ROMANCE



理由も理屈も、言葉の意味すらも忘れた。全てが奪われた。全てを奪われたいと願った。


呆れるほどに俺はお前が好きで、どうしようもない程にお前だけが好きで。どうしていいのか分からなくなった。分からなくなって、それでもお前を見ていたくて。ずっと見ていたくて。ずっと、ずっとお前だけを。
「何で俺、こんなにお前好きなんだろう?」
見上げた先にある漆黒の瞳を見つめながら告げた言葉に、お前の表情が変わる事はない。相変わらずの冷たいとも思える顔で俺を呆れたように見下ろすだけだ。けれども俺は知っている。知っている、お前の瞳のその先に在るものを。
「そんな事、考えても無駄だ」
腕を伸ばしてしがみ付けばため息ひとつと、抱きとめてくれる腕。そのどちらもがお前らしくて俺はまた。また、お前を好きになってゆく。
「そうだよな、考えるだけ無駄だよな。そんなのどうでもいいくらいお前好きだから」
ガキみたいに胸板に頬を摺り寄せれば軽くひとつ殴られる。それでもめげずに密着したら、呆れながら唇を塞いでくれた。


――――溺れて沈んで、そして浸されて。それ以上のしあわせを俺は知らない。


目の前の紅い髪に触れる。どんな時でも太陽の匂いのする髪に。その感触を確かめてねだるように見上げてくるお前の唇を塞いだ。噛みつくように、塞いでやった。
「…お前のこの瞳に……」
きっと思考も言葉すらもこの想いの前では無意味なのだろう。どんなに告げても満たされる事のない、この想いの先に在るものに比べたならば。
「お前のこの瞳に映っているのがずっと俺だけだったらいいのに」
触れて離れる口づけを何度も何度も繰り返す。そこから零れ落ちる言葉にどれだけの意味があって、どれほど他愛のないものなのだろうか。そんな事をぼんやりと考えていたら、また唇が重なった。重なって、離れてゆく。
「そう思うならずっと俺を見ていればいいだろう?」
「言われなくても見ているよ。俺はシンだけを見ている」
告げる言葉は真っ直ぐで何一つ迷いはない。呆れるほど単純で、捜しだす必要のない程にお前は俺への想いを剥き出しにする。そこにはためらいも、戸惑いも、なにもなくて。
「でもお前は俺だけを見てはいないだろう?」
「当たり前だ、飽きる」
だからこそ、全てを見つめない。全てを奪わない。そんなお前の全てを俺が取り込んでしまったら、きっと。きっと、俺は狂う。
「ひでー何それっ!」
「だったら俺を飽きさせないようにしろ」
お前が思っているよりもずっと、俺はお前を欲しいと願っている。全てを欲しいと。剥き出しになって何もかもを曝け出したお前のその先に在るものすらも。
「俺は全然飽きないのに。お前の顔を見ているだけで、嬉しいのに」
「見ているだけでいいのか?」
紅い瞳に映る自分の顔は冷たくて激しい。自分でも感心するほどに無表情なのに、それなのに隠しきれないものがある。隠す事が出来ない醜い本能がお前の目の前にチラついている。お前の中に忍び込んでゆく。
「うん、今は。今はそれだけでいい。しあわせ」
そしてそんな俺のどうしようもない醜い欲望を、お前は悦んで受け入れる。自ら望み、手を差し出して掴み取ってゆく。そう、今も。今もこうして自らの瞳に映し出す。その、剥き出しの瞳で。


――――何もいらないとお前は言う。けれども俺は欲しい。お前の何もかもが、欲しい。


俺を包み込む大きな手のひら。全てを閉じ込める広い腕。この中に閉じ込められる瞬間が、俺にとってどうしようもない程にしあわせな瞬間だった。
「…シン……」
もしもこの手を伸ばさなかったならば、どうなっていたのだろう?俺がお前を追いかけなければ、どうなっていたのだろうか?
「―――好きだ、シン。大好きだ」
風のように通り過ぎてゆくお前を、がむしゃらになって掴まなければ。必死になって追い駆けたのに追いつけなかったならば。
「お前が好きだ」
けれども俺はお前に辿り着いた。お前の場所まで辿り着いた。追い駆けた腕を掴み取ってくれたのはお前だ。その冷たい瞳で俺を絡め取り、その腕の中に閉じ込めてくれたのは。
「本当にお前は…他に言う事はないのか?」
漆黒の冷たい瞳。けれども俺は知っている。その瞳の奥に在る熱き激しい感情を。それが俺の中に忍び込み全身を絡め取ってゆく。それはどんなに。どんなに俺を満たしてくれるのか。
「他の言葉はお前の前では思い付かない。好きしか知らない」
「馬鹿の一つ覚えだな」
馬鹿でもいいよ。何でもいいよ。お前にこの言葉を告げられるのならば。好きだという想いで全てを埋める事が出来るならば。馬鹿でも、いい。好きという想いで全てが満たされるのならば。
「―――でも俺はそんなお前が……」
言葉は音として零れては来なかった。けれども俺は知っている。俺だけは、知っている。重なった唇から…伝わったから。


奪われたいと願うのと、奪いたいと思うのはきっと同じ事だ。きっと、同じだ。


睫毛が重なるのと唇が重なるのは、どちらが先だろうか?それとも一緒なのだろうか?指先が重なるのと額が重なるのは、どちらが先だった?それとも一緒だった?
「お前がいて俺は初めて知った。自分の中に『感情』があるのだと」
全てのものがただの風景に見えた。全ての事が他人事のように思えた。何もかもがただ目の前を通り過ぎてゆくだけだった。自分でも驚くほどに何が起きても何処か冷静で、何処か遠い場所で起きた出来事のようだった。けれどもお前はここにいる。今俺の目の前に。
「お前がここにいなければ分からなかった」
俺の腕の中にいる。俺のそばにいる。俺の皮膚に刻みこまれている。お前という存在が、俺の全てに。
「いるよ、俺は。俺はずっとお前のそばに…シン」
お前の髪の匂いを、お前の皮膚の熱さを、お前の吐息の甘さを、お前の潤んだ瞳を。その全てを俺だけのものに。


お前の全てが欲しい。お前に全てを奪われたい。それはきっと。きっと、同じ願いだから。


重なる睫毛。重なる唇。重なる指先。重なる額。そこから広がる熱に溺れた。ふたりで、溺れた。ふたりきりで、沈んだ。