貴方の大きな手のひらをひとりいじめしたくて、その指先に噛みついてみた。無駄だと分かっていても、消えない跡をひとつ残してみたくて。僕だけの印を刻んでみたくて。
「パーシバル様」
名前を呼んでも返事が返ってこなかったので、パーシバルが座っているソファーの前まで行けば、読みかけの本を片手に寝息を立てるその姿があった。
「―――こんな所で寝ていたら風邪、引きますよ」
そばにある窓からは穏やかな風が吹き、綺麗な金色の髪を揺らす。それをずっと見ていたいと思いながらもこのままにしておく事は出来ないので、近くにあった毛布を身体に掛けてやった。指を挟んだまま膝に置かれた本は、ページを閉じないようにそっと外して机の上に置いた。そうしてやってから、再びパーシバルの眠るソファーの前にクレインは立った。
他人を魅了せずにはいられない揺るぐ事のない強い紫色の瞳は、今は閉じられ無防備な寝顔を見せている。それは普段の彼からは想像出来ないほど、ひどく穏やかな寝顔だった。多分他の誰も知らない…そう自分だけしか知らない寝顔。
「…パーシバル様……」
名前を、呼ぶ。答えて欲しい訳じゃなかった。ただ呼びたかった。何よりも大切なただ一つの名前を。このどうしようもないしあわせで不安な瞬間に。
しあわせだと、思う。誰も知らないこのひとをひとりいじめ出来る瞬間が。不安だと、思う。このひとのこんな場面を自分だけがひとりいじめしても許されるのかと。
「…僕は…貴方にとって……」
その先の言葉を言いかけて、飲み込んだ。言葉にしてしまったら、必死で堪えているものが溢れて来てしまいそうで。だから必死になって堪えた。けれどもその想いは身体の端から染み出して来てしまう。どう、閉じ込めようとしても。
貴方よりも清廉な人を僕は知らない。貴方よりも綺麗な心の人を僕は知らない。貴方にとっての『自分自身』の価値はどうでもよくても、他人にとっての貴方自身の価値は誰もが羨むもので。けれども貴方にとってそんなものは意味すらなくただひたすらに。ただひたすらに自分の信じたものだけを目指して進んでゆく。それがどんなに綺麗なものかを僕は知っている。誰よりも一番近くでずっと見てきたのだから。だからこそ、僕は。僕は…。
「…僕は貴方みたいに強くはないし…僕は貴方みたいに綺麗でもない……」
自分の信じるものの為だけに強くなる貴方と、貴方のそばにいたい為だけに強くなろうとした自分。透明な貴方の中に僕のような不純物が混じってしまっても許されるのだろうか?綺麗な貴方を僕は穢してはいないのだろうか?
「…僕は貴方のそばにいても…いいのかな?……」
声に出すつもりはなかった。胸の中で呟くつもりだった。けれども無意識にその想いは声になって言葉になって、地上に零れていった。
―――――綺麗なその指先に噛みついた。そこに残る小さな傷跡が、消えない絆になればいいと願いながら。
指が、絡み合う。そこから伝わる体温は、ひどく優しくて。泣きたくなるくらいに、優しくて。だから何も言えなくなってしまった。
「――――私のそばにいればいい。ずっと、私のそばに」
「…パーシバル様……」
繋がれた指先と伝えられた言葉に名前を呼び返すのがせいいっぱいだった。胸に閉じ込めてある筈の想いを聴かれただけでもどうしていいのか分からないのに…それなのに…。
「私がお前を望んだ。だからそばにいてほしい。他の誰でもないお前に」
「…でも…僕は…パーシバル様みたく立派な人間じゃないし……貴方みたく強くもないし…僕は……」
閉じ込めていた気持ちが零れてしまったら、もう。もう後は溢れだすしかなかった。止める事が出来ない。止められない。
「…何時も貴方の事ばかり考えている…どんな時でも僕は国の事よりも、他人の事よりも…何時も貴方の事ばかりで…それに僕は…貴方にたくさんのものを貰っているのに…欲しがるばかりで何も貴方に返せてはいない……」
貴方の事になると我が儘になる、欲張りになる。貴方の全部が欲しくて、どうしようもない程欲しくて、ひとりいじめしたくて。
「…そんな僕が…貴方のそばにいても許されるの?……」
言葉は最期まで言葉として声にならなかった。それはそっと塞がれた唇の中に閉じ込められたせいで。
「…クレイン…お前は肝心な事を忘れている…私もお前を愛しているという事に……」
触れて離れて、また触れる唇。それは優しく切ないキス。
「…パーシバル…様……」
頬に触れる手のひらの大きさも、その暖かさも、全部。
「…お前は私に何も返せてはいないと言うが……」
その全てが、好きで。好きで、好きで。大好きで。
「それはお前が気付かないだけで私はお前からたくさんのものを貰っている」
貴方の全てが好き。貴方の全てを愛している。だから、全部欲しい。
前に進む事しか出来ない自分の後を、迷うことなく着いてきてくれる。疲れて立ち止まりたくなった時、振り返る前に隣にいてくれる。だから私は前だけを見てゆけるのだから。
絡み合った指先がそっと口許に運ばれる。そのままひとつ口づけられて、そのまま軽く噛まれた。ちくりとした痛みとともに、甘い疼きが体中を駆け巡る。噛みついた指先に紅い跡が残る。それすらも。それすらも喜びにかわる恋。それすらも甘美に感じる愛。
「――――こんな風に私も、お前を傷つけたくなるくらいに…思っているんだ…クレイン……」
お題提供サイト様 確かに恋だった