君に花びらの雨を降らそう。君の髪にこの花びらを。
だから微笑って。だから…微笑んで。僕は。
――――僕は君の笑顔が、見たいんだ……
その手が、私の頬を包み込む。そっと、包み込む。
『どうしたら君は、微笑ってくれるの?』
暖かい手だった。大きな手だった。優しい手、だった。
『その為に僕は何をすればいい?』
こんなにも大切なものだったのに、私は気付く事すら出来なかった。
『その為に僕は君に何が出来るの?』
私はそれを失うまで、気付く事が出来なかった。
入れ物だった私にこころを与えてくれたのは貴方。貴方だけだった。
最期の口付けは、ただひたすらに優しくそして哀しいものだった。一面に広がる血の紅が鮮やかに瞳に焼き付いて。焼きついて、そして。そしてそっと貴方は微笑った。
「…イドゥン…君が好きだよ……」
何よりも優しい瞳で。何よりも暖かい瞳で。そう…貴方は何時も私にこの瞳を向けていてくれた。ずっとずっと私にこの瞳を、向けていてくれた。どんな時も。どんな、時も。
「…君が…好きだよ…だから……」
貴方だけが、私に微笑ってくれた。貴方だけがずっと私を見つめていてくれた。貴方だけが、私をずっと。ずっと。
「…だから…笑って…イドゥン……」
ずっと私を想っていてくれた。貴方だけが…私を…救ってくれた……。
私は入れ物。ただの、入れ物。
ただ私という形があるだけで。その中には。
その中には何もない。何も、ない。
ただぽっかりと空いた空洞だけが私にはあって。
そこに広がるのはただの空間だった。
その中に貴方だけが、注ぎ込んでくれた。貴方の愛だけが…私を満たしてくれた。
触れて離れる唇。ただ一度だけの、キス。ただ一度だけの。
「…ロイ…様?……」
髪に触れてくれたけれど、頬に触れてくれたけれど。
「…ロ…イ…さま?……」
貴方は私の唇に触れる事はなかった。口付けをした事はなかった。
「…う…そ……」
それは貴方が。貴方が私をずっと。ずっと待っていてくれたから。
私が微笑うまで。私のこころが、取り戻す日が来るまで。
唇が離れて、そしてそっと貴方が微笑って。微笑って。
そしてずるりと貴方の身体が崩れてゆく。貴方の身体が落ちてゆく。
散らばる真っ赤な血とともに。吹き出す紅と一緒に。
一面の生臭い血の匂いとともに、貴方の身体が崩れ落ちてゆく。
「い、いやあああああっ!!!」
冷たくなってゆく。貴方が冷たくなってゆく。ゆっくりと冷たくなってゆく。暖かいのに。血は、暖かいのに。貴方から溢れる血は、こんなにも暖かいのに。触れた唇も。そっと触れた唇も哀しいくらいに優しいのに。なのに。なのに。
貴方が冷たくなってゆく。ゆっくりと、貴方だけが冷たくなってゆく。
「…い、いや…いやいや…ロイ様……」
だって私まだ。まだ貴方に言っていない。何も言っていない。
「どうして、どうして…どうして……」
やっと今。今分かったのに。私は分かったのに。なのに。
「…いやっいやっ!目を開けてっ!ロイ様目を……」
なのにどうして?どうして、どうして、どうして?
「…目を…目を開けてっ!!……」
だって私やっと。やっと取り戻せたの。こころを、取り戻せたの。
胸に広がる想い。空っぽだった私の胸に広がる想い。ただひとつの想い。貴方が好きだって、そう。貴方が好きだって…やっと分かったのに。
「…ロイ様…私…貴方が…好き……」
何時も告げてくれていた。何時も私にその言葉は注がれていた。私が空っぽでも。私に何もなくても、貴方の言葉だけは。その言葉だけは注がれていた。好きだよ、と。ずっとずっと貴方は告げていてくれた。好きだとずっと、告げていてくれた。それが何時しか私の全てを満たしていたことも気付かずに。気づかないまま、私は。私はこうして一番大切なものを失った。失った。
「…ロイ様…ロイ…様…私……」
貴方が与えてくれたもの。貴方だけが与えてくれたもの。
それは私が知らなかったもの。知らなかった、もの。
貴方だけが私にくれた。貴方だけが私に教えてくれた。
けれどももう。もう貴方は何処にもいない。何処にも、いない。
…触れた唇。一度だけ触れた唇。ただ一度だけの…くちづけ……
「…ロイ様……」
君に微笑って欲しかった。君の笑顔が見たかった。
「…ロイ様…好きです……」
君の笑顔を見るためならば僕はどんな事でも出来た。
「…好きです…ロイ…様……」
君が微笑ってくれるなら、命すらもいらないって思った。
「…好き…です……」
だからどうか。どうか微笑ってくれ…イドゥン……。
教えてあげたかった。君に教えてあげたかった。
空の蒼さがどれだけ心を優しくさせるのか。
萌える緑がどれだけ心を穏やかにさせるのか。
生まれたての命がどんなに心を暖かくさせるのか。
それを君に。君に教えてあげたかった。
生きるという事を。心で感じるという事を。この世がどんなに綺麗なもので溢れているかを。
花びらを君に降らせて。淋しくないように。
僕が死んでも淋しくないように。君に花びらを。
何よりも綺麗な花びらを君の髪に、頬に、全身に。
そうして教えて欲しい。この世界がどんなに。
どんなに綺麗なものかを。君が生きているこの世界を。
だから笑って。だから微笑って。君が微笑ってくれるなら、僕はこの命すらいらないから。
冷たくなった屍を少女はずっと抱きしめていた。飽きる事無くずっと。
ずっと抱きしめ、そして口付ける。冷たい唇に口付ける。ぬくもりを分け合うように。
分け合うように、何度も何度も、口付けた。
そんなふたりの頭上から、そっと花びらが降ってくる。ぱらぱらと、降ってくる。
それはただひとつの。ただ、ひとつの。花の祈りだった。