誘惑



――――何処にいても、どんな時でも。


何時も考えている事は、貴方の事ばかりで。気付けば貴方の事だけで頭がいっぱいになって。いっぱいになってそれ以外の事が考えられなくなって。そして気付けば。気付けば何時も瞳は貴方だけを追っていた。
こころが、瞳が、無意識に貴方だけを捜している。



「随分と奥まで来てしまいましたね」
背後から聴こえてくる声に振り返れば、少しだけ戸惑ったような表情が返って来た。自ら声を掛けて来たにも関わらず、私が振り返るとは思わなかったのだろう。戸惑った顔で、けれども次の瞬間にはにかむような顔で微笑ったのは。
「―――そうだな…今日中に、軍に合流出来るだろうか?」
「急がないといけませんね」
「ああ」
その顔を見つめて、そのまま視線を前に戻した。そして深い森の奥へと二人で進んでゆく。ロイ軍の先発隊として地理的にこの土地をよく知る私達が偵察部隊として選ばれ、こうして人の無い道を選んで進んでいた。戦いにおいて無駄な戦闘を避けるための奇襲作戦として、森の中を軍が進めるために。
ここら辺の土地には慣れている私達でも流石にこの森の奥までは進んだ事が無かった。途中目印をつけ迷わないようにとしていたが、予想以上に森は深く中々予定通りには行かなかった。
「少し急ぐぞ、クレイン」
「はい」
日は未だ空の上にあったが引き返す時間を考えると、そろそろメドを付けなければならなかった。下手をしたら野宿なんて事にもなりかねない。そのような状況になれば、私は…。
「あっ!」
自らの思考に沈みそうになった瞬間、背後から小さな悲鳴が零れた。



このままと、思った。許されないけれど、このまま。
このままずっと歩いて行けたらと。そうすればこの時間だけは。
この時間だけは、貴方は僕だけのものだから。


「クレイン?」
僕の声に貴方が振り返る。綺麗な金色の髪が風に揺れて綺麗だった。一瞬それに見惚れそうになって、咄嗟に目線を下に反らした。不自然な動きだっただろうかと思ったが、貴方は別段気にする事なく僕に近付いて、そして。
「手、大丈夫か?」
そして手を、取られた。指先が触れるだけでひどく。ひどく僕はどきりとした。その瞬間、痛みなど何処かへ消えた。
「平気です、私の不注意です」
指からぽたぽたと血が流れている。予想より深く切ってしまったらしく、だらりと液体として地面に血が散らばった。そんな僕の手に、貴方は。
「―――応急処置だ」
貴方はそっと。そっと僕の手を取って、指を舐めた。


ざらついた舌が僕の指を、舐める。ぴちゃりと、濡れた音がした。
手袋の上からとはいえ貴方の手が僕の手首を掴み、そして舌が這わされる。
その感触に、僕は。僕は睫毛が震えるのを…堪えきれなかった。


「…パーシバル…将軍……」
声が、零れそうになる。それを堪えるのに必死だった。
「―――痛むのか?クレイン」
けれどもそのせいで額から珠のような汗が零れる。
「…え?…」
ぽたり、ぽたりと、血の代わりに零れる。


「顔が紅くなっている」



私の言葉にお前はぎゅっと目を閉じて視線を反らした。その頬は未だ紅いままで、零れる汗すら拭えずに。
「…い、いえこれは…平気です…将軍……」
咄嗟に手を引こうとして、私はそれを許さなかった。そのままもう一度舌を這わせ、血を舐め取る。完全に血が止まるまで、手を離さなかった。
「思ったよりも深いな」
「…あ……」
付けていた手袋を口に咥え取り外すと、その布をそのまま破り指に巻きつけてやった。その間紫色の瞳はずっと俯いたままだった。私に視線をひとつも合わせようとせずに。
「これでいい」
そう言って手を離そうとしたら、名残惜しげに指が私のそれに絡まってくる。それを確認して私はひとつ、微笑った。


「――――やっと素直になったな……」



直接指が触れた瞬間に、僕はもう堪えられなくなっていた。堪えきれなかった。ずっと求めていた貴方のぬくもりが直接。直接僕に触れた瞬間に。触れた、この瞬間に。
「…パーシバル将軍…いえ…パーシバル…様……」
絡めた指を大きな手がそっと。そっと包み込んでくれた。もうそれだけで僕は。僕はどうにも出来なくなって。
「…触れて…ください……」
今自分がどんな表情をしているのか、貴方の瞳が何よりも雄弁に語っていた。貴方のその双眸が。
「…僕に……」
「指を舐めただけで感じたか?クレイン」
くすりとひとつ微笑われて、眩暈がするほどに僕は感じた。身体から溢れる熱が抑え切れないほどに。普段ストイックでどんな時にも涼しげな貴方が囁く、淫猥な言葉に。そして僕しか知らない夜の声で、囁かれた瞬間に。
「…パーシバル様…好き……」
貴方の問いにこくりと小さく頷いて、僕はその背中に腕を廻して抱き付いた。大きくて広い、その背中に。雄の薫りが微かにするその腕の中に、飛びこんだ。



抱きしめた身体は私の、腕の中の記憶と少しだけ違っていた。少しだけ身体の線が前よりも細くなっている。その分苦労を、してきたのだろう。
「ロイ軍に加入して以来、わざとお前は私を避けていたどうしてだ?」
私の言葉に見上げる瞳は微かに濡れていた。それが何の為に来るのかは私には判別が出来なかった。欲情したためか、それとも哀しかったためか…それとも嬉しかったのか。
「―――抑えが…利かなくなるからです……」
けれども、もう。もうそんな事はどうでもよかった。今必要なのは、ここにある真実だけなのだから。お前が零す真実だけ、なのだから。
「けじめをつけなければ…僕は…貴方だけを追ってしまう…貴方だけを…求めてしまう」
「それでそんなにも他人行儀だったのか?」
私の言葉にお前はこくりと頷く。視線は私に向けたままで。一度その箍が外れてしまったお前には、もう私から視線を離す事が出来なくなっていた。
「…それに…もしも…僕達の関係が、ばれてしまったら……」
「私に迷惑が掛かるとでも思ったのか?」
「…僕は男だから…貴方と僕の関係がばれたら…貴方の名誉が汚される」
「名誉など、私には必要無いのに」
「だって貴方ほどの騎士がそんな事で見下されたら僕が耐えられないっ!」
一途な瞳が私を貫く。そうだお前は怖いほどに純粋だ。純粋に私だけを見ている。私だけを、見つめている。自分自身すら時には忘れてしまうほどに。そして何時しか私はそんなお前の思いを受けいれ、それ以上に求めている自分に気がついた。

―――お前が私を求めるほどに…私もお前を求めている事に……


「…そんなもの…お前に比べたら……」
抱きしめて、そして髪にひとつ口付けた。
「…パーシバル様……」
あの頃と同じ、微かに甘い薫りのするその髪に。
「…いや…比べるまでもない……」
何よりも愛しいその薫りに顔を埋めた。


「名誉などお前に比べれば、無意味だ」



溢れる想い、堪えきれない想い。
「…パーシバル様……」
初めから無理だって分かっていたのに。
「…このまま…僕を……」
こんなにも貴方を好きで、貴方を求める限り。
「…僕を…抱いて…ください……」
どうしようもない程に、貴方を愛している限り。


身体を引き寄せられて、唇が耳元に降りて来る。その微かに掛かる吐息にすら僕は睫毛を震わせた。その吐息、すらに。
「―――今日中に戻れなくて野宿だぞ。それでもいいか?」
背中に廻した腕に力を込めて、そのまま強く貴方に抱きついた。ぬくもりを感じたくて、鼓動を感じたくて。貴方を…感じたくて……。
「…構わないです…貴方が欲しいんです……」
「全くお前は…」
飽きれたような溜め息とともに、貴方の笑顔が降りて来る。滅多に微笑う事のない貴方の大切な笑顔が、そして。
「―――明日に支障が出ないくらいにな」
そしてゆっくりと唇が塞がれ、貴方はマントを外すとそれを地面に引いてそ上に僕の身体を押し倒した……。


触れられるだけで、肌が熱くて。触れられるだけで、感じて。
貫かれる痛みよりも受け入れる悦びが身体中を支配して。支配して、僕は。
僕は何度も声を上げた。何度も腰を振って、貴方を求めた。
ずっと欲しかったものだから。ずっと願っていたものだから。


――――このまま時が止まればいい…そう思いながら……



「…クレイン…正直言って……」
「…パーシバル様……」
「自信がなかった。お前との二人きりの任務は」
「…僕だって…困りました…でも…喜んでいる自分がいました……」
「クレイン」
「…貴方を独りいじめ出来るんだって……」


そんな僕の言葉に貴方の唇が降りて来る。それを受け入れながら僕は。僕は貴方の髪に触れた。何度も何度も触れた。ずっと我慢していたから。ずっと我慢してきた、から。



「――――馬鹿だな…私は何時でも…お前だけのものなのに」