HELPLESS RAIN



遠くから聴こえてくる雷鳴の音に耳を塞いで、そして全ての現実から逃れようとした。本当は見つめなければならない事が、あったのに。本当はきちんと伝えなければならない事が、あったのに。その全てから目を背けて、そして。そして僕は逃げ出した。

許されない想いに身を焦がし、そして壊れゆく自分を止める事が出来ない。

ずっと好きだった。貴方だけが好きだった。それが正しいとか間違えだとか、そんな事すら思う事もなく。思う暇もなく、恋焦がれた。ただそれだけだった。それだけが僕の、唯一の『本当』の事だった。
そばにいられれば、いいと。隣に立てたら、いいと。それだけで満足だった。それだけで良かった。貴方にとって僕はそういう対象にはならないから。男に生まれた以上、貴方にとってそういう想いの対象にはならないから。だからそばにいられるだけでいいと…それだけでいいんだと言い聞かせていた。


激しい雨が頭上から降り注ぎ、遠くから雷鳴の音が聴こえる。このまま。このまま全てを流されたらいいと、そう思った。
「…パーシバル将軍……」
髪も、肌も、指先も。全てが雨に濡れた。この雨が僕の全てを濡らした。このまま一緒に全てを洗い流してくれたらと、思った。
「――――クレイン……」
見つめた先にある貴方の蒼い瞳に、僕はただ泣きたくなった。声を上げて泣きたいと、そう思った。けれども嗚咽は口から出ては来なかった。出てくる代わりに、僕は手を伸ばして貴方の髪に…触れた……。
「こんなに濡れて…風邪を引きますよ……」
水を染み込んだ金色の髪が、きらきらと光って見えた。滅多に触れる事の出来ない貴方の髪に触れて、自然と指が震えるのを抑え切れない。抑え切れない。
「お前だって濡れている…行こう」
髪に触れた手を、掴まれた。その途端びくんっと身体が跳ねるのを抑えきれなかった。抑えきれずにそのまま。そのまま身体が、掴まれた腕が、小刻みに震える。
「クレイン?そんなにも寒いのか?」
違います、と言おうとしてその言葉を飲み込んだ。貴方に告げたら、全てがばれてしまう。必死になって閉じ込めている想いが、零れてしまう。だから。だから堪えた。必死で堪えた。
「とにかくここは濡れる、埒があかん」
そう言って強引に僕の手を引き貴方は近くにある木の下に、僕を連れていった。繋いだ手を離さないまま。離さないから…繋がった個所がひどく熱かった。


内側から沸き上がる想いを、全身を支配する想いを。
どうやっても止められない。どうやっても消す事が出来ない。
どんなに手探りで出口を捜しても見つからなくて。
どんなに必死になって答えを捜しても見つける事は出来なくて。
ただもがくしか出来ない。この想いの糸に捕われて、もがく事しか。

それならば一層、僕の全てを跡形もなくなるくらいに、切り刻んで欲しかった。


突然振り出した雨が二人を包み込む。強い雨が頭上から降り注ぎ、二人を濡らした。そして遠くから聴こえる雷鳴が、現実から二人を引き離していった。このままずっと。ずっと二人を隔離してくれたらいいのにと思った。このまま雨が世界の全てを包み込んで、二人を隠してくれたらと思った。そうしたら、貴方をずっと僕は見ていられるのに。
「不意打ちだったな、この雨は」
掴まれた手が、僕から離れてゆく。けれども与えられたぬくもりは、感触は、消えなかった。消える事はなかった。僕の想いが消える日が来るまで、ずっとこの場所に残ってゆくのだろう。
「そうですね、いきなり降って来たから」
貴方を見上げて微笑う僕はちゃんと笑っているだろうか?ちゃんと笑っている顔が出来ているだろうか?貴方の前で僕は自然に笑う事が出来ているだろうか?
「濡れるだろう?もっとこっちへ来い」
言われてはいと、頷けなかった。大丈夫ですと笑うのが精一杯だった。今少しでも貴方に触れてしまったら、きっともう僕は笑う事すら出来なくなってしまうから。貴方の前で笑う事すら、出来なくなってしまうから。
「僕はいいんです。貴方が濡れなければそれで…だって貴方は―――」
その先の言葉がどうしても出てこなかった。その先の言葉を告げるために僕は。僕はこうして。こうして貴方の前で必死に笑っているのに。笑おうとしているのに。どうしても…この先の言葉が、言えなかった。


何時かこんな日が来る事は、分かっていた。何時かこんな日が来る事を。
僕にとって貴方の存在は弟のようなもの。それ以上でもそれ以下でもない。
どんなに願っても僕は貴方の一番になることは出来ない。どうやってもなれない。
貴方にとって王子がいる限り、僕は戦場で公の場で一番にはなれない。
僕が女じゃないから、貴方にとって愛される一番にはれない。
どんなに頑張ってもどんなに願っても、貴方の『一番』に僕はなれない。

『パーシバル将軍、結婚なさるんですってね』

何時かこんな日が来るとは分かっていた事だった。何時も頭では理解してきた事だった。戦争が終わり王子が見つかり、貴方を縛りつけるものは今はない。そうすれば次にする事は貴方自身の事だ。貴方の事だ。貴方自身が、しあわせになる事だ。
「―――クレイン?」
貴方がしあわせならばそれでいいって、そう思っていたはずなのに。貴方がしあわせになれるなら僕もしあわせだって、そう思っていたはずなのに。けれどもこうしてその現実に向き合えば、どうにもならない感情が僕を支配する。どうにも出来ない感情が、僕を苦しめる。
「…あ、…貴方はもう…独りじゃないんだから……」
結婚なんてしないでください。他の人のものになんてならないでください。僕のものにならないのならば、誰のものにもならないで。イヤだ、イヤだ、イヤだ。貴方が誰かを愛して、誰かを抱きしめて、誰かに笑うのは。そんなのは僕は…僕は…イヤ…だから……。
「…結婚するんですよね…将軍…だから……」
その大きな手も、蒼い瞳も。綺麗な金色の髪も、低くよく通る声も。僕の知らない誰かが、独占をする。僕の知らない誰かのものになる。
「―――王子に強く勧められて…断るつもりだったが……」
貴方が誰かのものになるのならば、このまま。このまま僕を消してください。貴方におめでとうも言えない嫌な人間になるくらいなら。それならばこの場で、まだ笑っていられる僕のままで、消してください。

…僕を、消してください。お願いです、このまま僕を…消してください……。

指も髪も、全部。全部雨に濡れているから。今なら雨に、濡れているから。だから分からないかな?泣いたとしても、分からないかな?
「…だから…将軍……」
大丈夫、口許は笑うから。ちゃんと笑顔を作るから。だからいいよね。いいよね、今涙を零しても。零しても、いいよね。だって僕はもう。もう堪える事が出来ない。
「…もう貴方は…独りじゃ…ないんだから……」
堪え、きれない。僕はもう。もうどうしていのか分からない。どうすればいいのか分からない。
「――――断るつもりだった。でも……」
貴方を好きになりすぎて。貴方を愛しすぎて、どうすればいいのか…分からない。


「…お前の名前を出されて…断れなかった……」


そっと手が、伸びてくる。貴方の手が伸びてくる。そして僕の頬に触れた。僕の頬に触れる。駄目なのに。今僕の頬に触れてたら、零れる雫が冷たくないのがばれてしまうのに。雨の雫じゃないのが、ばれてしまうのに。
「王子がお前の名前を出した時、私は咄嗟に否定できなかった」
ばれてしまうのに、僕は解けない。僕はこの手を、離す事が出来ない。貴方の手が、僕の涙をそっと拭う。優しい手が、暖かい手が、零れる雫を拭ってゆく。
「結婚できない理由は…お前がいるからだろうと言われ…私は否定できなかった……」
「…将…軍?……」
僕はもう。もう笑う表情を作る事すら、出来なかった。僕を見下ろす真剣な瞳を食い入るように見つめる事しか。貴方の綺麗でそして真摯な瞳を、ただ。ただ見つめる事しか。
「…クレイン…今お前が流している涙の理由を教えてくれ……」
「…将軍…僕は……」
「…教えてくれ…クレイン…私の独り善がりでないのならば……」
背後で雷鳴が光った。けれどももう僕はそれすら見えなくなっていた。今目の前にいる貴方以外何も。何も、見えない。ううん初めから。初めて貴方と出逢ったその時から、僕は貴方以外見ていなかった。


「…好き…貴方が…誰よりも…好き……」


「…だから…しないで…結婚なんてしないで…貴方が誰かのものになるなんて…僕はイヤ…イヤだから……」
「…クレイン……」
「…好きなんです…ずっと僕は貴方だけが…貴方だけが好きなんです…だから…だからお願いだから……」
「――――しない……」
「…将軍……」
「しない、結婚は。お前を泣かせるようなことは、私はしない…私は……」


「…お前を…愛している……」


「…この感情は…閉じ込めるつもりだった…お前への想いはずっと告げないつもりだった…お前に迷惑でしかない想いならば私だけの胸に閉じ込めておくつもりだった…でも…」
頬に触れていた貴方の手が、そっと僕の背中に廻される。それはまるで壊れ物を扱うような優しさで。でも次の瞬間、きつく。きつく貴方に抱きしめられていた。
「…でもお前を泣かせてしまうほどに追い詰めていたのならば…こんな風にさせてしまっていたのなら私は……」
息が出来ないほど抱きしめられて、僕は眩暈すら覚えた。このまま。このまま貴方の腕の中で死んでしまいたいと思うほどに。
「…私は…最初から…お前に告げなければいけなかったな……」
溢れる想い。溢れて零れる、想い。貴方が好きだと。貴方だけが好きなんだと、ただそれだけが。それだけが僕を支配して。
「…将軍…いいえ…パーシバル様…僕……」
「うん?」
「…僕…貴方のそばにいても…いいんですか?」
「いてくれ。いやお前にいて欲しい…ずっと私のそばに…」
ずっと夢を見ていた事が。ずっと叶わないと諦めていた事が。願い諦め、それでもやっぱり心の何処かで。何処かで、望まずにはいられなかったことが。今こうして。こうして僕の前にある。僕がこうして手を伸ばせば、触れられる。今こうして僕に、与えられている。


願って、諦めて。それでもやっぱり、止められなかった想いが。


雷鳴はまだ鳴り続け、頭上の雨は止まる事はなかった。けれども、もう。もうそれすらも僕の視界には、僕の耳には届かない。今目の前にいる貴方以外、何も見えない。何も、見えないから。



「――――お前だけを…愛しているから……」