Shine



それは怖いほどに純粋な瞳だった。駆け引きも何もない剥き出しの瞳だった。


ガキのような大きな瞳が反らされる事なく真っ直ぐ自分を見つめる。
そこに駆け引きも思考も何もない。ただ純粋に。純粋に俺を見つめるだけで。
痛いほどに剥き出しの瞳。不純物のない無垢な瞳。透明な、瞳。


…俺は。俺はこんな瞳を持つ人間を、今まで知らなかった……。



今でも目を閉じれば浮かぶものがある。真っ赤な血の色。真っ赤な炎の色。ベルンの大群に襲われ、サカの一族が散り散りになったあの日。子供は血祭りにされ、女は慰み者にされ、村は焼き払われた。自らの部族は壊滅し、皆散り散りになった。何とか生きる事が、生き延びる事だけが全てになった。どんな形であろうとも、どんな事になろうとも自分らは生きる事だけが、全てになった。

――――部族の為に…サカ人の誇りのために……


『生きろ、シン。お前にはすべき事がある』
真っ赤な炎の中で、焼け爛れてゆく肉の匂いの中で。悲鳴と血と、そして死の匂いの中で。
『生きるんだ、どんな事をしてもお前は』
一面の赤。一面の深紅。一面のどす黒い赤。一面の…真っ赤な色。炎と血と、死臭と焼け焦げた匂いと。
『―――生きろ、シン…サカの未来を…スー様を……』
そして。そして自分の『仲間』だったモノが、ゆっくりと。ゆっくりと焦げて焼けて消えてゆく。炎に、敵に、蹂躙され。そして。そして何もかもが、なくなった。何もかもを、失った。



見上げた空は、あの時と正反対の色をしていた。目にも鮮やかに映る蒼い色。その空を見上げながら、シンは目を細めた。あの日からどれだけの時が経ったのか、思い出すにはまだ早く、けれども振り返るには長すぎた。
部族がベルンに襲われた日。あの時自分は無力な子供だった。頭だけ冷めた、セックスの味だけを知っていた、生意気なガキだった。大人達が、仲間たちが死んでゆく中で、自分は生き残った。運がよかっただけと言えばそれまでだが、それでも大人達は子供優先に逃がしてくれていたのも事実だった。自分らが滅びても民族の血を引く子供達さえ生き残れば、またサカ族は蘇るだろうと。そんな大人の気持ちから、子供であるシンは逃れられた。
それから先は、普通の人間なら思い出すのも嫌なくらい悲惨な日々だった。食べる物もなく、毎日腹を空かせ、残飯を漁っていた事もあった。やっとの事で自分が戦うと…戦えるという手段に気付いた時、金を稼ぐ方法は自らの命を掛ける事しかなかった。傭兵として戦う以外に方法はなかった。
それは辛い日々だった。辛い日々のはずだった。けれどもシンにとっては、それは苦痛にすらならなかった。持つべきはずの心の痛みや苦悩が、まるで凍ってしまったかのように何も感じられなくなっていた。そして。そして気が付いた。元々感情の起伏の少なかった自分だが、あの日を境に起伏すらなくなっていた事に。
何かを感じる事を、何かを思う事を、その全てが一切自分から消えていた事に。あの日まで、どうでもよかった事だった。あの日まで自分は民族の誇りや繋がりなんて、真剣に考えた事すらなかった。自分の置かれている立場が当たり前だと思い、この場所は当たり前にあるものだと。改めて考える必要はなく、そこに当然にあるものだと疑っていなかった。

それが一夜にして、崩れ去った。一夜にして崩壊した。

あるべきものがなくなった。当然が当然でなくなった。振りかえればそこにあったものが、全て消滅した。その時になって初めて、シンは気付いた。初めて気付かされた。それがどんなに大切な場所で、どんなに自分を護ってくれて場所かを。
そしてそんな大切なものを冷めた目で見つめ、真面目に考える事すらしなかった自分の愚かさを。そう、自分は愚かだったんだ。彼がそれを気付かせてくれていたはずなのに。


『…失ってから大切なものに気付く事がないように……』


大切なものだ。大切な場所だ。自分にとって確かにそれは大切なものだったんだ。当たり前のようにあったから気付かなかった。当然のようにあったから、気付かなかった。けれどもシンにとってこの民族こそが故郷で、子供である彼がいるべき場所だったのだ。
その事に気付いてから、自分は何も感じなくなった。感じる事すらなくなった。自らの愚かさを認め絶望し、そしてそんな気持ちを護るかのように、心が何も感じなくなっていた。
「――――」
何もなくした自分の心に埋もれたものは唯一の言葉だけだった。自分を逃がした大人達の言葉。その言葉だけが、空っぽになったシンの心を埋めた。―――スー様を護るのだ、と。
だから自分はその為に生きている。その為に生きる以外に理由はなかった。サカ族の長の孫娘。彼女さえ生きていれば、サカ族は復活する事が出来ると。それを信じる事だけが、シンにとっての唯一の心の空洞を埋める方法だった。
そして今。今彼女は自分のそばにいる。ベルンと戦いしロイ軍の元に。自分がここまで生きてきた理由を見つけ、そして彼女の為に戦う。それで満たされるはずだった。それで心の空洞は終わるはずだった。けれども、シンは何も。何も変わらなかった。
消える事のない自責の念は、こうしてスーを護るという代償行為で満たされても、シン自身の心はもう何処にも見つからなかった。長い間凍らせ感情というものをなくした自分は、何かを感じるという行為を思い出せなかった。何かを思うという事が、分からなくなっていた。
ベルンは憎むべき敵であることには変わりはない。何もかもを失わせた相手である事は変わりない。それなのに、激しく憎悪する事も、憎む事もなかった。心が感じる事が、なかったのだ。
本当は誰よりも自分はそれを思っているのかもしれない。けれども凍らせてしまったシンの心はあまりにも奥深く、それを感じる事が自分自身で出来なくなっていたのだ。
何も感じない。何も感じる事がない。スーに逢えたあの瞬間ですら、やっと探し出した相手ですら。何処か第三者的に、見ている自分に気が付いていた。
そしてその事を嫌になるほどにシン自身が理解しているからこそ、誰よりも自分に呆れ自分を憎悪するしか出来なくなっていた。


血の色。真っ赤な血の色。紅い炎の色。今自分が一番感じられるものがあるとしたら…この色を憎む事だけだった。


強い風が吹いて、シンのバンダナを揺らした。それを抑えるように手を頭上に上げた瞬間、視界に一人の男が入ってきた。その男は自分に気付くと軽く手を上げて、シンに近づいた。
「…えっと、シンだったよな」
何処にでもいそうな平凡な空気を纏いながら、けれどもこうして至近距離まで近付けばこの男が平凡でない事は分かる。凡庸な雰囲気の中に見え隠れする鋭い空気。それがこの男の属する傭兵団の共通のものだった。イリアの傭兵団。一年の半分以上を雪が覆う不毛の地だと、聞いている。
「確かノアと言ったな」
人の名前すら素通りさせるシンだったが、流石に自分の味方の名前を覚えない訳にはいかなかった。ともにロイ軍で戦う以上、その仲間達は。
「ああ、そうだ。覚えてくれて嬉しいよ」
にっこりと笑うその顔は本当に何処の村にでもいる青年のものだった。けれども戦場に立てば彼らは一流の傭兵だ。そうやってずっと生きてきた。生きるしかなかった。それは何処か自分の境遇と似ている。
それに彼は別の事でシンの印象に残っている。自分が用心棒として雇われた時に一緒にいた女、フィル。彼女と知り合いだったからだ。別に他人の色恋沙汰には興味などないが、そういった関係なのだろうとシンは踏んでいる。
「フィルと知り合いのようだったから」
「知り合いと言うか…前に闘技場で逢った事があるんだよ。闘技場初めてなのに剣の腕を磨くためにって…危なくって見ていられなくてね」
別に馴れ初めなど興味なかったが、シンから言った以上話を聴かないわけにもいかなかった。無言で男の表情を見つめながら、興味のない話を流すように聴いていた。
「逢えてよかったな。逢いたかったんだろう?」
「まあ、そうだね。逢いたかったと言えば逢いたかったかな」
当然そっちに話がいくのだろうと思っていたシンは、返って来た曖昧な返事に少しだけ違和感を覚えた。そこに含まれているものに、何か。何か違うものがあるような気がして。
別に普段なら気にする事もないような事だった。何時ものシンならば素通りしている事だった。けれども何故かこの時だけは。この時だけは胸に突っかかり、思わずノアの顔を真面目に見てしまったのだ。そして。そしてその答えが、分かった。
「――――手がかりだったから」
目の前の凡庸に見える男の顔つきが、一瞬だけ変化する。それが、彼が戦場で見せる顔に酷似している事に気が付いた。そう、戦場で見せる彼の傭兵の顔。いや違う、真実の顔。
「手かがり?」
その顔に何かが突っかかり、シンは普段聴くはずのない質問をしていた。普段なら素通りしているはずの質問を。必要以上に他人に関わらない為に踏み込むはずのない質問を。
「…『あの人』の手かがりだから……」
「あの人?」
シンの問いかけにノアは照れくさそうに笑った。それはまるで子供のような笑みだった。子供のような純粋な笑み、だった。そして。


「――――剣聖カレル」


一瞬だけ。一瞬だけ、溶かされた。凍っていた心が、溶かされた。その笑顔とともに零れた名前に。その、名前に。
「…ずっと捜しているんだ…顔すらロクに分からないけれど俺は……」
全てが閉ざされ凍っている心の中に、ただひとつそれはまるでかさぶたのように。いやそんな生易しいものじゃない。それはもっと鋭い刃物のように心の奥を抉っているもの。一番深い場所に、鋭い棘のように自分の中に刺さっているもの。
「顔さえ知らない男をどうして捜している?」
初めて目の前の男の顔をきちんと見た気がした。こうして正面を切って、目の前の男を。その先にあるものを知りたいと思った。そうだ、知りたいと思った。その名前の相手を願う理由を。
「俺にとって命の恩人なんだ…って向こうは覚えていないだろうけれど」
「―――恩人?」
「ああ、赤ん坊だった俺を助けてくれたんだ」
まるで少年のような瞳をしながらノアは語る。自分が知っている相手の自分が知らない話を。それはまるで他人の話のようだった。自分が知っている『カレル』とは別人の。けれどもそう感じながらも、それは間違えなく彼の事だと確信しているのも事実だった。
「俺がまだ赤ん坊だった頃山賊に村が襲われたんだ。その村を旅人が一人で救ってくれた…それが剣聖カレル…だから俺にとっては…大事な恩人なんだ」
「…そうか……」
それ以上の事をシンは尋ねなかった。尋ねたとしてもどうにもならないだろう。差し出された名前に蘇る記憶と、そこから染み出てきた痛みがじわりとシンの心を蝕むだけで。

『…失ってから大切なものに気付く事がないように……』

その言葉を真の意味で理解した今となっては、彼と同じ位置に立てたような気がした。けれどもその位置に立つという事を望まなかったのもまた彼自身だった。自分と同じものになって欲しくないと。結局未だに自分の『場所』は見つけられずにいる。いやそれすら諦めと言う名の無関心に阻まれ、思考する事を拒否していた。スー様を護ると言う大義名分で全てを埋めて、心の空洞を見ないようにしている。それが今の自分だった。空っぽの何もない自分自身だった。
「見つかるといいな」
その言葉は目の前の相手に言ったのか、自分自身に言ったのかシンには分からなかった。ただもしも彼が今の自分自身を見たらどう思うのだろうか?こんな空っぽの自分を見たらどう思うのだろうか?笑うだろうか、それとも…呆れるだろうか? 


――――それは強い光。眩しくて、そして。そして逸らされる事のない真っすぐな光。


戦いは日々激しさを増してゆく。その中で少しずつ見えてきたものがあった。この戦いがただ国同士の戦いだけではないと言う事を。それでも自分たちは前に進むしかなかった。戦うしかなかった。スー様とサカの為に戦い続ける。その気持ちに偽りは何一つない。ただ。ただ、その中に『個』としての自分は、何処にもなかった。
「―――シン殿、私が先に行きます。貴方はここでお待ちください」
「ああ、ミレディ」
頭上から聞こえてくる声にシンはこくりとひとつ頷いた。赤毛の竜騎士。憎きベルンの竜騎士がこうして同じ軍として戦っている。その事にシンは驚くほどに無関心だった。祖国を奪った憎き相手の筈なのに、こうして共に闘う事になっても何も感情が湧いてこなかったのだ。
「…エトルリアか……」
エトルリア王国アクレイア。華やかさと豪奢さを兼ね備えた最も文明的な都市。そんな都市が今こうして戦場の真っただ中にある。馬鹿なクーデター派が起こした戦いによって、こうして血に塗れている。それはひどく哀れなもののように思えた。
「―――行くぞ」
愛馬に一言告げると、先を行くミレディの合図とともにシンは馬を走らせる。そこかしこに広がるのは生臭い血の匂い。むせかえる程の血の匂い。ここが戦場である以上それは当然のことだった。けれども必要以上の紅い色は…溢れるほどの紅い色は……。


憎しみ以外の感情で、その紅い色をもし瞼に焼き付ける事が出来たならば。
その紅い色が違う意味を持って自分の中に存在したならば。そうしたならば。


―――― 一面の紅い色が視界を埋める。そしてそれ以上に強い光が一瞬。一瞬、俺の心を貫いた。


遠くで言い争っている声がする。一方は自分もよく知るミレディの声だった。もう一方の声は、知らない男の声だった。敵かと思い弓を引いたその瞬間。その瞬間、その紅い瞳が真っすぐに自分を捕えた。


「シン殿!弓を引いてっ!!彼は敵じゃないっ!!!」


ミレディの叫び声が何処か遠くで聴こえた。自分を見つめてくるその視線のあまりの強さと、そしてその鮮やかな紅い色のせいで。
「彼は…私の弟です…そして…今…今こうして私たちと一緒に戦ってくれるとそう……」
紅い色は嫌いだ。真っ赤な血の色。真っ赤な炎の色。それは大切なもの全てを奪っていった色。全てを奪い去っていった色彩。
「ツァイス彼はシン殿よ。私たちとともに戦っている仲間よ」
「―――姉さんの仲間……」
挑むように真っすぐに向けられた強い視線が、その言葉に安堵したように緩む。それはまるで子供のようで。
「ツァイスです。よろしく」
そして。そしてひどく幼い顔で微笑った。それはこの場所にあまりにも似つかわしくない、無邪気ともいえる笑顔だった。


…紅い色に似つかわしくない…真っすぐな笑顔、だった。