その小さな額に、キスをする。愛しているのよと、大切なのよと。
小さな小さなこの命に、キスをする。この手のひらにある小さな命に。
何時かその頭上に花飾りを作って、たくさんの花びらの雨を降らせてあげたね。
本当に哀しい時は、涙すら出ないのだと。それすら出ないのだと、そう思った。目の前にある現実が、まるで自分とは違う場所で起きているようで。まるで他人事のようで。
風景は、景色はちゃんと。ちゃんと色を成してある筈なのに、なのに私の目には色がなくなっていた。灰色の、景色。白と黒しかない風景。それが、瞳に。瞳に映像のように焼き付いて。
瞼にただ、焼き付いて。焼き付いて、そっと。そっと剥がれてゆく。そっと、崩れてゆく。
花びらが空から降って来る。弔いの花びらが落ちて来る。
「――――イグレーヌ……」
それは、綺麗だった。ただひたすらに綺麗だった。綺麗な、夢。
「…あなた……」
綺麗な綺麗な夢で。全部夢だったら。夢だったらよかった。
「…あなた…あの子は、何処にいるのですか?……」
今ここにあるもの全てが夢だったら。夢だったらよかった。目が醒めたら。
「…何処に…いるの…ですか?……」
目が醒めたら何時もの通りで。何時もの、通りで。あなたと私とそして。
そしてあの子が、無邪気に微笑っているのだと。
小さな命。生まれてそして、歩き始めた命。
これから自分の脚で立って、そして未来を見つける命。
大切な、大切な、命。これからたくさんの。
たくさんの輝けるものを、たくさんのしあわせを、たくさんの未来を。
手に入れるはずの命だった。たくさんの想いを、掴んでゆく命だった。
小さな身体を抱きしめて、指を絡めて眠る夜が。
髪を撫で柔らかな頬に触れて、そっと目覚める朝が。
「…何処に…いるの?……あなた………」
笑おうとして口許が歪む。そんな私をあなたは何も言わずに抱きしめた。何も言わずに抱きしめて、そして。そして優しく髪を撫でてくれる。
貴方の手は何時も暖かい。そっと、暖かい。この暖かさを持った娘だった。貴方の優しさをそのまま真っ直ぐに受け入れた娘だった。私の…私の小さな命。あなたと私の大切な小さな命だった。
「ここにいる。ちゃんと俺とお前の心の中に」
昨日まで声を上げて笑っていた。大きな声で泣いていた。そして私達の後を一生懸命に着いて来た。柔らかくて小さな手のひらを私は確かにこの手で握っていた。
「俺達の心の中に、いるから」
握っていたのよ。だってほら。ほらまだぬくもりが手のひらに残っている。あの子の柔らかく暖かいぬくもりが。ねぇ、残っているの。この手にちゃんと残っているの。残っているのよ。
「…いるから…イグレーヌ……」
柔らかな肌のぬくもり。抱きしめたぬくもり。
「…あなた…あなた……」
昨日までこの腕に抱いていたぬくもり。昨日までそっと。
「…あの子は…あの子は…何処に…何処に……」
そっと抱きしめていたのよ。一緒に指を絡めて眠っていたのよ。
「…何処に…何処にいるのですかっ?!」
だってこんなにも近くに。近くにあの子はいたんだもの。
こんなにも私のそばで、あの子は無邪気に微笑っていたんだもの。
「…何処…何処…何処にいるの?……」
「…イグレーヌ……」
「…淋しいでしょ?独りでは…だから母さんが…母さんが暖めてあげるから」
「…イグレーヌ…もう……」
「暖めてあげるから…ねぇ…ねぇ…笑って…もう一度…笑って…ねぇ……」
「…もう止めるんだ…もうこれ以上は……」
「…笑ってよねぇ…ねえ…お願いだからっ!!!」
貴方の腕から擦り抜け、墓標の前の土を掻き毟る私を。そんな私をあなたは背中から抱きしめ。抱きしめ、そして。そしてその手を止めさせる。爪に土が食い込み、指から血が溢れる私を。私を抱きしめ、そして。
「…お前が…お前が笑っていなければ…あいつも…笑えないんだ…だから……」
そして震える腕が、震える声が。私を、わたしを。
「…イグレーヌ…お前が笑っていなければ……」
わたしのかみを、なでる。そのてはふるえている。
「…お前が…お前が…哀しめば……」
わたしにかたりかけるそのこえは。そのこえは。
「…あいつも…哀しいんだ……」
そのこえは、ひっしにこらえながら…ふるえていた。
「…あなた…あなた…私は…私は……」
貴方の腕は何時も私に場所を与えてくれる。こうして今も私に泣き場所を与えてくれる。だから、私も。私も与えたい。与えたかった。あなたに場所を。あなたにも、ただひとつの場所を。
「…私は…ちゃんとあの子の母親でいられたでしょうか?」
私がこうして泣けば、あなたは泣けない。私が泣く場所を与えるために、あなたは心に哀しみを閉じ込める。けれども私も。私もあなたに与えたい。
「…あの子の母親で…ちゃんとした母親で…いられたでしょうか?」
哀しみをともに分け合いたい。こうして、全てを分かち合いたい。あなたと。あなたと、分け合いたい。
「―――お前はあいつの母親で…そして俺の…妻だ……」
腕を廻し、背中にしがみ付き声を上げて泣く。あなたの涙を犠牲にして私は声を上げて泣く。それをあなたは受けとめてくれる。どんなに辛くても、受け止めてくれる。
「…あなた…あなた……」
こんなに優しいひとなのよ。こんなに強いひとなのよ。貴方の父親はこんなにも立派なひとなのよ。だから。だからもっともっと生きて、そして知って欲しかった。もっともっとたくさんの事を貴方に知って欲しかった。
貴方にたくさんの事を、教えてあげたかった。たくさんのしあわせを…教えてあげたかった。
生まれたての太陽の光を。
萌える緑の暖かさを。そして。
そしてそっと包み込む優しい闇を。
額にキスをする。何時もそうしていた。あの子に、そうしていた。
「…イグレーヌ?……」
あの子と同じように、あなたにキスをして。そして。そしてそっと指を絡めて。
「…あなたも…泣いてください…一緒に…」
小さなキス。手探りのキス。でも何よりも大事なキス。
「―――イグレーヌ…俺は……」
大切なもの。大切な、もの。消えないぬくもりをずっと残していたいから。
「…泣いて…ください…私の涙を受けとめてくれたように、私もあなたの涙を受け止めたいから……」
あの子のぬくもりを、ずっと。ずっと私の指先に、そしてあなたの指先に。
「…イグレーヌ…すまない……」
そしてあなたは声を押し殺して私の肩の上で泣いた。決して声を漏らさずに、泣き顔を私には見せずに。そんなあなたの髪を撫でる私の手は震えていた。
…あなたが私の髪を撫でてくれた時と同じように…震えていた……。