戦場に咲いた紅い華。何よりも綺麗で、何よりも残酷で。
そして何よりも哀しく見える、紅の華。
―――――貴方のその華を咲かせる為ならば、俺は幾らでも土になろう。
髪が、揺れた。無造作に切り刻んだ漆黒の髪が、風に揺れる。交わした剣が唯一避け切れなかったその一ふさが、ぱらりと血塗れの大地に散らばった。
「――――カレルさん……」
やっとの事で零れた名前は、その声は何処か掠れている。情けないほどに身体が震え、握り締めた拳が小刻みに揺れる。
「………」
その声に振り返る貴方の瞳は、ひどく透明に見えた。空っぽとは違う、けれども何もない瞳だった。そこに何かを映す訳ではなく、そこに何を見つめている訳でもない。こうして俺の声に振り返っても、俺を見ている訳じゃない。
「…あ、俺…まだ手が…震えている……」
返り血を無造作に拭うその指先すら綺麗だった。こんなにも廻りは血に塗れ生臭い薫りが一面に漂っているのに。漂っているのにそこにいる貴方だけがひどく綺麗だった。
そこには血の匂いも、死体の山も、別の場所にあるような。いや貴方だけが別の場所にいるような。
「剣聖など…まやかしだろう?」
凛とした張り詰めた空気の中で貴方だけが、ひどく柔らかい空気の中にいた。あれだけ人を斬り、死体の山を重ねていったのに。貴方だけがこの現実にいなかった。
「私は剣聖などではない。ただの殺人者だよ」
顔色一つ変えずに、無言で剣を振るう。息すら乱れずに、ただ。ただ人を切り刻む。その手はうっとりするほどに美しく、そして残酷なものだった。貴方が綺麗であればあるほどに、残酷で恐ろしいものだった。それでも惹き付けられずにはいられない。目が離せない。
この世で一番怖いものは、残酷なまでの綺麗さだと…俺が身を以って知った瞬間。
「…いいえ貴方は剣聖です……」
血に塗れ、死臭を浴び。それでも綺麗な人。
「こんなにも貴方は綺麗」
大量の血も屍の山もその全てが。
「…血も死体も…全て…届かない場所にいる……」
その全てが貴方を綺麗に見せる飾りでしかない。
残酷に人を殺す。華麗に人を殺す。それは何と美しく、何と恐ろしいものか。
指の震えが収まった頃、貴方の手に自らの指を絡めた。血塗れのその指を絡めて、そっと。そっと零れ落ちる血を唇で拭った。広がる生暖かい液体の感触が、今はひどく甘いものに感じる。
「――――ノア……」
その声に唇を指に押し当てたまま顔を上げれば、少しだけ…本当に少しだけ表情を変えた貴方がいた。それはこんな至近距離で、そしてずっと貴方を見ていなければ分からないほどに。
「貴方のせいで流れた血は、こんなにも俺にとって現実なのに」
貴方の笑みは怖いほどに綺麗。壊れるほどに綺麗。強くてそして儚い貴方の笑みは、リアルの欠片が何処にもない。何処にも、現実感がない。
「貴方だけが…遠い…貴方だけが違う場所にいる……」
その笑みを浮かべ、貴方の空いている方の手が俺の頬に伸ばされる。それは予想と反して暖かい手だった。ぬくもりがある手だった。ひんやりと冷たい手ではなかった。
「私はここにいるのに?」
唇を指から離し、その代わりにそのまま。そのままきつく指を絡めた。綺麗な貴方の唯一の人間らしい部分がこの手だった。握りすぎて剣蛸の出来た、この手だった。
「私は『ここ』にいるよ。君の…そばに……」
微笑う、貴方。何よりも綺麗で強くて、そして儚いもの。何よりも愛しく何よりも憧れ、そして何よりも穢したいもの。何よりも、俺にとって。
「…君のそばにいるのに…遠いのかい?」
頬に重なった手が、そのまま。そのまま貴方は自らに引き寄せ、そして。そして俺の唇をそっと塞いだ。
この人を、愛しているんだと。この人だけを愛しているのだと。
それだけを強く願い想うのに。何時も気持ちが滑って零れてゆく。
幾ら貴方に愛という名の水を注いでも、貴方は。貴方は擦り抜けてゆく。
そっと擦り抜けてゆく。だから俺は永遠に。永遠に追い続けるしかない。
――――貴方という、何よりも綺麗で残酷な生き物を。
戦いの後、貴方の身体が火照るのは何時もの事だった。人を殺す快感に溺れた貴方の欲望の捌け口は、何時もセックスだった。そうしなければ熱が収まらない事を、知っている。けれども今は。今だけは。
「抱いて欲しいですか?貴方の身体は雄を求めている?」
抱きしめ耳元で囁く言葉に、俺を見つめる瞳はひどく扇情的だった。こうして幾つもの夜の海を渡り、男の腕の中を流れてきた人。けれども何時も。何時も貴方だけが変わらない。幾千もの夜そう過ごしてきても、何時も傷つくのは抱いた男のほうだけ。貴方は決して傷つかない。貴方は決して穢れない。どんなに血に塗れても、どんなに欲望に塗れても。
それでも恋をした相手が愚かなのだ。それでも恋焦がれる自分が愚かなのだ。貴方は決して誰のものにもならない。誰のものにも、ならないのだから。
それが貴方という名の、何よりも綺麗で残酷な生き物だから。
「――――カレルさん」
髪を撫で、軽い口付けだけを与え。
「…ノア……」
柔らかく抱きしめて、そして。
「…愛しています…貴方だけを……」
そしてこのままでいるだけの俺は。
「…愛しています……」
貴方には、必要ない?セックス以外、必要ない?
「……私も…だよ……」
指先が伸びてきて、そして俺の髪に触れて。髪に触れて、貴方がそっと微笑った。それは何時もの笑み。何時もの、貴方の現実感のない笑み。けれども。けれどもぬくもりは腕の中にある。貴方の暖かさは、この腕の中にある。
「カレルさん…このままでいてください……」
貴方の命が俺の腕の中にある。貴方の存在がこの腕の中にある。貴方が今、ここに存在している。
「…今だけでいいから…その言葉を信じさせてください…だから」
「…今、貴方を抱かない俺でも…こうして……」
その咲きの言葉は貴方の口の中に飲み込まれた。そっと重なるだけの口付け。そっと触れるだけの口付け。それを何度か繰り返し、もう一度。もう一度貴方は俺を見つめて。
貴方は何も言わずに俺の背中に手を廻して、そして目を閉じた。そっと、目を閉じた。