Last Love



彷徨い続けて最期に辿り着いた場所は、あまりにも平凡であまりにもありきたりな場所だった。けれども必要だった。そうだ…本当に必要なものは、こんなありふれたものだったのだ。


――――重ね合わせた額から伝わるぬくもりが、何よりも愛しいものになる。何よりもかけがえのないものになる。


封印の剣が魔竜を貫き、人と竜との戦いが終わった。真実の意味での『戦争』が終わった。けれどもそれで全てが終わりではない、これからが始まりだ。日常という新たな舞台で、生きてゆく事。新たな日常を築きあげる事、それは与えられた戦いよりもずっと。ずっと難しく遣り甲斐のある日々だった。
「あー、あんたは国に帰るんだ。大変だけどきっとあんたならば大丈夫だと思うよ」
ひとつの目的の為に集まった仲間がそれぞれの場所へと戻ってゆく。新たに始まる日常に組み込まれてゆく為に。以前とは全く違う日常はこうして皆で掴み取ったものだった。それは決して優しいものではないのかもしれない。それでも必要なものだった。大切なものだった。
「―――トレック殿が言うのならば…きっと大丈夫だと思います」
出逢いに意味のないものなどなくて、別れに意味のないものなどない。大切なものを失う痛み知り、また新たに芽生えた優しさに癒されてゆく。そうやってひとは生きてゆく。たくさんの出会いと別れを繰り返し、日常を積み上げて前へと進んでゆく。
「俺が言わなくても大丈夫だと思うけれど…あんたがそう言うならば、そうなんだろうなぁ」
「ふふ、トレック殿ったら」
「―――ああ、その顔だ」
「え?」
「あんたはその顔が一番綺麗だ。そうやって笑う顔が」
生きていれさえいれば、きっと。きっと何時かは優しい時間はやってくる。どんなに苦しくても哀しくても、きっと暖かい未来はやってくる。
「…では笑います…トレック殿がそう言ってくれるなら…貴方の為に私は微笑って生きてゆきます」
「うん、それがいい。あんたは…それがいい」
そっと手を伸ばした。その動作はまだ何処か不器用だったけれど、それでも手を伸ばしてその髪に触れる。紅い髪に。
「…トレック殿…いつか……」
不器用な手のひらが泣きたくなるほどに、暖かくて優しいから。だから目の前の相手を真っ直ぐに見る事が出来た。この世界を俯く事なく真っ直ぐに見る事が出来る。失った痛みを消す事は出来なくても、それでも痛みとともに生きてゆけると思えたから。
「…いつか…私をイリアに…連れて行ってくれますか?」
「ああ、行こう。あんたにイリアの白い花を見せてやりたいなあ。あんたの笑顔には負けるけど、とっても綺麗なんだ」
「―――はい…トレック殿」
今の自分という存在を作ってきたものが過去ならば、その全てを受け入れよう。そしてそれを心に抱えながら未来を生きて行こう。未来を…生きよう。


「―――随分と情けない顔しているな」
「わっ、シンっ!何時からここにっ?!」
二人のやり取りを少しだけ離れて見ていた相手に背後から声をかければ、全力で反応を寄こしてきた。それがあまりにもオーバーで面白かったのでしばらくその表情を眺めていた。
「姉離れがまだ出来ないのか?ガキだな」
「う、うるさいっ!そんなんじゃないよ」
「じゃあ何なんだ?」
「…いや…その良かったなあって…」
少しだけバツが悪そうに、けれども正直にツァイスは今の想いを告げた。その言葉にシンはあの時の事を思い出す。ツァイスが兄のように慕い、ミレディにとっての恋人であるゲイルという名の竜騎士―――その相手が戦いによって死んだ事を。
「―――そうか……」
戦っている以上常に死とは背中合わせだ。誰が死んでもおかしくはない。けれども本来いるべき場所から自らの選択で別の場所を選び、なおかつ大切な存在と敵対し戦い合う。その痛みは容易く口にして慰められるものではない。そう、簡単に口に出来るものではない。
「でも姉さんの好み変わったかも…俺は変わらないけど」
けれども伝わるだろう。口にせずとも、伝わるのだろう。伸ばされた手のひらがそれを伝えているから。


両腕が背中に廻って、そのままきつく抱きついた。
「俺の好みはずっとお前」
こうすると伝わる。お前の優しさが肌を通して、皮膚を通して。
「面食いだな」
全部、伝わってくる。伝わってくるから。
「自分で言うか、普通」
お前の全部を分かるような気がした。お前の全てが。
「事実だろう?」
それはきっと。きっと、俺の気のせいじゃないのだろう。


預けてくる身体を抱きとめながら、シンは紅い髪に顔を埋めた。太陽の匂いのする髪に。暖かい光の匂いがする髪に。そこには生臭い血の紅じゃない、何よりも愛しい紅があるから。
「俺がベルンの竜騎士になって、シンがサカ部族の長になれば…サカとベルンはもう争い合う事も憎み合う事もなくなるよな」
未来というものを描く事が出来るようになった。生きるという意味を知る事が出来た。生きていくという重さと喜びを理解出来るようになった。自らに芽生えた感情がそれを教えてくれた。
「希望的観測だ。だが悪くない」
自分以外の相手と真っ直ぐに向き合う事で、自分自身を見る事が出来た。他人を知りたいと思う事で、自分自身を知りたいと初めて思った。自らの内側から芽生えた感情と向き合う事で、相手を愛するという事を知った。
「お前がベルンの竜騎士にもう一度なるのならば…俺はサカを蘇らせよう。そして」
失いたくないもの。失ってはいけないもの。護りたいもの。護り通したい想い。その全てが、今この目の前に在る。ここに、在る。
「そして、共に生きよう」
「―――ああ、シン。一緒に生きよう」
別れはさよならではない。これから目指す未来の為に、元の場所へと戻ろう。けれどもそれは以前とは確かに違うものだから。違うもの、だから。
「…一緒に…生きて行こう…その為なら俺何だって出来るから……」
もう一度同じ場所に立っても見える景色は違う。それは心の中にこの想いが存在する証。この想いがあるから、怖いものなんて何もない。―――何も、ないんだ。


――――未来が在るから。未来が存在するから、別れはさよならじゃない。またね、なんだ。




室内に微かな甘い香りがした。それが紅茶の匂いだと気付くのには時間はかからなかった。カップ片手に部屋の奥から出てきた相手を、ノアは真っ直ぐに見つめた。
「―――君はイリアへは戻らないのかい?」
穏やかな笑みを浮かべながら告げる相手の全てを知る事はきっと自分には出来ないだろう。それでもいい。それでもいいから、自分は……
「戻りません。俺は傭兵になって世界中を巡ろうかと思います。貴方のように」
「そうか」
カップから立つ湯気が目の前の人を少しだけ遠くに見せた。それがふたりの間に在る永遠の距離なのだろう。その距離を縮めたくて一歩踏み出し、目の前に立った。
「そうすれば少しは貴方を少しでも理解出来るような気がするので。貴方の居場所に辿り着けるような気がするので」
変わる事ない表情、全てを越えた穏やかな笑みと静寂だけが存在する人。けれどもその瞳の奥底にはきっと。きっと、まだ何処かに存在する筈だから。静寂の中の炎が。
「君は私の全てを知りたいと言ったね。知ってどうするつもりだい?」
「それは俺にも…分かりません…けれどもひとつだけ分かっている事があります」
「それは何だというのだい?」
「―――それは……」


「…俺は…貴方が好きです…俺の初恋は貴方だ……」


ずっと憧れていた人。ずっと尊敬していた人。ずっと目標にしていた人。出逢ってからもその想いは変わらなかった。変わらずに続いている。そしてそれ以上に。それ以上に気付いた想いがあった。湧き上がった欲望があった。突き上げられた望みがあった。
「―――シンと同じ事を言う。けれども彼は私の元を去った。そうやって大人になっていったよ。私とは違う場所へと、違う相手の手を取って。そして君は私とは全く違う存在だ…私とは正反対の場所にいる」
「違っていたらいけませんか?違うから…惹かれるんです。全く違うから知りたいと思うんです。貴方をもっと知りたい。貴方のそばにいきたい。貴方と…同じ位置に立ちたい……」
それは望み。それは願い。それは欲望。それは想い。その全ての別の言葉が同じ気持ちになって、ただひとりの相手に向けられる。ただひとりに。
「君の瞳は怖い程に真っ直ぐだ…その真っ直ぐさが…私を惑わせる…」
「―――惑わされてください…どんな感情でもいい…俺に向けてくれるものならば、どんなものだって俺は受け入れます」
最初の恋が最期の恋であっても構わない。他に知りたいと思うものはない。他にこんなにも知りたいと願うものが。最初の恋が最期の恋ならば、迷う道すらないのだから。
「俺はどんな貴方も…知りたい…どんな貴方も欲しい……」
初めての恋が最期の恋であって何がいけない?初恋が実らないというのならば、実らなくてもいい。そんなもの、もうどうでもいい。どうでもいい、貴方と向き合っているこの瞬間に比べたならば。
「――――貴方が、好きです」
こうして貴方と向き合い言葉を重ねているこの瞬間に比べたら、全ての事がどうでもいいことだ。


過去の自分の全てを受け入れ、全ての罪と罰を受け入れ、それでも生きてきた。最期の場所を求めて彷徨い、俗世から離れる事で何れ終わる生を見つめてゆこう…そう思っていた。この忘れ去られた場所で、誰の目にもとまらず、ただ静かに。静かに自分が彷徨った道を振り返り答えを見つけようと。けれども。
「君の瞳は私が置いてきた筈のものを…呼び戻させる……」
恋や愛など俗世は全て過去に置いてきた。もう一度という言葉は私にはなかった。その全ては私の内側に眠り、二度と目覚める事のないものだった。ただ静かに私という存在とともに滅びゆくものだった。けれども。
「もう私は何も望む事はないと思っていたのに」
「…カレルさん……」
けれども、何処かで。何処かで、もう一度。もう一度、と。もう一度、生きてみたいと。俗世に塗れてみたいと。当たり前の日常を、平凡な感情を。ありきたりな生ぬるい想いを。
「それなのに君を見ていると、どうしてだろう…どうしようもないものが欲しくなってしまうんだ」
どうしようもないもの。己には必要のないと思っていたもの。それは心地よい生ぬるい感情。どうしようもなく凡庸で、けれどもひとがひととして生きるためには必要不可欠なもの。生きる為の、意味。生きてゆく為の、意味。
「…私の手を取るかい?ノア……」
「俺に迷う理由はありません。貴方が好きです。貴方とともにいたい」
剣の道を彷徨い、そして気付いた事。人は一人では生きられない。どんなに強くとも、どんなに強靭であろうとも、人は一人では生きられない。生きてはいけないのだ。
「―――ならばこの手を離さないでくれ。どんなになっても…離さないでくれ……」
平凡で生ぬるい感情。ありきたりの答え。けれどもこんな凡庸なものこそが、本当は何よりも私には必要なものだったんだ。何よりも欲しかったものなんだ。本当は諦めきれずに願っていたものだったんだ。


「離しません。どんなになってもこの手を離しません。俺にとって貴方はそういうひとだから」


繋がった手のひらから伝わるぬくもりは暖かく命の音がした。あの時と同じ、命の叫びが聴こえた。生きたいと、生きていたいと。それは私の指先から発せられた音だった。
「…貴方の言った言葉を…俺が覆してみせます……」
生きたいと、生ある道を歩みたいと。それは平凡で平坦な道。けれどもたくさんの優しさが溢れている道。当たり前に誰にでも存在する、誰にでも平等に与えられるもの。
「―――私の言った言葉?」
それが今。今この手のひらに。この手の中に存在している。ここに、在る。
「ええ―――」


「――――初恋は…実るのだと…俺が証拠になります……」


最期の恋は、ただひたすらに穏やかで優しいものだった。けれども何よりも必要なものだった。何よりも大切なものだった。