手づかずの世界



薄く開いた唇が艶やかに濡れる。それはひどく煽情的に瞼の裏に焼き付いて、全ての現実を忘れさせた。


――――透明な何もない場所にふたりで閉じ込められて、気が狂う程に抱き合いたい。全てがどうでもよくなるほどに、貪り合いたい。何もかもが、どうでもよくなる程に。


これが夢ならば、良かったの?ただの夢ならば、良かったの?瞼の裏に残像だけが残って残る全ては跡形もなく消えゆく世界ならば…良かった?
「…レイ…ごめんな…さい……」
微笑おうとして唇を笑みの形にしたのに、それは何時しか歪んで泣き顔になってしまう。こんな風に自分が泣ける事が不思議だった。こんな風に自分が涙を零れさせてしまう事が。
「…ソフィーヤ……」
伸びてくる手の暖かさが、このぬくもりだけがただひとつのものになって。他に何もなくなって、ぽつんと小さな世界に小さなふたりがいられたらいいのに。
「泣くなよ、ソフィーヤ…お前が泣くと俺は…どうしていいのか…分からない……」
重なる額のぬくもりと、繋がった手のひらの暖かさ。生きているという命のぬくもり。その全部が、とても大事。とても、大切。
「…ごめんなさい…レイ…ごめん…なさい……」
大事過ぎてどうしていいのか分からないの。どうやってそれを護ってゆけばいいのか分からないの。自分から大切なものは、作ってこなかったから。

――――貴方がとても大事で、とても大切で、どうしていいのか…分からないの……

背中に廻る腕がとても広くて。同じ場所で絡みあっていた視線は、今は見上げなければ重なり合う事はない。同じ歩数で歩んでいた足幅は、気付けば後ろから追いかけなければ追い付かなくなっていた。
けれども、その先もまた私は知っている。追いかけていた足はまた追いついて、そして追い越してゆく事を。抱きしめてくれる腕は何時しか上げる事すら叶わなくなる事を。二人の時間軸が違う以上それは仕方のない事だった。仕方のない、事。
「好きだ、ソフィーヤ…俺はお前だけが……」
諦める事で折り合いをつけていた。仕方のない事だと、心の中で呟く事で訪れる淋しさを乗り越えてきた。けれども。けれども、私は今怖い。貴方を失う事が、何よりも怖い。
「…レイ…私も…好き…です……」
このぬくもりを、離したくない。この手を、離したくない。貴方とともにいたい。


触れる唇。重なり合う唇。どちらともなく触れ合せ、息を奪いあう。指を絡め、舌を絡め、脚を絡め、身体を絡め合わせた。
「…んっ…ふっ…はっ……」
互いの吐息すら奪う激しい口づけに酔った。意識が拡散し、吐息の全てが奪われる。このまま全てが奪われたらばと願った。『私』という存在全てが、貴方の中に取り込まれたらと、願った。
「…レイ…っ…あっ……」
戸惑いながら触れてくる指先が愛しい。胸のふくらみに触れ、尖った乳首に指の腹を転がす。不器用だけれども優しい愛撫に、私は感じた。怖いくらいに濡れた。
「…あぁっ…あぁんっ……」
「―――ソフィーヤ…ソフィーヤ……」
背中に腕を廻し、その広さに溺れた。泣きたくなるくらいに貴方に溺れた。微かに薫る汗の匂いと、貴方の翠色の瞳に溺れた。貴方の全部に、溺れた。
「どうしたら俺は…お前を本当に笑わせられんだろーな…どうしたら……」
降り注ぐ声が真剣であればあるほど、真実であればあるほどに、私はしあわせでそして苦しかった。


知らなければよかった。この想いに気付かなければよかった。何度そう思っただろう。失う事に怯え何時も少しだけ俯いていた私の顔を、真っ直ぐ前に向けたひと。目の前にある景色がどんなに鮮やかかを教えてくれたひと。世界がこんなにも綺麗だという事を教えてくれたひと。

――――私にたくさんの『はじめて』をくれたひと……

初めて好きになった人。初めて手を繋いだ人。初めてキスをした人。初めて恋をした人。初めて肌を重ね合った人。初めて…愛したひと……。


貫かれる痛みよりも、襲ってくる快楽が勝って、唇から悲鳴のような喘ぎを止める事が出来なかった。ぞくぞくとするほどの快感。足許から這い上がり、全身を駆け巡る快感。それが全てになって、何もかもがぼやけて輪郭がなくなる。
「――――あああっ…ああんっ!!」
背中に爪を立てていいって言われたから、きつく爪を立てた。その背中は『大人』の背中だった。まだ少女の外見のままの私とでは、ひどく不釣り合いな大人の背中だった。
「キツいか?ソフィーヤ」
囁かれる言葉に首を左右に振り、貴方の楔を受け入れる。私の中に在る貴方がどうしようもない程に愛しい。どうしようもない程に愛している。
「…だい…じょうぶ…だから…だから…動い……」
「ああ、ソフィーヤ。好きだ…お前だけが」
「あああっ!ああああっ!!!」
腰を掴まれ、深く突き入れられる。何度も何度も抜き差しを繰り返され、そのたびに私の中の貴方が存在感を増してゆく。それが、何よりも。
「――――ああああああっ!!!!」
なによりも、嬉しくて。なによりも、哀しくて。私はもうどうしていいのか分からない。



優しい言葉をせいいっぱい告げても、きっと何も解決はしない。本当の想いを全て剥き出しにしても、きっと全てを受け止める事は出来ない。それでも、伝える以外の方法が分からない。この想いをお前に告げる事しか、俺には出来なくて。
「…なんで俺は…こんな風にしかお前を…抱きしめられないんだろう……」
微笑わせてやりたいのに。しあわせにしてやりたいのに。ずっと護ってやりたいのに。時ばかりがただ進み、俺は何も出来ずに大人になってしまった。少女のままのお前を置いて、俺は身体だけが大人になった不器用な子供でしかない。
「…こんなにも…お前の事…大事なのに……」
意識のない身体をきつく抱きしめてこのまま閉じ込めたいと願っても、何時しかこの腕は朽ち果てる。どうやってもこの腕は…朽ち果ててゆく…。

「…なんで…俺が先に…死んじまうんだろうな…俺が残される側だったら…良かったのに……」

全てがどうなってもいいと願う程に抱き合っても、全てが無機質で透明な世界になって二人で抱き合いたいと祈っても、どうしても消えない現実がそこに在る。


――――誰にも触れられる事ない手つかずの世界が欲しい。誰の目にも手にも触れない世界が欲しい。それが幻でもそれが夢でも、そこに何も残らなくても。その瞬間だけは、本当の笑顔をお前にさせてやれるから。――――本当の、笑顔を。