全てを悟りながら、それでも追い求める道がまだ続く限り。
失って気付くものがある。過ぎ去ってから気付くものがある。
けれども、それに気付いても。それに気付いたとしても。
もう、この手に戻る事は二度とない。もう、二度と。
「カレルさん」
風がひとつ吹いて、その髪を揺らした。さらさらと風に髪が、揺れる。無造作に切ったと思える髪なのに、それはひどく細く柔らかいものだった。その髪にふと。ふと触れたいとノアは思った。
「どうしたんだい?そんな顔をして」
振り返ったカレルの背後には沈みかけた夕日が照らされていた。その光の破片が髪に散らばりきらきらと輝いている。それはひどく。ひどく、綺麗に見えて。綺麗に見えたから…ノアはしばらく口も聴けずに彼に見惚れていた。
「い、いえ…貴方がそのひどく」
ひどく綺麗に見えたから…そう口にしようとして、それを寸での所で止めた。今その言葉を口にしても、そんな賛辞を述べても、きっと彼にとっては無意味なものだろうから。
「ひどく?」
涼やかな笑顔を浮かべながら、カレルはノアに尋ねた。この独特の雰囲気が何よりもノアには心地よく、そして心を乱されるものだとは、きっとカレルは気付いていないだろう。この不思議な掴み所の無い空気と、そして笑顔。そっと口許に笑みを浮かべているだけなのに、ひどくこころを乱すその表情が。
まるでこの場所にはいないようにな。ここに存在しているのに何処か違う場所にいるような。
ずっと探していた人だった。ずっと追いかけていた人だった。
自分が剣を手に取ったのも貴方がいたから。貴方の存在があったから。
騎士になりながらも槍よりも剣を手に取ったのも、ただひたすらに。
ひたすらに貴方の存在があった、から。
ずっと捜していた。ずっと求めていた。
幼い頃から母親に聴かされた貴方の話に。
貴方の話に憧れ続け、ずっと。ずっと、逢いたいと。
逢いたいと、思っていた。貴方に。
ふわりと、また風が吹いた。吹いてまた、その髪を揺らす。きらきらと夕日の破片を反射しながら、柔らかな髪が。
「今日の風は心地よいね」
その先を言わないノアを別段気にする事無く、カレルは空を見上げながら呟いた。口から零れる言葉も、まるで風と同化しているように心地よくノアの耳を駈け抜けてゆく。
「そうですね」
そしてノアの返答に静かに微笑う、その顔を。その顔をノアの瞳に焼き付ついて、離れなかった。残像が瞼を閉じても残るほどに、印象的な笑みだったから。
「―――カレルさん」
隣に立つとノアはその横顔を見つめた。見つめればカレルの顔がゆっくりと振り返る。全てを超越した存在。全てを悟り、そして達観した存在。同じ位置に立ちながらも何処か。何処か違う場所にいるような、ひと。だから自分は。自分は、確かめたかったのかもしれない。
確かめたかったのかもしれない。貴方がここにいて、そして俺の目の前に存在している事を。
「…?……」
疑問符を投げかけるその表情を瞼に焼き付けて。
「…カレルさん……」
焼き付けてその手を引っ張り、そのまま。
「――――っ」
そのまま、その唇を奪った。
艶やかな弾力のある唇だった。触れた瞬間に存在を感じて、ほっとしている自分がいる。貴方がここにいるんだと。貴方がここに存在しているんだと。この唇が、感じている事に。
「…いきなり君は…私の予想も付かないことをする」
唇が離れて零れた貴方の言葉に、俺はひどく『らしさ』を感じて安心した。こんな不埒な事をしても、口許に笑みを浮かべている貴方を。
「…カレルさん…俺……」
「謝るのかい?」
手が伸びてきてひとつ髪を撫でられた。細い指、だった。しなやかな指だった。この指があの幻のような剣を生み出している。人を切るはずなのにひどく綺麗なあの剣を。
「…いいえ、謝りません…俺…俺は貴方にこうしたかった……」
もう一度。もう一度貴方の手を引き寄せ唇を奪った。そのまま空いている方の手で髪に、触れる。その柔らかい髪に。
「…君は……」
触れたいと願っていた髪だった。ずっと触れてみたいと。その柔らかい髪に触れて。触れて、そして。そして俺は…。
「…カレルさん…俺はずっと貴方を目標にしていた……」
「目標相手にこんな事を、するのかい?」
憧れの人。手に届かない人。でも今は。今はこうして手が触れて、そして唇が触れる距離にいる。このまま両腕を伸ばしてその身体を抱きしめる事も、出来る。今この腕を、伸ばしさえすれば。
「いけませんか?俺は…」
「―――若さ故の過ちだと今ならば…それで終われるよ」
俺を見つめる漆黒の瞳に感情は見えなかった。何時もの。何時ものただ柔らかい笑みが、浮かんでいるだけで。この瞳を、この表情を崩したいと思った。今自分がこの手で。この手で、崩したいと。
そうして確認したかった。貴方が今ここに。ここにいるんだと。
「過ちなんかじゃない…俺は……」
憧れていた。ずっと追いかけていた。
「…俺は貴方が……」
綺麗な貴方を。誰よりも清廉な貴方を。
「…貴方が…ずっと……」
誰よりも高みにいる貴方を、俺の場所まで引きずり落としたかった。
「――――好きです…カレルさん……」
同じ場所に立ちたい。貴方を俺の場所まで。
違う場所にいる貴方を、ここまで。ここまで。
綺麗な貴方を穢してでも、俺は。俺は貴方を。
――――貴方を俺の腕の中へと、堕としたい……
その表情を崩したくて、違う顔が見たくて。見掛けよりも細いその身体を押し倒した。服を剥ぎ取り薄い色素の肌に紅い痕を刻み、その身体を奪う。その間貴方は決して抵抗しなかった何時もの笑みを浮かべながら、ゆっくりと表情が快楽へと歪んでゆくのを、俺は。俺はぞくぞくしながら見つめていた。
綺麗な貴方を穢しているんだと。同じ場所まで堕としているんだと。
脚を割って身体を貫いた瞬間、初めて。初めて貴方の顔に『苦痛』が浮かんだ。それが俺にとって何よりもの喜びで、そして哀しみだった。ずっと欲しかったひとを手に入れた喜びと、誰よりも憧れていた存在を穢した哀しみに。でも。でもどちらも俺が望み、俺が満たした欲望だから。
「…っ…くっ……」
微かに零れた声だけが今の行為のリアルさを伝えている。それを感じながら、俺は熱く溶けるようなその中に自らの欲望を吐き出した。気付かないうちに、自らの瞳から雫を零しながら…。
「…襲われたのはこっちなのに…何故君が泣く?……」
失って気付くものがある。失って初めて気付くものがある。
それでも。それでも今欲しかったものが。今欲しいものが、そこにある限り。
「…貴方を…穢してしまった……」
伸びてくるしなやかな指がそっと涙を拭い。
「…君が望んだ事だろう?……」
そっと舌が零れる涙を辿る。その感触だけが。
「…望みました…貴方が欲しくて…欲しかったから……」
感触だけがひどく。ひどく胸を締め付ける。
「…ならばそれでいい…後悔は…その想いが消えてからすればいい……」
失って気付くものがある。失って、気付く事がある。
でもそれ以上に。それ以上に、欲しいものが今ここにある限り。
「…君が私を好きだというならば…その想いの方が…私には…心地よい……」