ただ独り愛した女。ただ独りしか、愛せなかった女。
その思いを閉じ込めるために、私は逃げた。それが唯一の後悔だった。
本当ならばどんなになろうともそばにいるべきだった。
自分を壊しても、壊れても。それでもそばにいるべきだった。
永遠に結ばれないと分かっていても。永遠に自分のものにならないと分かっていても。
そばにいて、最期まで。最期まで、護ってやる事が。
どんなになろうとも、死のその瞬間までお前を。お前だけを。
それが何よりも必要で、何よりも大切な事だったのに。
失ったものはあまりにも大きく、後悔は永遠の深い闇として消えない。
本当に大切なものは、失ってから…本当に失ってから、初めて気付くものだと知った瞬間。私は初めて剣の道の名に殺戮を繰り返していた自分の愚かさに気が付いた。ただ血に溺れ強さだけを求める剣に、本当の強さなど宿らないのだと。本当に強いものなど得られはしないのだと。
本当に強いもの、それは護るべき強さだ。誰かを護りたいと願うそこから生まれる強さには、決してただの殺戮者の私には叶いはしない。そして護るべき者を失った私は、もう強くなる事は出来なかった。本当の意味での剣の道は、もう私にはなかった。
目の前にある漆黒の髪を、そっと撫でた。微かに汗ばんでいる前髪を掻き上げてやれば、そこから覗く額と閉じられた睫毛は、年相応の表情を見せた。こうして見下ろせば、確かにまだ子供とも言える少年だった。
けれどもその瞳を開けばひどく大人びた顔を見せる。全てに冷めたような、それでいながら何処かひどく惹かれる漆黒の瞳。冷酷に見えながら、それでも何処か熱いものが見え隠れするその瞳。
この瞳を真剣に見ていたら、その奥までも覗きたい衝動に駆られる。この冷めた瞳が本気になった時どんな色を見せるのか…それを見たいと、思う。
けれどもそれは決して自分には見せる事はないだろう。自分がその瞳を出来ない以上、鏡のような相手である彼が、同じ瞳を見せる事はないのだ。
「…時々嫌になるよ…君を見ていると私は余計なものまで思い出してしまう……」
嫌になるくらいに分かる。手に取るように分かる。本質的なものが同じだと本能で分かった以上、彼がどうすればその瞳をさせることが出来るのか。どうすればいいのか、どうして欲しいのか…嫌になるほどに分かるから。
「…それでも見たいと思わせるのは、君の魅力なのだろうね……」
微かに聴こえる寝息が裸の胸に当たる。それを感じながら瞼を降ろした。訪れる眠りに身を任せる為に。
風に揺れる漆黒の髪。私に何処か似た少女。当たり前だ、実の妹なのだから。血が繋がっているのだから、似ているのは。けれども中身は全く違う。違っていた。
人を殺す事でしか生を感じることが出来ず、生臭い血の海に身を埋めた自分と。愛する相手を見つけ、剣よりも人として女として生きる事を決めた妹。同じ剣の道を歩みながら、辿り着いた場所は全く別の場所だった。
私は人を殺す事でしか、生きる事を確かめられなかった。お前は他人を愛する事で生きる意味を知った。けれども運命とは皮肉だ。
死人のように生きる私よりも、誰よりも輝き生きていたお前を先にこの世から消してしまった。
私にはないお前の強さ。それは愛する者を護る強さ。私にはない。私には持ってはいないもの。それをお前は手に入れた。本当に大切なものを、手に入れた。
それなのに私は。私は目の前にあったそれすら、自らの思いに逃げる事で永遠に失ってしまった。お前から逃げる事で、永遠に失われた。
そばにいなければ、いけなかったのに。どんなになっても、お前を護らなければならなかったのに。
長い髪、微笑う少女。お前はずっと私にとって少女のままで。少女のまま時間が止まっていて。確実に時は進んでいるのに、私の心は。私の人としての心は、この瞬間に立ち止まったままだ。
私がただ独り愛した女。ただ独り、愛した少女。私の時は永遠にこの時間に捕われ抜け出せないでいる。
浅い眠りから目を覚まさせたのは、唐突に塞がれた唇のせいだった。目覚めのキスにしては激しすぎる口付け。その刺激に浮上していた意識が一気に戻される。
「…いきなり…だね……」
自分を目覚めさせた少年を見上げれば、不敵とも思える笑みを口許に浮かべていた。とても子供が見せるような笑みじゃない。けれどもひどくそれが似合っていた。
「あんたが苦しそうな顔で寝ていたから、目覚めさせてやった」
「…夢見が悪かった……」
多分口許だけで笑ったのだろう。ただ口の形を変化させただけだろう。何となく、分かる。彼はきっと心の底から笑った事など久しくない筈だ。そう感じる事すらないはずだ。でなければこんな顔を作る事は出来ない。
「だったら感謝しろよ」
「…そうだね……」
そんな君に私は何時もの笑みを浮かべる。私はこの表情以外の顔をほとんどしなくなった。それ以外の顔を他人に見せる事はしなくなった。これ以外の顔は、後は快楽に歪む表情だけだ。それ以外のものをもう。もう私は他人に見せようとは思わない。見せたいと思う相手もいない。
「ならばもっといい夢を見させてくれるかい?」
背中に腕を廻し、髪に指を絡めて。そのまま引き寄せキスをした。唇が重なる瞬間に訪れる甘い疼きが、何よりも軋んだ胸に心地いい。このまま傷口に熱い感覚だけを埋め込んで、快楽の海に溺れてしまいたい。
「いいよ、あんたがそうしたいなら」
このまま溺れて、消えない痛みを少しだけ忘れさせて欲しかった。
君と向き合う事で、自分と向き合って。
君に抱かれる事で、自分から逃げて。
私は繰り返している。ずっと、繰り返している。
逃れられない闇と、自分の弱さを。
出口のない迷路に自ら捕われ、そして。
そして肉欲に溺れる事で、逃れている。
同じだ。人を切り刻む自分と、セックスに溺れる自分は同じだ。
それでも意味のあることだった。私にとって意味があることだった。
「キツいね…あんたのココって……」
他の誰でもない、君と身体を重ねる事は。君と、こうして繋がる事は。
「あんだけ男食っているのに」
君を見て自戒をし、君を見て絶望し、君を見て救われる。
「…こんなに、締め付けるんだな……」
鏡のような君の瞳が。君の瞳が何処かにまだ光があるのならば。
――――私にもまだ…まだ何処かに光が残っているのだと…確認出来るから……
君に抱かれながら、ふと。ふと思い出したものがある。昔訪れた村で泣き叫ぶ赤ん坊の声を。本当はこのまま。このまま泣き続ける赤子を剣のエサにしてしまおうと思った。血を求める自分の剣にたっぷりと食べさせてやろうと思った。けれども。けれども、何故かそうする事を…私は躊躇った。
誰でも良かった。人を殺せれば、この剣で身体を刻めれば。誰でも良かった。赤子でもよかった。それなのにその瞬間。その瞬間、私の剣はその赤子を切り刻むのを躊躇った。
小さな命が。本当に一握りで潰されてしまうその命が、懸命に生きたいと泣いていたから。
大きな声で、泣いていた。生まれたての赤子。与えられた命を懸命に生きようとする赤子。大人になり考える事が出来る私よりも、ずっと。ずっと何も知らずに、何も分からない赤子なのに。なのに、懸命に泣いていた。懸命に自分の命を主張していた。一生懸命に、泣いていた。
私は殺せなかった。私は結果的にその赤子を護った。村を襲ってきた輩に剣を振るい、その小さな命を護った。
何故かその時のことを、ふと。ふと、思い出した。君に抱かれながら、見えない光を探りながら。思えば私は。私はあの時あの赤子を何処かで護りたいと思っていた。生まれたての小さな命を、護りたいのだと。それは私が唯一。唯一出来た『護るべき力』だったのかもしれない。
…それが、私が唯一してあげられた…護りたいと思った者に与えられた力なのかもしれないと……
夜が終わるその瞬間まで、この身体を抱いていた。まるで盛りの付いた獣みたいにセックスをしていた。このまま俺の匂いが染み付くんじゃないかと思うくらいに、その身体に精液を注ぎ込んで。そして何度も唇から悲鳴のような声を上げさせた。
「――――カレル……」
髪を掴み噛み付くような口付けをする。優しくしてやるよりも、激しくしてやった方が反応が早かった。昇りつめるのが、早かった。
「…もう君は…私を溺れさせるキスを覚えた……」
初めて抱いたあの日から、毎日のようにこうして抱き合っている。何かから逃れるように、こうして。何かの答えを捜すかのようにこうやって。
「あんたの教え方が上手いからだろう?」
どうすればこの身体が悦ぶか、この指が覚えた。どうすればイカせる事が出来るかも。その顔を快楽に歪ませる事も、簡単に出来るようになった。けれども。
「君の飲み込みが早いんだよ」
けれどもそうして先が見えれば見えるほどに、感じる事がある。嫌でも感じる事が、ある。もうすぐこの関係が終わるのだと。もうすぐあんたは俺の前から消えるのだろうと。
性急に昇りつめ、そして身体が記憶してしまうほどに。指先が感覚で覚えてしまうほどに。俺の全てが、今のあんたを記憶してしまったから。だからもう。もう進むものすらなくなって。
「もう私は、君に教えるものはなくなってしまったよ」
「――――セックスに関してだろ?」
もう、何もない。何も教えられる事も、与えられる事も。後はもう。もう自分が捜すしかないという事も。自分で見つけ出すしかないという事も。
「全部、だよ。もう君には分かっているだろう?」
あんたに教えられた。他人に興味を持つ事を。自分の心に何かが残る出逢いを。そして。そして失う前に気付かなければいけない事を。
でも今の俺にはない。本当に失いたくないものは、まだない。
初めて芽生えた他人への関心。自分の心に消えない存在。
けれどもそこにある前提は、『別れ』だ。別れがあるから。
あるからこうして俺の中に残るのだろうと。残るのだと。
別れすら認めない。そんなどうにもならないほどの存在は、まだ俺は知らない。
それでも別れたくないと思う。あんたとは、出来るならずっと。ずっとこうしていたかった。それが叶わないと分かっているから、願うのかもしれないけれど。
「…ここから…消えるのか?……」
けれども気づいてしまったものが、あんたから与えられたものが、それを決して許しはしない。それもまた分かっている。あんたは自らの傷から逃げているだけで、俺も全ての事を諦める事で逃げている。そんなふたりが向き合った先に気づいたものが、今ここにある限り。
「消えるも何も…元々ここに私の居場所はないのだよ」
ここに、ある。あんたも俺も分かっている。溺れるだけの関係は、一時の気休めでしかないと。そしてその先にあるものは、虚しさだけなのだと。このまま続けていけば残るものはそれしかなくなってしまうのだと。
「私はただの放浪者だからね」
やっと互いが向き合って見つけたものすら、腐っていってしまうのだと。その事に、俺もあんたも気付いている限り。気付いている限り、ずっとこうしている事は出来ないんだ。
「…本当の居場所を捜している……」
それは俺のそばじゃない。この場所じゃない。俺にとっても、あんたはただ独りの相手じゃない。
髪に触れる。あんたの髪の感触、指が覚えた。
「―――見つかるといいな」
あんたの頬の柔らかさも。汗の匂いも。
「あんたの本当の場所が」
肌のぬくもりも。皮膚の熱さも。
「妹以外の場所を、見つけられるといいな」
全部、全部、俺は覚えた。
忘れたくても忘れられないだろうから、ずっと覚えていよう。あんたのぬくもりを、ずっと。
「…ありがとう…シン……」
見つめあって、そしてもう一度キスをした。触れるだけのキスをした。
それは俺があんたに教えてもらったキスじゃない。あんたを溺れさせるキスじゃない。
でも今までしてきたどんなキスよりも、ずっと。ずっと心に響くものだった。
唇が離れて、あんたは微笑った。その顔は何時もの笑顔と少しだけ。少しだけ違うものだった。それがひどく瞼の裏に焼きついて、しばらく俺の脳裏から消えないものとなる。目を閉じれば鮮やかに浮かんでくるほどに。
「君に逢えて、よかったよ」
綺麗な顔。綺麗な笑顔。本当に綺麗なものを俺は今目の前で見ている。純粋に綺麗だと言えるものを。それ以外の言葉が、浮かんでこないものを。
「俺もだ」
俺はあんたに出逢わなければ、これからも先ずっと。ずっと変わらなかったと思う。変わるきっかけすら、見つけられなかったと思う。
ずっとこの先、他人を冷めた目で見続ける…自分のことすら他人事のように見てゆく、そんな。そんなつまらない大人になっていっただろう。
「君からそう言ってもらえるとは思わなかった…嬉しいよ」
ガキの俺を初めから対等に見てくれていた。同じ年頃の奴らとは馴染めずに、大人にはガキだからと見下されていた俺を。居場所がなかった、俺を。
「そういう言葉を言える君は、きっと私のようにはならないのだろうね」
俺を、認めてくれた人間。素のままの俺自身を、認めてくれた相手。そうだ、俺は。俺はずっと。ずっと、捜していたんだ。自分の居場所を。
ガキの癖に俺はガキにはなれなかった。バカ騒ぎもふざける事も出来なかった。そんな感情が自分には欠落していた。かと言って大人にもまだなれない。自分には知らない事が多すぎるから。
――――だから中途半端で、だからいるべき場所がなくて。
でもあんたは俺を認めてくれて、居場所を与えてくれた。例え一時的なものであっても。別れが来れば終わる場所であっても。
「君の未来が血に塗れないように、祈っているよ」
けれどもあんたは俺に残してくれた。こうして教えてくれた。自分の居場所をまた作ればいいと。また作る事が出来るんだと。
「あんたも死ぬなよ」
あんたがまたこうして。こうして旅立ち漂流するのは、場所を捜しているからだ。一度失った場所をまた。また捜そうと、旅だってゆく。それこそ俺があんたに与えて、そして教えてくれたもの。
「また俺に逢うまで、死ぬなよ」
そしてそれが。それが俺があんたに、与えたものなんだ。俺と向き合って…あんたが導き出した答えなんだ。
「ああ、約束しよう。君にまた逢うまでは、恥を晒しても生きてゆこう」
俺に自分の傷を吐き出して、そして身体を重ねるコトで溺れながらも。溺れながらも自らを取り戻し、見つけた答え。そしてそれを俺に見せてくれた。それこそが、あんたが俺にくれたものだから。
「―――ああ……」
その先はもう。もう言葉にしなかった。言葉にしなくても、伝わったから。確かに伝わったから。だからもう。もう何も言わなかった。
どんな出逢いでも、意味のないものはないのだと。
どんな別れでも、意味のないものはないのだと。
あんたが教えてくれた。俺に、教えてくれた。無駄に生きてきた俺に、それは違うんだと。
そして剣聖と呼ばれたその男は、この村から消えた。
サカ民族が、ベルンの大群に侵略される…一ヶ月前のことだった。
どんな出逢いも、どんな別れも、それは自分にとって意味のあることなのだ、と。