Red



何が正しくて何が間違っているのか、選択肢はその二つしかないとずっと思っていた。世の中には正しい事と間違った事しか存在しないのだと。だから前にある道の分岐点は、二つしかないのだと。そして自分が選ぶ道は一つしかないのだと、ずっと信じて疑う事すら知らなかった。

―――――ベルン王国の竜騎士として生きてゆく事。祖国の為に誇り高く生きてゆく事。

けれどもそんな自らの胸の誓いも、ささやかな誇りも一瞬にして消え去った。信じてきた国の上官に在らぬ罪を擦り付けられ、裏切り者の汚名を着せられた。そして今自分はそんな罪と汚名を自ら被るかのようにこの場所に居る。ベルンの竜騎士ではなく『ベルンの敵軍』として、ここに。
「ツァイスです、よろしく」
冷たい瞳だった。真っ直ぐに自分を射抜く瞳はまるで氷のように冷たい。それに耐え切れずに口許に笑みを浮かべたら、一瞬…ほんの一瞬だけ瞳が見開かれた。それは今しがた見せた冷たく氷のような瞳とは違う、ひどく。ひどく…
「―――ああ」
けれどもそれはすぐに先ほどの凍りついた視線へと変化する。冷たく全てを拒絶した深い闇の瞳。それが嫌でもう一度微笑ったら、何も言わずに踵を返されその場を去ってゆく。その後を追う事すら許されないほどの強い拒絶がその背中にはあって。
「…ツァイス…シン殿は…彼はサカ人よ…分かるでしょう?この意味が」
その理由を探る前に与えられた回答に、その事実を受け入れる事しか出来なかった。自分たちにとっては国の為の戦いであろうとも、相手にとっては祖国を滅ぼされた戦いでしかない。こちら側から見た正義でも、向こうから見ればただの侵略でしかない。
「…ああ、そうだな…俺らは…『カタキ』だ……」
祖国を捨て寝返った自分達は、こちら側の相手から見れば元敵だ。幾ら今この場所にいたとしてもその事実は消える事はない。そして何よりも未だ自分は何処かで迷っている。本当にこの選択肢が正しいのか?と。今まで信じてきた道を、兄と慕っていた相手の元を離れてまで、選ぶべき選択肢だったのか?と。
「それでも仲間よ。今は共に闘う仲間なのよ」
「―――姉さん……」
祖国よりも友よりも、恋人よりも…己の『私』よりも信じる正義を選んだ姉の瞳には迷いは何処にもなかった。自分よりももっと辛い筈なのに。それなのにその瞳は強く真っ直ぐだ。
「私達は正義の為に…世界の為に戦う仲間なのよ」
それを告げる相手は自分が今まで見てきたどんな姉よりも強く綺麗だった。心の底にある苦しみと切なさに折り合いをつけ、それでも真っ直ぐに前だけを見つめる瞳――――自分にはこの瞳が、出来るだろうか?
「そうだな、姉さん。そうだな…そう思ったから俺はここにいるのだから」
違う、出来るじゃない。しなければならないんだ。そうしなければ、ここに居る意味がない。裏切り者の汚名を被ろうとも、今まで築いてきた全てを捨てまでも、この場所に居る意味が。
「―――俺は…誇りある竜騎士だ…その気持ちを絶対に裏切りたくない」
答えは一つではなくて、たくさんの選択肢があるのだと。目の前に広がった道は無数にあるのだと、今気が付いた。馬鹿みたいに当たり前の事に、自分は今気が付いた。


一面の鮮やかな紅い色。一面に咲き誇る紅い血の華。その中にぽつりと自分が立っている。冷めた瞳で、まるで他人事のようにぼんやりと立っている。足元には無数の屍が転がっているのに、生臭い血の匂いが溢れかえっているのに。それなのに自分はただぼんやりとそこに立っているだけだった。
その紅い色だけが存在する世界で、死の匂いしかしない紅い色の中で、その瞳だけが生きていた。真っ直ぐに自分を見つめる強い瞳だけが―――
「シン、どうしたの?らしくない」
「―――え?」
頭上から降ってくる声にはっとしたように顔を上げれば、そこには馬の上に乗った自らの主君がいた。サカ人特有の漆黒の髪を風に靡かせ、凜とした表情を見せる自分が護るべき相手。自分がこうして今生きている理由である唯一の存在。
「私がそばに来ても気付かなかった」
「すみません、スー様。少し考え事をしていたもので」
そんな相手がこんなに近くにいたのに気付けなかった自分に驚きを隠せなかった。嫌、自分に『驚く』という感情がある事に、驚かされた。
「シンも考え事をするのね」
「その言葉はあんまりではありませんか?スー様」
「だってシンは考えないでしょう?自分の事は」
不思議な色彩を放つ瞳が真っ直ぐに自分を捉える。それはサカ人特有のものだった。常にこうしてどんな時でも全てを見透かすように真っ直ぐに瞳を捉えるのは。
「考えるのはいい事だわ。じっくり考えなさい」
ふわりと長い髪が靡いて微かな大地の香りを残し自らの主君はその場を去ってゆく。こんな時に同胞の全てを見ようとする瞳はひどく心地悪かった。そうひどく心地悪い。
「―――同じような瞳をするんだな……」
呟いた自分の言葉に苦笑すら浮かばなかった。真っ先に浮かんできた先ほどの紅い瞳の存在に、自虐的な笑みすら出てこない。ただその事実を口にする自分に驚くだけで。そう、自分は『驚いて』いる。先ほどから、ずっとその状態が続いている。それは全てあの紅い瞳のせいだ。真っ直ぐに自分を射抜いた紅い瞳。
「…憎むべき色だろう?アレは……」
剥き出しの真っ直ぐな瞳。透明とすら思える純粋な瞳。自らの祖国を血まみれにした、ベルンの竜騎士。自分が憎むべき存在。憎まなくてはならない相手。自分が生きてきた意味、自分が生かされてきた意味。それはスー様を護り、祖国を滅ぼしたベルンに対して復讐をする事。そしてサカの部族を復活させる事。その為にこの命がある。それが唯一の心の空洞を埋める理由だった。それなのに。
「――――憎むべき存在なのだろう?」
それなのに今、空洞は何処にもなかった。ただ紅い色が、一面の紅い色彩が全身を埋めてゆく。それは憎しみでも怒りでもない別のものだった。別の、感情だった。ミレディがこの軍に入った時ですら、まるで他人事のように思っていた癖に今はこんなにも。こんなにも、生身の感情が自分の中に在る。リアルな感情が今ここに、在った。


憎しみという感情すら何処か自分にとっては遠いものになっていた。頭では理解していても、その理解程に感情は呼び起こされなかった。自分の命の意味も存在する意味も理解していても、それでもその感情の真実の意味には辿り着けなかった。


戦いは日々過酷さを増し、思考する暇すら与えてはくれなかった。それが逆にシンの心を落ち着かせた。元々空っぽな自分が一番楽だった。スー様を護りサカの部族を復活させる、それさえあれば良かった。それ以外には必要なかった。それ以外の事を、考える隙間など必要なかった。それなのに。
「―――シンっ!!危ないっ!!!」
一面の紅い色が視界を埋める。その色は血の色なのか、それとも瞳の色なのか。それを考える暇もなく自分は弓を射抜き目の前の敵を倒していた。
「危ないのはどっちだ」
「…あ、…ありがとう……」
自らを護ろうとして飛び込んできたのはいいが、背後に弓兵が潜んでいたのに気付かない相手を一瞥するとひどく驚いたような表情で自分を見ている。戦いが一段落着いて戻ろうとした時に残兵に襲われた自分を助けようとして、逆に助けられては無理もないかもしれないが。けれどもその顔が何故かひどく自分の心を苛立たせた。
「悪いな、シン。援護するつもりが逆に助けられちまって」
「―――構わん。それよりも」
無邪気な笑顔。屈託のない瞳。それは嫌になるほど純粋で眩しいものだった。それは自分の知っている紅い色とは違うものだった。そう、自分は知らない…こんな紅い色彩を。
「俺の廻りをうろうろするな。目障りだ」
「―――なっ!!」
予想通りに驚愕に見開かれた瞳がそこにはあった。けれどもそれは直ぐに傷ついた瞳へとすり替えられる。そう、傷ついた瞳へと。それはまるで子供のような剥き出しの感情で。真っ直ぐな、感情で。
「待てよ、シンっ!!」
背後から呼ぶ声に振り返る事はしなかった。振り返りたくはなかった。湧き上がった苛立ちの感情とは別に心の底から突き上げてきた感情に。それは。それは今まで自分が知らないものだった。―――知りたくはない、ものだった。


生まれて初めて消えない存在になった相手は自分にとっては鏡のような存在だった。同じ瞳を持った相手だった。けれども。けれども、今は。今は……



知りたいと思った。あの時の瞳の意味を。俺は知りたいと思った。一瞬だけ見せた見開かれた瞳の意味を、俺は知りたいと思った。冷たく突き放した視線にすり替えられる前の、あの瞳の意味を。
「シンっ!!待てよっ!!!」
必死になって追いかけた。風のように流れる漆黒の髪を追いかけた。今追いつかなかったら、二度と捕まえられないような気がして俺は必死になってその姿を追いかけた。
「シンっ!!」
愛竜であるルブレーを休ませ、与えられた部屋に戻ってゆくシンを追いかけた。扉を閉められる瞬間に追い付いて、強引に室内に入っていた。
「不法侵入だ、ツァイス」
冷たく突き放すような視線を向けられても止められなかった。自分の感情を、止められなくて。
「あんたが話も聞かずに先に行っちまうからだろっ!」
「話す事は何もない」
「俺にはあるっ!!」
勢いに任せて言ってみたものの、実際に何を話せばいいのか分からなかった。分からないままここまで来てしまった。ただ勢いのまま、自分の心に突き動かされるまま。――――自分の心に?
「では聞いてやる。俺に何が言いたい?」
自分の心。自分の想い。自分の感情。それは。それは…
「…俺は……」
知りたいと思った。あの時見せた瞳の意味を。冷たい視線の奥に在るものを。全てを拒絶するその瞳の奥に在るものを。俺は知りたいと思った。
「…俺は…お前を…もっと…知りたい……」
「―――!」
お前が何を考えているのか、お前が何を思っているのか。お前がどんな風に生きてきたのか。お前がどんな風に生きてゆくのか。きつく閉ざされた先に在るものを俺は。俺は、知りたい。
「お前の事を…もっと知りたい…俺はお前と…仲良くなりたい……」
巧く言葉が出てこなかった。何といえば分からなかった。だから咄嗟に出てきた言葉はひどく子供じみたものだった。そんな俺の言葉にお前は笑った。声を上げて、笑った。


声を上げて笑った。腹の底から笑った。こんな風に笑う事なんてあるのかと自分自身が驚くほどに、声を上げて笑った。
「…な、何で笑うんだよっ!…俺は…俺は本気で…っ…」
耳まで真っ赤になりながら訴える姿はただのガキだった。けれども懸命だった。どうしようもないガキだけど真剣だった。伝える言葉は子供のようでも、それは真実の言葉だった。
「随分ガキみたいな事を言うんだな」
「う、うるさいっ!どーせ俺はガキだよっ!あんたみたくクールでもないし、スカしてもないし」
苛立ちも憎しみも驚きも全てが。全てが起因するものは、この目の前の相手で。そうだ全てが、目の前の相手が呼び起こしたものだ。
「―――スカしては余計だ…ガキが」
「ガキガキって言うなっ!俺はツァイスだっ!」
「そんな所がガキなんだ」
空洞を埋めるために見つけた意味よりも、自然と心が埋まってゆく。見つける行為すらせずとも埋まってゆく。その紅い色が、自分の中へと確かなものへと。
「本当にお前はどうしようもないガキだな」
ああ、何て。なんて簡単で単純なものなのだろう。あれほど自分の中には何も生まれないと思っていたのに。何も生み出す事なんて出来ないと思っていたのに。

――――こんなにも簡単に。簡単に、自分の中に芽生えてゆく……

知りたいと言った。俺の事を知りたいのだと。偶然だな、俺も。俺もお前を知りたいと思った。お前をもっと知りたいと。
「…でも、悪くない……」
とても簡単な事だったんだ。あれほどまでにどんなことにも関心が持てなかったのに、俺はこんなにも簡単にお前に対して。
「…シン?……」
そうだ、これが答えだ。こんなにも単純で簡単なモノが答えだったんだ。相手に対しての関心は、その意味は。
「――――っ!!」
驚きに見開かれた紅い瞳を瞼に焼き付けて、そのまま。そのまま噛みつくようにその唇にキスをした。

『もう私は、君に教えるものはなくなってしまったよ』

カレルの声が遠くから聴こえてくる。その言葉の意味を今俺は理解した。そうだ、俺はあんたの事が好きだった。鏡のような存在でも、別れしかない出逢いでも、それでも初めて関心を持った相手。それは確かに恋だったんだ。
「…なっ…!…」
「俺の事を知りたいんだろ?」
そして今俺は確かに目の前の相手に心を動かされている。剥き出しの瞳に。無邪気な紅い色彩に。憎むべき色の筈の紅にこんなにも焦がれている。
「…だからってこんな…っ…」
「嫌なら拒め―――今なら引き返してやる」
俺とは正反対の光を持つ相手に。俺よりも血塗られたものを背負っている筈なのに、何よりも強い光を持つ相手に。
「…拒め…ねーよ…拒めるくらいなら……」
「くらいなら?」
「…ここには来ない……」
恐る恐る腕が伸ばされる。その腕が背中に廻りそのまま。そのまま瞼が閉じられる。それを確認してもう一度口づけた。


――――それはとても簡単な答えだったんだ……


知りたかった、あの時の瞳の意味を。一瞬だけ驚きに見開かれた瞳の意味を。だって。だってその瞬間、俺は見たんだ。お前の感情を。剥き出しになった感情を。それは本当に一瞬の事だったけれど、確かに俺は見たんだ。


冷たく閉ざされたお前の『本当』を。
「…シ…ンっ…んっ……」
俺は見たかったんだ。どうしようもなく見たくて。
「…ふっ…んんっ…ん……」
見たくて、知りたくて、そして。

――――そして触れてみたかった。お前の本当の心に、触れたかった。


離れる唇が名残惜しくて、もう一度自分からキスをした。不思議だった。さっき突然された時は驚いてどうしていいのか分からなかったのに、今は。今は触れたくてたまらない。触れて欲しくてたまらない。お前に、触れていてほしい。
「…シン…好きだ…俺…お前が……」
背中に廻した腕に力を込めて、思いの丈を告げた。上手くは言えなかったけれど、でも伝わったよな。伝わったよな、俺の気持ち。
「―――ああ」
だから抱きしめてくれるんだよな。こうやって強く俺を、抱きしめてくれるんだよな。


目の前に在る紅い髪に顔を埋めながら俺は初めて知った。紅い色が何よりも綺麗だという事を。どんなものよりも綺麗だという事を。