何も望まない。何も願わない。ただそこに。そこに、在ればいい。
その瞳が映す蒼い色は、偽りのない空の色。本物の空の、色。曇り一つない瞳に映し出されるものは、何時も。何時もひたすらに真っ直ぐな真実だけだった。
「ここに、傷がある」
頬に触れた指先はひどく暖かいものだった。暖かい指先だった。まるで子供みたいにお前の身体は体温が高かったから、指先も。この指先も、とても暖かいもので。
「小さな傷だけど…これ、消えないな」
途端に曇る瞳。自分の事じゃないのに、まるで自分の事のように。本当に哀しそうになる瞳。誰が見ても分かるくらいに。
「女じゃないし、構わない」
名残惜しそうに触れる指先を掴んで、そのまま自分の方へと引き寄せた。その衝撃でふわりと、紅い髪が揺れる。誰かがまるで血のような色だと言っていたけれど、俺にはもっと違うものに見えた。違うものに、見えた。
「でもお前の顔に傷が残っているのは俺が嫌だ」
「そんな事知らん」
「ちぇっ、でも嫌だ。俺お前の顔すげー好きだから」
軽く抱き寄せてやれば素直に身を預けてくる。疑う事を知らないお前は何時だって。何時だって俺がする事を素直に受け入れ、それを喜ぶ。どんな事を、しても。
「―――お前は……」
溜め息混じりに言っても、お前は嬉しそうににこにこしていた。抱き寄せてやるだけで、全身で喜びを表してくる。キスをしてやるだけで、どんな欲求にでも必死で答えようとする。
もしも、今。今俺がお前の首を締めたとしても…きっと、拒む事無く受け入れるのだろう。
お前の瞳に曇りがないから。そんな瞳に映る俺すらもひどく綺麗なものに映っているのだろう。俺自身よりも、ずっと。ずっと綺麗なものにお前には映っているんだろう。
「すげー好き。大好き」
屈託なく告げられる言葉。臆面もなく真っ直ぐに向けられる感情。そこに覆うものも隠すものもない。ただ本当の気持ちがあるだけで。お前の本当の心があるだけで。
「大好き、シン」
それは何時も嫌になるくらい俺の中に飛び込んでくる。嫌になるくらいに俺の中を、支配する。他人に支配されるのも、他人に好き勝手やられるのも、ただ。ただ煩わしさしか感じなかったのに。なのに、お前は。
「…本当だよ…俺…お前好きだから」
お前だけは、それを煩わしいとも、嫌だとも思わなかった。剥き出しな思いすら、俺には心地良いものに変化していた。
自分が時々自分でなくなるような感覚に陥る。
お前といると時々、知らなかった自分に出逢う。
全く知らなかった、自分。全く知らない自分。
けれどもそれもやっぱり『俺』だった。俺自身だった。
それを暴くのはお前。お前だけだった。
髪を掴んで、そのまま唇を塞ぐ。自分がしたい時に勝手にキスをする。勝手に唇を奪う。お前の意思なんてお構いなしにそうしても。そうしても必ず唇は答えを返してくる。両腕を背中に廻して、きつくしがみ付きながら。
「…シ…ン…っ…」
紅い髪。それは真っ赤な夕日の色だ。空が闇に染まる前に見せる、太陽が一日の一番最後に燃える瞬間。その瞬間の、色だ。
血の色なんかじゃない。お前の髪はそんなに穢れたものじゃない。もっと熱くて、そして真っ直ぐなものだ。
「もっとして欲しいか?」
唇が濡れるまでキスをしてやって、そのまま顔を見下ろした。微かに潤んだ瞳は反らされる事なく自分を見つめる。自分だけを見つめる。自惚れでも何でもなく、この瞳は何時も俺だけを見ている。反らされる事なく真っ直ぐに俺だけを見ている。
「…もっと…してほしい…キス……」
濡れた唇を指の腹でなぞってやれば、ぴくんっと睫毛が震えた。見掛けよりもずっと長い睫毛。それが震えて、そしてゆっくりと閉じられる。
その顔を見ていたら、ひどく。ひどく首を締めたい衝動に駆られた。このままきつく締め付けて、しまえたら。しまえたら、俺はきっと。きっと怖いものはなくなるのだろうと。
生まれて初めて怖いという感情を芽生えさせたのはお前だった。
自分自身をコントロール出来なくなる恐怖。自分を抑えきれなくなる事への怯え。
今までこんな自分は知らなかった。今までこんな事はなかった。
だからこそ、怖いのだと。お前が怖いのだと、思った。
剥き出しの駆け引きなしの真っ直ぐな思いをぶつけてくるお前が。
そんなお前の恐怖から逃れるように無茶苦茶にしても、乱暴に抱いても。
お前はその思いを崩す事はないから。どんな事をしても、お前は変わらないから。
どんなに穢しても。どんなにお前を傷つけても。
それでもお前は変わらない。お前だけが、変わらない。
綺麗なままで。純粋なままで。疑う事すら知らないで。
気付けば追い詰められているのは、俺の方なんだ。
首を締めたいと思った。このままお前の存在を消してしまえたらと。けれども。けれどもそれ以上に。それ以上に俺にとっては。
「…シン?……」
首を締める変わりにきつく。きつく抱きしめた。髪に指を絡め、お前をかき抱き。そしてそのぬくもりを感じる。お前の体温の高い身体を、感じる。
「―――ツァイス……」
お前の存在を消して苦痛から逃れるよりも、俺は。俺はそれ以上にこうして腕の中に在る命を乞うのを止められない。生きているお前から注がれるモノ全てを奪いたいと。お前の全てを奪って、俺だけのものにしたいと。
「俺だけを見ていろ」
その瞳はずっと俺だけを見ていればいい。その声はずっと俺だけを呼んでいればいい。最後の血の一滴まで全部。全部俺の為にあればいい。お前という存在が、俺だけの為に存在していればいい。
「俺以外何も見るな、何も考えるな」
それを確かめる為に。それを確認する為に。お前という存在を焦がれるのを俺は…止められないから。
「そんなの言われなくても、バカだなシン。俺は全部お前だけのものなのに」
子供のように無邪気に微笑って、屈託のない顔で、全てを信じきった顔で。俺を見つめ、俺に微笑む。俺の名前を呼び、俺を好きだと告げる。
それが俺を追い詰め、俺を狂わせ…そして俺をひどく満たしてゆく。
お前の瞳は何時も真っ直ぐで。お前の瞳は何時も剥き出しで。
俺の奥底に眠る暗い欲望も、醜い独占欲すらも暴いてゆく。
けれどもお前は。お前はそんな俺ですらも。そんな俺でこそ。
――――好きだと、告げる。全身で、告げる。そんな俺が好きなのだと、そう……
「…俺は全部…お前だけのもの…なのに……」
狂うほどに焦がれているのは俺の方だ。どうにも出来ないほどに惹かれているのは…俺の方だ。