叶わない想いでも、届かない想いでも、それでも。それでも、それを捨て去る事は出来なかった。自らが生み出した感情だからこそ、己の一部として心の奥底に飼い続けるしかなかった。
――――その髪に触れたい。その指に触れたい。その唇に触れたい。その心に触れたい……
夜に溶け込む漆黒の髪と瞳。そして散らばる紅い血と同じ色をした唇。その唇が静かに開かれる。その動きにただ目を奪われた。
「盗み聞きとは感心しないよ」
そこから零れ落ちる声は何処までも穏やかで、この場面に似つかわしくない程静かに耳の奥に届いた。まるで浸食するかのように、自分の中に届いた。
「…す、すみません…争う声が聴こえてきたもので…つい……」
「それはすまないね、戦いはもう終わってしまったよ」
地面に広がる屍の数を数える事すら無駄な気がした。何人もの兵士が束に掛かろうとも、目の前の相手にとっては同じなのだろう。どれだけの相手が来ようとも、その剣の前では。
「まあ…こんなに月の綺麗な夜に仕掛けてくるなんて、随分無粋だと思うがね」
頭上に浮かぶ月だけがその剣の舞を独りいじめしたとでも言うように綺麗な光を灯している。ただ静かに照らしている。
「―――カレルさん……」
綺麗だと、思った。ただ綺麗だと。だから目が離せなかった。だから瞳が盗まれた。怖い程に綺麗なこのひとから、俺は目を離す事が出来ない。
「何だい?」
「貴方とシンは…どういう関係なのですか?」
「それは君の好奇心から出た言葉か?」
見つめる瞳はさざなみすら起こす事のない、穏やかで深い海。決して底を見る事の出来ない深い、深い、海。どんなに覗き込もうとも、映し出すのは自分の間抜けな顔だけで。
「好奇心かもしれません。他に妥当な言葉が見つかりません。今俺にとって貴方は何よりも知りたいと思う相手なのです」
「私の何が知りたいのだ?」
一歩、相手が近づいてきた。その動作ですら目を奪われる。まるでしなやかな獣のようで、どうやっても目が離せない。離す事が出来ない。
「全部ですと言ったら貴方は呆れますか?」
近付いてくる距離が髪から香る微かな汗の匂いを連れてくる。それはひどく魅惑的で眩暈すら覚えそうで。陶器のような白い肌も、目尻に刻まれた皺すらも、全てが。その全てが自分を誘う。
「それは口説いているのかい?」
首筋に絡みつく二の腕が、まるで生き物のようだった。ぬるりとした白い生き物のようだった。それは抗う事すら許されない淫らな誘惑。
「…そうかもしれません…でも…でも今は……」
このままその身体を抱きしめて淫らな行為に溺れたい。何処までも堕ちてゆきたい。その身体を抱いて、その身体を開いて、その身体を貫いて。けれども。
「―――今は?」
「…俺から貴方に触れる事は…出来ません…だって俺はまだ貴方を知らない……」
けれどもそれでは駄目だ。きっと駄目だ。目の前の刹那の欲望に溺れたら、きっと。きっとこの人を知る事は出来ない。その瞳の奥底を見つける事は出来ない。きっと、出来ない。
「君は中々面白い事を言うね―――ならば私が君に触れよう」
「…カレルさ…ん……」
唇が微かに笑みの形を作り、そのままそっと触れてきた。一瞬重なって、そして離れる唇。触れただけなのにその口づけは血の味がした。
「昔は人を切るたびに身体が火照って止まらなくなったものだが、流石にこの年になって落ち着いたつもりだったのだが…昔の知り合いにあって少しだけあの頃に戻ってしまったみたいだ、すまないね」
「…シンの事ですか?…」
「―――ああ。昔色々と旅をしていたからね、その時に出逢った事があるのだよ」
耳に届く声の心地よさは、全てを越えてきた静けさから来るものなのだろうか?何もかもを越えてきた者だけが持つ静寂なのだろうか?
「前に俺に話してくれましたね。この土地を知らないと言った俺に、剣の道を求めて旅をしていたと」
初めて出逢ったあの時からずっと確かめたかったこと。この人の口から聴きたかったこと。この目の前の相手が――――剣聖だという事実を。
「ああ、そんな事も言ったね」
「…そして…イリアにも来たことがあると」
「―――色々な土地を巡っていたからね」
他の誰かからの伝承でもなく、噂でもなく、事実を聴きたい。その口から、聴きたい。貴方が俺にとってずっと憧れていた剣聖そのひとで、俺にとっての目標で在るひとである事を確かめたい。描くだけの存在だったひとが本当に今俺の目の前にいるという事実を確認したい。その口から、聴きたい。
「『剣聖』…そう呼ばれる伝説の人物をご存知ですか?」
「…さあ」
「俺はよく母からその名を聞きました。俺がまだ赤んぼうだったころ…俺の故郷の村を山賊が襲ったことがあるんです」
「……」
「その時村の宿にいたのはサカの旅人が一人。彼は一言も口をきかずに村の門へ出かけ…またたく間に賊を一人残らず斬って捨てた。そしてそのまま風のように去っていったと」
「……」
「その人が村を救ってくれなかったら、今俺はここにいなかったはずです。だから俺にとって剣聖の名はずっと」
―――――小さな命が。本当に一握りで潰されてしまうその命が、懸命に生きたいと泣いていたから。
遠い記憶が呼び戻される。その記憶が呼び戻されるのは二度目だった。一度目はまだ『子供』だったシンと肌を重ねた時、その腕に抱かれた時。自分と同じ鏡のような瞳に光が灯ればいいと願った瞬間、ふと呼び戻された記憶。
「…それは違うな」
子供だった相手は私とは違う瞳を身につけ遠い場所へと行った。それはあの時私が願った場所だった。私とは違う所へ旅立っていった。
「…え?違う…?どういうことですか?」
けれども私はそこから抜け出せずに立ち止まった。逃れられないと悟った時から、全てを諦め自らここにいる事を決めた。ここに立ち続ける事を。けれども。
「……」
けれども、そんな私を呼ぶ声がする。――――呼び戻す声が、する。
泣き叫ぶ赤子の声。生きたいと訴える、命の叫び。懸命に生きたいと、泣いている。
何故あの時そんな事をふと思い出したのか、今になっても分からないけれども。それでもまたこうして。こうして、その記憶を呼び戻す相手が現れたというのならば、それは。それは意味のある事なのだろう。意味ある事なのだ。どんな出逢いでも意味のないものはないのだと。
「―――君の瞳は私を惑わせる……」
全てを受け入れ、そして諦める事で辿り着いた場所だった。全ての感情は自分自身のものなのだと、自分自身の一部なのだと受け入れる事で理解した場所だった。そしてそこに辿り着く事が己にとっての相応しい場所なのだと悟った筈なのに。なのに、今。
「…カレルさん……」
なのに今になってその瞳は私を別の場所へと連れ出そうとしている。血に塗れ罪に塗れ、何もないという事実だけを理解した私に。
「そんな瞳を持つ人間を、私は知らない」
血塗れのこの腕を引き上げ、何も知らない若さゆえの無謀さで引きずり出そうとしている。それは愚かな事で、無駄な事だ。けれども、何処か。
「ならば知ってください。俺を知ってください」
何処か羨ましいものだった。否、羨ましいという感情など私は持ち合わせてはいなかった。それなのに今。今確かに私は思った。その剥き出しの瞳が羨ましいと。
「―――俺は、貴方を知りたい……」
この手を取りこの場所から引き剥がされたとしたら私は何処に辿り着くのだろうか?そんな事を考えたらひどく滑稽な気持ちになった。今更こんなになってまで私は。私は、望むものがあるとでもいうのだろうか?
―――――それでも望むものが、あるというのだろうか?
漆黒の髪が風に靡く。そこから微かに薫る香りは、あの夜に触れた薫りと何処か似ていた。それはサカ人が持つ特有の香りだったのだろうか?
「何か俺に用か?」
必要以上の会話をしない男だった。最も戦場以外でこの男と会話をする事はほとんどなかったが。まともな会話はそう…カレルの事を聴いてきた時だけ。
「こんな事を聴くのは卑怯かもしれないけれど、聴かせてくれ。君とカレルさんは…」
「昔の男だ―――これで満足か?」
自分が尋ねた問いに迷うことなくシンは答える。その瞳には感情の欠片もなくただ事実をノアに伝えるだけだった。
「…はっきり言うな…驚いたよ」
「隠してもお前には意味がない」
「どうして?」
驚いた表情を戻せないノアを、シンは何時もと変わらない無表情のままで一瞥した。その瞳は何処かあの瞳に似ていると思った。底の見えない深いカレルの漆黒の瞳に。
「理由はお前が一番分かっているだろう?」
鏡のような瞳。心を読み取ろうとしても、向き合った自分を映しだしてしまう瞳。狼狽している自分の姿をただ映し出す漆黒の瞳。
「…俺が見ていたのを…気付いていたのか?」
あの夜、二人を見ていた。カレルの方から近付いて口づけて、そして。そして交わした会話を――――シンにとっての初恋の相手だと告げた事を。
「サカの民にとって人の気配など手に取るように分かる。それに」
「…それに?……」
「お前にとっても『初恋』なんだろう?」
「――――!」
自分を捉えるシンの瞳は、何処までも己の姿を映し出すだけの鏡だった。そう、その言葉に動揺しながらも否定できない自分の姿を。
「あいつは全てを受け入れながら、全てを拒絶している。あるがままの全ての存在を認識しながらも、決して自分はその中にはいない。どんなに近付いても、決して近づけない」
「…よく分かっているんだな…カレルさんの事を……」
「あいつは昔の俺だからな。―――いや、俺もあそこまでは辿り着けなかった。結局何処かで足掻いていたからな」
足掻いていた先の答えが、あの紅い竜騎士なのか。真っ直ぐな瞳を持つ、彼こそがシンを『ここ』に辿り着かせたのか。
「…なぜそこまで俺に答えてくれる?……」
ふたりの間に壁はない。鏡のような瞳も存在しない。そこにあるのはただ。ただ剥き出しの瞳だけだ。互いを求める瞳だけだ。誰にも入り込めないふたりだけの。
「―――俺は見つけられたから…だからあいつにも見つけて欲しいと思っただけだ」
「…シン……」
「ただそれだけだ。もう俺に用がないなら失礼する―――じゃあ」
振り返る事なく去ってゆく相手の後ろ姿を見つめながら、ノアは反射的にその言葉を思い出した。あの夜カレルが呟いた言葉を。誰にも聴かれないように、けれども自分に聴かせるように告げた言葉を。
『――――初恋は実らないものだよ…それは私が一番身を持って知っているからね……』
実らないものなのだろうか?けれども自分は出逢う事が出来た。ただ空想の中で思い描くだけの相手に、こうして出逢った。出逢ったら迷うことなく瞳は奪われた。思考よりも先に視線がそこに向かっていた。それは憧れとは違う、恋とも違う。けれども憧憬で恋情だった。あの時自分の中に芽生えた感情は。触れたいと思った。その髪にその指先にその頬に。けれどもまた分かっていた―――触れてはいけないひとだという事も。
「…それでも俺は…貴方のそばにいきたい……」
全てを知りたい。全てを知る事が出来なくても、それでも。永遠に叶わないのならば、永遠に追い続けたい。追いかけたい。追いかけて、そして。そして向き合いたい。
「――――貴方のそばに……」
相手を映しだすだけの鏡のような瞳の奥にあるものを知りたい。それがどんなに危険であやういものだとしても、もう戻る事が出来なくなっても、それでも知りたい。それでもそばにいきたい。そばに、いきたい。
迷うことなく自分を見つけて、子供のような瞳で抱きついてくる相手。どんな壁があろうとも構わず突き破って自分のそばに来る相手。
「お前は本当に…呆れるくらい俺の事を好きだな」
けれども俺には必要なものだった。ずっと必要ないと思っていたものが、本当は一番欲しかったものなんだ。
「うん、好き。大好きシン」
躊躇いも戸惑いも何もなくて、ただ真っ直ぐに。真っ直ぐに向けられる言葉と想い。そこには上辺も繕いも偽装も何もない。本当にただ想いがあるだけで。
「そうか、偶然だな」
だから俺はここに辿り着いた。お前のそばに辿り着いた。自分の中には何処にもないと思っていた『感情』がここに、ある。
「俺もお前が好きだ、ツァイス」
冷たく凍りついた俺自身を溶かしたのは、紅い色。嫌悪と憎悪しかなかった紅い色。その熱さだけが、俺を溶かした。
「…へへ、俺達両想いだな……」
「喜びすぎだ、馬鹿」
だから告げよう。少しずつでいいから告げよう。あいつが教えてくれたように。伝えられる時に告げよう。こうして生まれた俺の心を無駄にしないように。生まれた想いを、自分自身のものとして、きちんと受け入れてゆく為に。
「馬鹿でもいい。俺馬鹿みたいにお前、好きだから」
そして生きてゆくために。生きる、ために。ひととして、生きてゆく為に。
――――自分という存在が生み出した感情、その全てはどんなものでも意味のあるものだと。意味のないものなどこの世には存在しないのだという事を。
それはあんたが教えてくれた事。本当はあんた自身が一番知っている事。だから、きっと。きっと、あんたも辿り着ける。この場所まで―――――『生』在る場所まで。