイ様が何よりも大切な存在である以上、僕が選んだ選択肢を否定する理由がない。
「―――私が…主君を裏切ってでもお前の手を取れる男ならば…お前をこんなに苦しめなかったんだろうね」
「…ランス様……」
「そうしたら私だけが悪者で、お前は被害者で済んだのだから」
「そんなっ!それは違いますっ!!それならば僕は…僕の方が罪深い…貴方に裏切り者の名を着せても…きっと僕は……」
僕はその手を離さないだろう。ううん、離せない。だって今だって。今だってこの顔を上げて、そして。そして貴方の瞳を見つめて、このまま。このまま腕の中に飛び込んでしまいたいと願っているのだから。
「…だから…これでいいんです…これで、いいんです…ランス様……」
貴方が好きです。貴方だけを愛しています。生まれて初めて恋をした人。生まれて初めて身体を重ねた人。忘れないから。どんな事になっても、忘れないから。だから。
「それでも私はお前を…愛している…今告げる事がどんなに残酷か分かっていても、それでも私は告げずにはいられない」
だからどうか。どうかこの手を、離す事を赦してください。貴方のそばにいられない事を、赦してください。
「――――ずっとお前を、愛しているから……」
そっと腕が伸びてきて、このまま僕は抱きしめられた。背中に腕を廻したかったけれど、必死で堪えた。このまま腕を廻してしまったならば、僕は本当に貴方を離せなくなってしまうから。
誰のせいでもない。誰も悪くない。ただ好きになっただけだった。
ただ愛しただけだった。それだけなのに。それだけが、こんなにも。
こんなにも辛くて、こんなにも苦しくて。そして。そして傷つける。
それでも止められなかったから。それでも想いを、止められなかったから。
どんなに傷ついても、どんなに苦しくても、好きだという気持ちは止められなかった。
好きです、ランス様。ずっと、好きです。
「…それでも…お前が決めた事だから……」
貴方だけが好き。貴方だけを愛している。
「お前が決めた事だから、私は」
それは変わらない。ずっと、ずっと変わらない。
「――――私は…お前の手を離す事しか、出来ない……」
「それでもこれだけは憶えていてくれ」
「…ランス…様……」
「…憶えていてくれ…ウォルト……」
「…私はずっと…お前を見ているよ……」
何時も一生懸命だったお前。何時も必死だったお前。
ロイ様を護るために、ロイ様の為に強くなろうと懸命だったお前。
そんなお前が好きだったよ。好きだよ。
ロイ様のためにひたむきに頑張るお前を見ているのが好きだったよ。
だから、今。今こうして私よりもロイ様の為に、また。
また必死になっているお前が好きだから。
そんなお前だから私は…お前を愛したのだから。
私の手を震えながら、それでも離してロイ様の為に生きると決めたお前を、愛しているんだ。
「だから言わないよ。さよならとだけは…言わないよ、ウォルト……」