――――憧れと恋の境界線は、何処に在るのだろうか?何処に存在するのだろうか?
幼い頃からずっと聴かされた話が、思い返せば今の『俺』という存在を作っていた。母親から何度も何度も聴かされた剣聖の話が。俺が赤ん坊の頃故郷の村が山賊に襲われ、たまたま村に宿泊していた旅人が山賊を皆倒し村を救ってくれたのだと。のちに剣聖と呼ばれしその者の存在が、俺という存在の人格形成には欠かせないものになっていた。
――――単純に憧れた。単純に尊敬した。自分もそうなりたくて、そんな風になりたくて剣を取った。
物心ついた時から自分は剣を取る道を選んでいた。剣聖のように剣を握り人々を助けるようになりたいと。それはただの子供特有の、純粋な夢でしかなかったけれど…本気だった。子供だからこそ、何も知らなかったからこそ、本気でそう思っていた。
そして大人になって自分の力の限界を知り、決して自分は『剣聖』にはなれないものだと理解しても、それでも。それでも幼い頃から抱えてきた夢を捨て切れるほど、割り切れた大人にはなれなかった。諦める事も出来ずにかと言って極める事も出来ずに、こうして剣を握り続けている。こんな自分でも何時しか誰かの奴に立てればと思いながら剣を振り続けていた。
もしもこんな自分でも誰かの為に生きる事が出来るのならば、貴方の為に生きたいと願った。貴方の為に生きてゆきたいと。
国王ゼフィールを倒しベルン国は降伏し、表向きは長きに渡る戦いに終止符が打たれた。けれどもまだ終わりではなかった。真実の戦いはこれからが本番だった。これからが、竜と人との戦いこそが全ての終着点だった。
「ベルンにこんな土地があったとは知らなかった」
「ここはベルンに暮らす者でも知らぬ者がほとんどの忘れ去られた村です。だからこそ、ここを戦場に選んだのでしょう」
ノアの呟きにミレディが答えた。その声に淀みはなくただ事実だけを伝える冷静な口調だった。その姿に感心しながらも、この赤毛の竜騎士の胸の内を思った。例えロイ軍に寝返ったとしても、元はベルンの軍人だ。そして何よりもこの戦いで恋人を失っている。愛する者と敵として戦い、そして亡くしている。それが戦争だと言えばそれまでだったが、愛する者と対峙してまでも護りぬこうとした忠義や自らの正義を思うと…自分がそこまで出来るものだろうかとノアは考えずにはいられなかった。
確かに自分は誰かを護りたくて剣を取った。そこには当然祖国のイリアの民も含まれている。けれどもノアにとって護りたい者は国よりも己の正義よりも、もっと身近なそばにいる人間だった。身近にある大切な存在だった。
「んー静かでいい所だなあ。ここで戦うのは何だか申し訳ないね」
「―――トレック殿……」
真面目な思考は相方のトレックの言葉で一気に消失した。本当にどんな時でもこの相棒はマイペースで呑気だった。それがある意味最大の長所でもあるのだが。
「なあ、そうは思わないか?ノア。それにあんたもこんな穏やかな場所をうるさくするのはいやだろう?」
「…これも戦争ですから…けれども優しいのですね、トレック殿は」
「いや、俺は思った事を言っただけだか…優しいってあんた変わってるなあ」
変わっているのは自分だろうとノアは心の中で突っ込みそうになったが止めた。何故なら先ほどから表情を崩さず冷静を保っていたミレディの表情が微かに和らいだからだ。それは今まで見てきた赤毛の竜騎士のイメージとは正反対の優しい笑みだった。
(…これはこれで…いいのかもしれないな……)
常に張り詰めていたミレディの心が少しでも解かれるのならば、呑気なトレックの発言もいいものかもしれないと思った。本人が何も考えていないとしても、それでも彼女にとってそれが少しでも未来へと進むものであれば。
「ふふ、変わっているかもしれませんね」
柔らかいミレディの笑みはひどく綺麗だった。まさか色恋沙汰でこの相棒に先を越されそうになりそうな事に驚きながらも、それでもこの殺伐とした戦いの中で少しでも前に向かっているものがある事に心が和らいだ。
「じゃあ俺、用があるから先に行っているな」
そんな二人の間を邪魔するのも野暮だと思いトレックに一声掛けてノアはその場を去った。まだ戦いは終わらない。それでも時間は進んでいる。未来は始まっている。こんなささやかな場所からでも、始まっていた。
――――憧れよりも恋よりも、先に動いた感情が在った。その感情の名前を捜しだす前に俺は貴方に焦がれた。どうしようもない程に、焦がれた。
軍の天幕へと戻る途中もう一人の赤毛の竜騎士とノアは対面した。常に冷静で落ち着きを見せる姉とは正反対のひどく人懐っこい笑みを浮かべる相手と。
「なあ、ノア。シン見なかったか?」
近付いてきて気軽に声を掛けてくる。無邪気とも思える笑顔は、本当に姉とは対照的だった。感情を隠す姉と剥き出しにする弟。同じベルンの元兵士としてもこうも違うものなのかとノアは思った。いや、それは本人達の性格の違いなのだろう。
「シン?見なかったけれど」
「そうか、あいつ何処行ったんだろう?」
言葉にしてみてふと思った。シンはサカの部族でツァイスはベルンの竜騎士。今は同じ軍にいるが、シンにとってツァイスはある意味祖国の敵でもある存在だった。けれども自分の気のせいでなければ、この二人はともにいる事が多い。戦場でも、それ以外でも。と言ってもツァイスの方が一方的に懐いているように見えるが。
「―――ツァイスは、シンとよく一緒にいるな」
「ああ、俺シンの事好きだから」
何気に言った言葉に相手は臆面もなく答えた。こちらが面食らう程に。ツァイスにとって自分の立場などどうでもいいのだろうか?それとも本当に好意があるだけなのだろうか?
「あ、もしかして俺が元ベルンの竜騎士であいつがサカの民って事を気にしているのか?そうだよな、普通は気にするよな。でも俺達共に闘う仲間だし、それに」
「それに?」
「さっきも言っただろう?俺はシンが好きだから」
その『好き』の意味は一体どこまで含まれているのだ?と問いかけそうになった時に、噂の相手がツァイスの背後に立っていた。その気配を全く感じさせない様は流石と言ったところだった。
「何を馬鹿な事を言っている」
「あ、シンっ!良かった。捜していたんだ」
まるで尻尾を勢いよく振っている犬のようだと思いながらも対照的な二人を眺めていた。シンとはあの時以来ロクに会話らしい会話をしていなかった。あの時―――剣聖カレルの話をした時以来。
「こいつが迷惑をかけたな」
「…いや、別に迷惑という事はなかったが……」
こうして改めて対峙をしてみて気が付いた。相手の纏う空気が微妙に違う事に。あの時は全てのものを拒絶しているようだった。全てのものに興味がなく、ただそこにいるだけの存在。そんな彼が唯一『人間』らしい表情を見せたのはカレルの名前を出した時だけ。あの瞬間だけだった。だからこそ、もっと。もっと彼とは話をしたいと思っていたのに。
なのに以前の彼の前には見えない強固な壁があった。彼の主従するスーですらも入り込ませないようなそんな壁が。けれども今、その壁が見えない。見えなかった。
「行くぞ、ツァイス」
「あ、待ってよっシンっ!!」
去ってゆく二人の姿を視線だけで追いかけながらノアは思った。この二人の間にだけは『壁』はないのだと。本来ならば敵同士である筈の二人がこうして運命の悪戯のせいで同じ軍にいる。それだけでも奇妙な事なのに、それなのに。
「…何だか俺だけが取り残されているみたいだ……」
それなのに二人の間には他人が入り込めない程の何かが存在していた。それを探るほど自分は無粋ではなかったが、それでも確かにふたりの間にだけはなかった。それはひどく羨ましいもののようにノアには思えた。
貴方に焦がれた。貴方を想った。貴方だけを、想った。それを憧れと呼ぶのか。これを恋と呼ぶのか。それを愛と呼ぶのか?
漆黒の髪が風に靡く。綺麗だと思った。ただそれだけを思った。
そこにある穏やかな笑みも、全てを見透かす深い瞳も、何もかもが。
ただ綺麗で。どうしようもなく綺麗で。俺は。
――――俺は触れたいと思った。許されなくても、貴方に触れたいと…願った……
本当は全てを知っていた。それでも知らないふりをした。それだけが今私に出来る唯一の事だろう。もう全てが終わった事で、全てが過ぎ去った事だ。だから知らないふりをした。
「その声はフィルか…!どうしてこんなところに?」
似ていると思った。自分を真っ直ぐに見上げてくる瞳が。嫌になるほどに純粋に見つめてくる瞳が。逸らされる事なく真っ直ぐに、私を見つめるその瞳が。
「伯父上こそ、なぜこの地に…」
「各地を旅した後この地に落ち着いたのだよ。ここならば世間の争いに巻きこまれず剣の道をきわめられると思ったのだが…」
けれどもそれだけだ。微かに漂う懐かしさともどかしさが一瞬湧きあがって、そして消えた。静かに消えていった。
「伯父上にお伝えせねばならないことが…は、母上が…」
知っていた。それが私の永遠の贖罪と後悔なのだから。けれども知らないふりをしよう。それを告げたからといってどうなる訳ではないのだから。
「…死んだのか?」
それは私の胸の中にだけあればいい。私の消せない罪として胸の奥に在ればいい。それで、いい。
――――憧れも恋も愛すらも、もう。もう何もかもが……
漆黒の髪が揺れる。風にふわりと、揺れる。それは綺麗で。どうしようもなく綺麗で、そして。
「―――君は誰だい?フィルの仲間か?」
そして自分を静かに見つめてくる瞳は何処までも穏やかで、けれども見えなくて。何一つ感情の欠片すら、見えなくて。ただ鏡のように呆然と立ち尽くす俺を映しだすだけで。
「ノ、ノア殿っ!!この方は私の伯父上で…」
「カレルと言う、よろしく―――ノアと言ったね」
差し出されるその手は節くれだって、指には細かい傷が沢山あった。それは剣を握る手、だった。剣を扱う手だった。
「…よ…よろしく…ノアと言います」
差し出された手を握り返し、普段通りに笑みを浮かべたつもりだった。けれどもそれは何処か不自然でぎこちないものだった。けれども目の前の相手は微笑った。それは全てを達観した大人の笑みだった。
「伯父上、ロイ様の所に行きましょう。私が案内します。さあ」
「ああ、それでは失礼するよ」
重なった手が、離れる。重なった視線が、離れる。それでも消えなかった。消すことが出来なかった。鮮やか過ぎる残像が、この瞼の裏に。触れ合った熱が、この指先に。それは決して消える事がなくて。消すことが出来なくて。
ずっと憧れていた人。見た事もないのに勝手に想像して憧れていた人。ずっと目標にして、ずっと追いかけていた人。
「…あのひとが…剣聖…カレル……」
穏やか過ぎる笑みと、全てを見透かした瞳を持つ人。そこには壁すらなかった。彼の前には何もなくて全てを受け入れるように開かれていながらも、決して踏み込む事が許されないようで。そう踏み込んだら最期、何もかもを失うようなそんな空気を漂わせていて。
「…あの…ひとが……」
けれども綺麗だった。怖い程に綺麗だと思った。ただ綺麗だとそれだけを思った。綺麗、だと。
「…カレ…ル……」
その瞬間に、何もかもが消えた。何もかもがなくなった。ずっと憧れていた事も、ずっと目標にしてきた事も、全部。全部、消えた。消えてなにもかもなくなって、そして焦がれた。どうしようもなく、焦がれた。その存在を。その瞳を、その髪を、その全てを。
――――ただどうしようもなく、焦がれた。貴方に焦がれた……
それを憧れと呼ぶのか。それを恋と呼ぶのか。それを愛と呼ぶのか。それを欲望と呼ぶのか。分からなかった。分からなかったけれども、焦がれた。どうしようもなく焦がれた。そして願った。触れてみたいと、身体に心に、全てに触れてみたいと。戻れなくても踏み込んで、ばらばらになっても、そばにいきたいと。貴方のいる場所まで辿り着きたいと、それだけを願った。
動けなかったのか、動かなかったのか?どちらだろうか。
「――――視線を逸らさなかったな……」
それともそのどちらでもなかったのだろうか?
「どうしたのですか?伯父上」
けれども差し出した腕を握り返すその手はひどく熱く。
「いや、何でもないよ。それよりも行こう」
その熱は私が遠い場所に置いてきたものに何処か似ている。
「はい、伯父上」
―――そう私がずっと昔に置いてきたものに。
…ずっと昔だ。忘れるほどの遠い昔に、置いてきてそして。そして忘れていたものだ……
それは憧れよりも恋よりも、もっと。もっと先に在るものだった。もっと激しく、もっとどうしようもない程苦しくて、そして。そしてどうにもならないほど切なくて。
…それでも欲しいものだった…どんなになっても…願ったものだった……