真っ暗な空の上にぽっかりと浮かんだ月は、ひどく瞼の裏に残る銀の色をしていた。その残像を追いかけて追い付いたと思った瞬間、塞がれた唇の感触でその銀色はぼやけて…消えた。
―――好きだと何度告げても、足りない。全然、足りない。この気持ちを全て伝えるには。
瞼を開いた先にある顔を飽きるほどに見つめる。見つめすぎて穴が開くんじゃないかと思うほどに。実際に空いたら誰よりも俺が困るのだけど。だって、俺が何よりも好きな顔が少しでも違うものになったら、哀しいから。
「よく飽きないな」
ため息交じりに告げられる言葉も、俺にとっては何よりも嬉しいもの。お前が俺に対して向けてくれるものならば、どんな言葉でもどんな感情でも嬉しい。
「飽きないよ、俺お前の顔大好きだから」
背中に腕を廻して抱きついて、たまらなくなってキスをしたら―――しょうがないなと小声で告げてキスに答えてくれた。何よりも幸せだと思う瞬間。
「―――全く…お前は本当に俺が好きなんだな」
「うん、大好き。シン」
迷うことなんて何もなくて。照れる事も戸惑う事も、何一つない。ただ好き。どうしようもないくらいに俺はお前が好き。好きで、好きで、堪らないんだ。
「お前の顔も、お前の声も、お前の手も、お前の脚も、全部好き」
「それだけか?」
「身体も好き、目も好き、後…心も大好き」
本当にはみ出るところなんて一つもないくらい好きなのに。全部全部好きなのに、言葉で告げても全然足りなくて。足りないからこうして。こうして唇を重ねて気持ちを伝える。身体を触れ合わせて、体温を重ねて…伝える。
「全くお前はどうしようもないな」
呆れたように告げられても、その後に一つくすりと微笑うその顔があれば。俺はきっと。きっと世界中で一番幸せ。
「うん、俺どうしようもない程にお前が好きなの」
だから、ねだった。キスを、ねだった。伝えたかったから。言葉よりも先にあるこの気持ちをもっと伝えたかったから。呆れるほどにキスを、ねだった。
嬉しそうに抱きついてくる身体を抱きとめながら、ふと窓の外を見つめた。四角く区切られた空間からは銀色の月がおぼろげに見える。不思議な色彩だと思考を巡らせようとしたら、腕の中の身体がすり寄ってきて思考を中断された。
――――想いを言葉にして告げてやろうとする前に、お前は好きだと言ってくるから。呆れるくらいに好きだと俺に言ってくるから。
目の前にある紅い髪をしょうがないから撫でてやれば、嬉しそうにすり寄ってくる。まるで犬のようだと思いながらも、悪い気はしないからもっと撫でてやった。そうするたびに胸に頬を摺り寄せてくるから何だか面白くなって、しばらく繰り返していた。
「犬みたいだな、お前は」
「それって誉めているの?」
見上げてくる瞳までもが犬のように思えてきた。ない筈のしっぽまで振ってきそうな勢いで。でかい図体に似合わないこの人懐っこさは本当に大型犬のようだ。
「褒めているように聞こえるのか?」
「あんまり…でもお前がそう思うならそれでもいい」
目の前の男は俺に対してはひどくポジティブシンキングだ。何時でもどんな時でも、多分俺が罵倒しても自分にとって都合のいいように解釈するだろう。それはある意味ひどく羨ましい。
「俺お前のその顔も好きだ」
「その顔って…お前は俺の、どんな顔でも好きなんだろう?」
「うん、好き。でも言いたいから」
俺に対して前向きすぎる態度に呆れはしても、嫌だと思う事はなかった。それは多分、俺がどうしようもない独占欲をお前に向けているからだろう。それはどうしようもなく醜く暗いモノで。全てを引き千切ってしまうほどの。けれどもそんな俺の穢たない想いすら。
「俺いっつもお前に見惚れているもん」
その眩しい気持ちが、暗闇を包み込み浄化する。この自分ですら持て余す想いに対して、お前は。お前はそれ以上の言葉の雨を俺に降らせる。好きだと、呆れるほどに好きだと―――お前は告げる、から。
「今も見惚れてる。こんなに近くに顔があってどきどきしている」
睫毛が触れる距離で見つめてやれば、恥ずかしくもなく思った事を正直に口にしてくる。お前のこの素直さがある限り、俺は。俺はきっと。きっと、お前に救われている。
窓から覗く銀色の月が照らす薄い光が、そっと互いの顔を暴いた。何よりも近くにあるその顔を見つめている瞬間が、何よりも幸せだとそう思った。
触れて離れる唇。それを何度も繰り返す。
「…シン…大好き……」
繰り返すたびに唇に灯る熱が。ゆっくりと。
「…大好き……」
ゆっくりとふたりを飲み込んでゆく。
――――このままふたりだけの世界に閉じられてしまいたいと、願うほどに。
ここにあるものは想いだけで。本当に剥き出しの想いだけで。他には何もない。混じり合うものも、不純物も何もない。ただひとつの、透明な想いだけだった。
冷たい瞳だと他の人は言うけれど。何時も冷静な目で、奥を見せないと他の人は言うけれど。俺にとっては全然違うものに見えるから。
「お前の髪は大地の匂いがする。きっとこれがサカの匂いなんだな」
漆黒の瞳の奥にあるものを知っているのは俺だけ。俺だけが、知っている。その静かな瞳の奥にある激しい炎を。それは俺がうぬぼれずにはいられない程…俺だけに向けてくれるものだから。
「お前は竜の匂いがする」
「それだけ?」
背中にまわした腕に力を込めて、ぎゅっと抱きついた。そうすればもっと近くでお前の薫りに包まれる事が出来るから。包まれたい、から。
「それだけしか、しない?」
「―――違うな。お前は……」
「俺の、においがする」
見つめて、見つめあって。呆れるほどに口づけを繰り返す。息を奪い、奪われあって。目眩がする程に唇を重ねあう。そんなことを繰り返していたら、何時しか。何時しか瞼の裏にあった銀色の月はおぼろげになって、そして。そして静かに消えていった…。