愛を知る人






不意に目が覚めた瞬間、一面の闇の世界に怯え思わず飛び起きた。その瞬間、繋がっていた指先がきつく握り締められた。微かな寝息と共に、きつく。


繋がっている、この手のひらは。繋がっている、この指先は。このぬくもりは、こうして重なり合ってひとつになっている。もうそれだけで何も怖くないと思った。


「―――ん、あ?どうした?」
起こさないようにと気付かれないように身体を横たえさせた瞬間、隣から聴こえてくる声に少しだけ戸惑い、けれどもそれ以上に安堵する自分を隠す事が出来なかった。
「…ごめんなさい、起こしてしまったみたいですね」
こんな暗闇の中でも今目の前の相手がどんな顔をしているのか分かるのは、繋がった指先のせいだった。そう、今この瞬間そっと指の腹で撫でてくれたから。
「あんたが謝る事はないよ。俺は寝るのだけは得意だから、起こされても直に寝られるし。それに」
少しだけこの暗闇の中で目が慣れてきた。それと同時に頭に乗せられた大きな手のひらの感触に強張っていたものが少しずつ解かれてゆくのが分かった。そっと、解かれてゆくのが。
「それにあんたがこんな顔している時に寝てしまっては、流石にバツが悪いしなあ」
穏やかに、微笑う。それは本当に陽だまりのように。この手のひらのように暖かく。その穏やかな笑みに私はどれだけ救われてきたのだろうか?どれだけ…心を柔らかくしてもらったのだろうか?
「どうした?怖い夢でも見たのかい?」
よしよしと子供を宥めるように頭を撫でる手のひら。こんな風にされた事なんてもう私の記憶の中を探っても、本当に遠い昔の事しか思い出せなかった。それは本当に遠い昔の子供の頃。私は弟が生まれてからは出来るだけ良い姉でいようと親に甘える事を止めてしまった。だからそれよりも昔の、本当に遠い遠い記憶。
「…トレック殿…本当に貴方は……」
口許に自然に笑みが浮かんできた。それは意識して笑おうとしたのではない、本当に心の底から湧き上がってきたもの。心から、形になったもの。
「何か俺変な事したかなあ?でもあんたが笑ってくれたから、それでいいや」
そう言いながら頭を撫でる事を止めないから可笑しくて、そして嬉しくて。嬉しかったから、そっと。そっとその背中に腕を廻して、広く厚い胸板に顔を埋めた。どんな場所よりも安心出来る、どんな所よりも暖かいその場所へ。


今でも時々夢に見る。大切な人を失ったその瞬間を。自分が選んだ道なのに、自分が決めた道なのに、それなのに。それなのに私は大切な人、愛する人…ゲイルを失ってまで、こうして生きていたいいのかと。そしてその瞬間を繰り返し夢に見て、自分の悲鳴で目が覚める。そんな夜を何度も何度も過ごしてきた。けれども。
「―――トレック殿…ありがとう……」
けれども今は、この手がある。この繋がっている指先がある。こうして怯えて目が覚めても、きつく結ばれている手のひらがある。
「それはこっちの台詞だなあ。こんな俺のそばにいてくれてありがとう。俺あんたと一緒にいられる事が凄く嬉しい。だからありがとう」
最初はこの手を取る事に罪を覚えた。罪悪感に苛まれた。あんなに愛していた人を失いながらも、芽生えてしまった新たな気持ちに。けれども。
「だからこれからも一緒にいてくれると嬉しいなあ」
けれどもそれ以上に笑顔は穏やかで、優しくて。暖かいものに溢れていたから、だから私はもう。もう拒む事も拒絶する事も出来なくて。
「一緒に、います。ずっと私は、だから…その……」
胸を引き裂かれる程の激しい恋ではない。押しつぶされそうなほどの苦しい愛でもない。けれども確かにこの胸に芽生えた想いは恋であり愛だった。穏やかで優しい恋であり、癒され救われる愛だった。
「この手をずっと繋いでいてくださいね、トレック殿…いえ…もうこんな呼び方ではいけませんね……」


「…トレック…いえ…あなた……」


暗闇が怖かった。愛する人を失った日から怖くてたまらないものになっていた。けれども私のそばに光があった。それは強い光じゃない。眩しい光でもない。けれども何よりも暖かいものだった。何よりも優しいものだった。だからその光に初めは気付かなくて、気付いても戸惑い拒絶するしか出来なくて。けれどもその光は変わることなく私のそばに在った。ずっと、私のそばにいてくれた。
「わっ、な、なんかあんたにそう言われると…て、照れるな…というか…何かこんなに…恥ずかしいものなんだなあ……」
ただ微笑っていてくれた。ただ穏やかに微笑んでいてくれた。張り詰めていたら疲れるだけだから、少しのんびりすればいいと言いながら隣で寝息を立てる人。けれども不思議と私が不安になった瞬間に気付いて、その目を開いて『どうした?』とのんびり聴いてくれる人。張り詰めた心を溶かすように、気の抜けるような呑気さで。けれども私はその声にどれだけ救われていたのか、貴方はきっと気付いていないでしょう?
「…でも嬉しいなあ…ありがとう…その…ミレディ……」
気付かないくらいそれが貴方にとっての『当たり前』の事だと気付いた瞬間に、私はもう自分の気持ちを閉じ込める事は出来なくなっていた。ううん、貴方がそっと結ばれ絡まった私の心を解いていてくれたから。
「―――はい、あなた」
見つめて、見つめあって、少しだけ恥ずかしくなって。けれどもそれ以上にしあわせが込み上げて来て。込み上げて来て、包まれたから。だから、唇をひとつ重ねた。そっと、ひとつ、重ねた。


繋がっている、てのひら。繋がっている、ぬくもり。結びあっている、こころ。あなたと、こうして私は繋がっている。


愛が溢れて、零れてくる。それがそっと私に降り注ぐ。髪の先に、睫毛に、頬に、心の中に。そっと、降り注ぐ。
「なんかいいのかなあ?こんな綺麗な人を俺が独りいじめてして」
「ふふ、それは違います。私が貴方をひとりいじめするのです」
貴方から注がれる穏やかで優しい愛が、私の中を満たしてゆく。そっと静かに、満たしてくれる。
「え?そうなのか?あ、でもそれなら俺も安心だ。変な心配しなくて済むしなあ」
こんな時にまでまだ私の頭を撫でてくれる貴方の手が愛しい。どうしようもない程に愛しいと思った。だからもう、きっと。きっと私は怖い夢を見る事はないだろう。もう二度と。


――――怖い夢は見ない。貴方がいる限り。貴方と手のひらが繋がっている限り。



貴方はきっと誰よりも知っている。愛というものを知っている。穏やかで優しい貴方の笑顔が、貴方の瞳が、貴方の手のひらが、それを知っている。