Kissing you



――――目を閉じて真っ先に浮かぶのは、貴方の優しい笑顔だった。


普段があまり笑わない人だったから。滅多に笑わない人だったから、だからふとした瞬間に見せてくれる笑顔が何よりも優しいものだった。
何よりも優しくて、そして暖かいものだったから私は何時も。何時も気付くとその瞬間を、探していた。


貴方がそっと微笑んでくれるその瞬間を。


私達はとても遠い場所に来てしまって、もうあの頃には戻れないけれど。それでもやっぱり目を閉じて真っ先に浮かぶのは貴方の笑顔だけだった。優しい笑顔、だった。



「姉さん、ここにいたんだ」
風がふわりと吹いて髪を揺らした。その風とともに運ばれる声に振り返れば、あの頃よりもずっと。ずっと近くて遠くなった弟の姿があった。
「ええ、風にあたりたくて」
何時も私と貴方の背中を追い駆けていた弟。ずっと私の中では小さな少年だった。身体は大きくなって私の身長を追い越しても、ずっと。ずっと私には私達を追い駆けていた小さな少年だった。

あの日までは。貴方と永遠のさよならをした、あの日までは。

今はもう私を追い越したのかもしれない。騎士としても、人間としても。私と同じ場所に立ちながら、私とは違うものを見ている弟。私とは違うものを見つめて、そして先に進もうとしている弟。その瞳は未来を…見つめている。
「風気持ちいいね、姉さん」
隣に立ち空を見上げる横顔は、まだ何処かあどけなさすら残している。けれどもその瞳は、私よりもずっと。ずっと輝いているように見えた。その瞳が捉える未来にはもう迷いがなくて、真っ直ぐで。それが何処か少しだけ私には羨ましいものに思えた。
「ええ、そうね」
風が、吹く。二人の間を擦り抜けてゆく風。この風が運ぶものは、きっと。きっと私達には違うものなのだろう。もう同じものは、運んでこないのだろう。
「―――気持ちのいい、風ね」
こうして同じ場所に立っていても、私達は違うものを見ていた。違うものを、捜している。


迷いも、戸惑いもなかった。信じた道を進んだだけだ。
何が正しくて何が間違えかは、もう今になっては分からない。
分からないから、自分の心のままに進んだ。心に従った。
それを後悔はしていない。後悔は、していない。けれども。
けれども胸の痛みと苦しみは、どうしても止める事が出来なかった。


貴方とともに生きる未来を描かなかった訳じゃない。貴方と生きてゆく未来を願わなかった訳じゃない。そばにいられるならば、永遠に。永遠にいたいと思っていた。それは嘘じゃなかった。


「竜に乗っている時とは、違う風だよな。でも…こういうのもたまにはいいよな」
あれだけ貴方を追い駆けていた弟は、貴方を乗り越え大人になった。弟にとって貴方との別れは、成長だった。追い駆ける事を止め、自分の脚で立つ事を知った弟は、何時しか私よりも先を歩いていた。前だけを見つめて、未来だけを見つめて、歩いている。
「ふふ、そうね」
そんな弟の背中を見護りながら、私は立ち止まった。この場所に立ち止まった。今まで前に進み続けた私は、貴方との別れの日から…この場所に立ち止まった。
「私もこうして立ち止まって、風を感じるのは好きよ」
おかしいかもしれない。でも今この瞬間に初めて貴方と本当に向き合えた気がする。こうして立ち止まって初めて、貴方という存在と私は向き合えた気がする。


私も追い駆けていた。貴方を、追い駆けていた。
それはきっと弟と同じだった。同じ、だった。
そうして貴方が振り返り、私に微笑う瞬間を。微笑う、瞬間を。
私はずっと。ずっと待っていたのかもしれない。


竜に乗り、貴方の背中を追い駆けていた日々。貴方の髪が風に揺れて靡くのを、ずっと見つめていた日々。戦場に立ちながらも怖いという思いがなかったのは、何時も。何時も何処かでどんな瞬間でも貴方が振り返ってくれると思っていたから。

どんな時でも、必ず貴方は振り返ってくれるのだろうと。

でもそれを失って。その瞬間を失って。それがもう二度とありえないと気が付いて、そして分かった事。初めて、気が付いた事。
初めて気が付いた。本当に馬鹿みたいな事に気が付いた。当たり前になっていたから、分からなかった事に。
「――――ゲイルも、好きだったの」
私はベルンを裏切り王女を選んでも、それでも貴方は私に振り返ってくれるんだって何処かで思っていたことに。そしてそれは、私が。私がどれだけ貴方に依存し、そして騎士として甘かったのだと。
「…姉さん……」
「あの人は竜に乗るよりも、こうして大地に脚を着けて風を感じる事が…好きだったの」
国を裏切り王女に着く事。今までの自分の居場所を捨て、そして別の場所を得る事。その覚悟は自分では分かっているつもりだった。つもり、だった。
けれども私はまだ何処かで、貴方に…甘えていたのだと。貴方に頼っていたのだと。
「今ならその気持ちが、分かるわ」
そんな私に貴方が最期に教えてくれた。最期の最期で私を本当の騎士にしてくれた。王女の騎士に、してくれた。それが、私が貴方にくれたもの。貴方だけが、私に与えてくれたもの。

――――貴方だけが私に、くれた、もの。


空で感じる風よりも、こうして大地を踏みしめて感じる風が。
こうして地上で感じる風が、どんなにかけがえのないものなのかと。
そしてそれこそが『生きて』いる証だからと。生きているから感じるものだと。
大地のぬくもりと、自然の風を感じる事が。そんな当たり前のことが。


当たり前の事が、どんなにかげがえなく、尊いものかと。


目を、閉じる。そして全身で風を感じる。
その瞼の裏には貴方の笑顔。貴方の優しい笑顔。
私が一番に思い出す、貴方の笑顔。貴方の、笑顔。
何処にいても、どんな場所に立っても。私には。
私には真っ先に浮かべる笑顔があるから。



「生きるって事は、とても辛く…けれども何よりも尊いものだから」