シークレット



秘密の恋でもいい。誰に認められなくてもいい。君が居ればいい。それだけで、いい。


見上げてくる瞳がただの空洞ではなくなって、そこにそっと光の破片が零れた瞬間。その瞬間、鏡のように映し出したものがひどく綺麗だったから。
「イドゥン、はい」
少しだけ見開かれる瞳が何よりも愛しいものだった。こんな風に少しずつ生まれてくる心を、何よりも近い場所で見つける事が出来る喜びは何ものにも代えられないものだった。少なくとも僕にとっては、何よりも大切な時だった。
「…ロイ様…これは?……」
「ここに来る途中で見つけて来たんだ。こんな砂漠でも花は咲くのだと思ったら、嬉しくなって君に見せたくなった」
戸惑うように見上げてくる仕草も、そっと伸ばされる指先も。そしてゆっくりと花びらに触れて、その瑞々しさと薫りを確かめる仕草も、その全部が。
「いい匂い、ですね…後とても綺麗です」
「うん、綺麗だね。とても、綺麗だね」
静かに、そっと微笑む。それは自然に形作られた柔らかい笑みで。誰かの真似をした訳でもなく、誰かに教えられた訳でもない、自らの意思が作り出したただひとつの笑顔だから。
「でも君の方がずっと綺麗だ、イドゥン」
「…あ……」
柔らかいその髪に花を飾り、そのまま。そのまま盗むようにひとつキスをした。そこから広がる柔らかな薫りにふたり、包まれながら。


君が隣に居る事。君が隣でそっと微笑う事。君の瞳に僕を映しだす事。ただそれだけで僕は満たされてゆく。ただそれだけで僕は幸せだと告げられる。幸せだと、誰よりもしあわせなのだと。
「…ロイ様、あの……」
「何、イドゥン?」
「…その手を…繋いでも、いいですか?」
おずおずと差し出される手のひらに迷うことなく握り返し、そのまま見つめあって笑った。嬉しさが込み上げて来て止まらなくて。嬉しすぎてどうしていいのか分からなくて。分からなかったから微笑った。
「ロイ様…その、私何か変な事言いましたか?」
「違う、これは嬉しくって笑っているんだよ。嬉しいから、本当に嬉しいから」
手だけでは物足りなくて額を重ね合わせた。そこから伝わってくるぬくもりが、そっと浸透し心を満たしてくれる。全てを満たしてくれる。本当に僕は子供のように君に恋をしている。
「君からこんな風に僕に触れてくれる事が」
「…ロイ様…私はロイ様の暖かさが…好きです」
「――――イドゥン……」
口許に湛える笑みは、柔らかくて儚い。けれども何よりも綺麗で。本当に、本当に、綺麗だから、僕はずっと。ずっと見ていたくて。
「だからこうして貴方の手にずっと触れていたいです。それは我が儘な事でしょうか?」
「それが我が儘な事ならば、僕は世界一我が儘な男だよ。だって僕はずっと君に触れていたいんだから。手だけじゃない、髪も頬も唇も、全部」
「―――私も、触れたいです。ロイ様の全てに」
瞳が重なる。睫毛が触れ合う。繋がった指先は強く絡まり、重なり合う額が熱くなる。それはまるで幼い恋のように純粋で、くすぐったい程のもどかしさと甘さがあって。けれども。けれども何よりも、何よりも僕たちにとっては『本当の事』だから。
「うん、全部。全部、触って。僕の全部は君のものだから」
陶器のように白いその指先が僕の髪に触れる。そっと触れる。その感触を確認したら指先は額に触れた。先ほどの熱の残る皮膚に直に触れてそのまま頬に滑ってゆく。輪郭を辿り、形を確認したら、ゆっくりと鼻筋を通り唇に触れた。少しだけ濡れた僕の唇を指先がそっ
となぞってゆく。悪戯をするように辿る指先を舐めたらびくんっと驚いたように瞳が開かれた。子供みたいに驚いた表情。―――そんな顔も、大好きだよ。
「もう、ロイ様ったら」
くすくすと声を出して笑う君。やっとここまで辿り着いた。空っぽの人形だった君が一人の人間としてもう一度生まれるまで。生まれて、そして生きてゆくという意味を知るまで。


―――――願わくばその瞬間を、僕がこの瞳で見ていられますように。


それが最初の願いだった。僕個人が生まれて初めて願ったものだった。誰の為でもない僕自身のエゴは君の『生』だった。人形じゃない生身の君を願った。君自身を、願った。君の命に心が宿り、その瞳に光が灯る事を。ただそれだけを、願った。
『…ロイ様…私は……』
硝子細工のその瞳が初めて僕を映しだした。命あるものとして、生きているものとして、僕を映しだした。
『…私は長い夢を…見ていた気がします…貴方はこんなにも…こんなにも私のそばにいてくれたのに』
映し出して、そして。そして見つめてくれた。僕を真っ直ぐに見つめてくれた。ここにいるのだと。ここに僕は居るのだと―――君の隣にいるのだと。
『…こんなにも…そばに……』
初めて触れた唇は、初めて触れた手のひらは、それはとても。とても暖かくて。暖かく優しく、そして。そしてもどかしい程に切ないもので。そしてふたりして知った。これが『恋』なのだと。今更ながらに、知った。


―――――君に恋をしているのだと。ずっと、ずっと君に恋をしていたんだと。


もう一度指を絡めあって、何をする訳でもなくふたりして歩いた。砂漠の中をふたりして、歩いた。たわいもない会話を交わし、時々視線を絡めあって微笑いあう。お互いの顔を見つめながらそっと微笑み合う。それは何よりも大切な、大切な時間だった。ふたりの何よりも大切な時、だった。


誰にも知られなくていい。誰も知らなくていい。僕だけが知っていればいい。君は魔竜じゃない、ただの女の子だ。笑ったり驚いたり恋をする、ただの少女なんだ。


「ロイ様、もうすぐ里に着きます。…その……」
「離さないよ。この手は、いいだろう?イドゥン」
「…はい…ロイ様が望むなら……」
「――――イドゥンは?」
「はい?」
「イドゥンはこの手を、離してほしい?」
「…いいえ…その…ずっと……」


「…ずっと…繋いでいて…ください……」


少しだけ頬を染めながら告げる君の言葉に僕は笑顔で頷いた。ずっと繋いでいるよと。ずっと繋いでいようと。この指先のように僕たちの心も、ずっと。ずっと繋がって結ばれますようにと願いながら。