救済



欲しかったものはただひとつだけ、それだけだった。


血の匂いの消えない戦場で、ただひたすらに剣を振るう。殺戮とそれを糧に生きる事だけが、自分の全てだった。それを否定する気も、嘆く気もない。この道しか生きる術を知らず、そしてそうして生きる事が一番。一番自分らしいのだろうと気が付いたから。だから俺は、俺の意思でこうして剣を振るい、戦い続けている。

――――それが俺の選んだ道。それが俺の、生きる道。



乾いた砂が、頬に当たった。飛び散る血と同時に、転がる死体が運んだ砂が頬に当たり、傷口に染み込んだ。
「―――手応えのねー敵だな」
ベルンとの戦いは続き、日々戦闘は激しさを増していった。ミスル半島の戦いを終えナバタの隠れ里でベルン軍と再び対峙する事となった。砂漠の戦いでは思うように足が進まず戸惑いもあったが、一度剣を振るってしまえば何時しかそれも、忘れていた。身体が覚え切っている『戦う』という事が、今こうして実践されていた。
ロイ達前線部隊を先に進ませ、自分は後方で追ってくる敵をなぎ倒していた。何かを、忘れるように。いや何かを、思い出さないように。


思い出してはいけないもの。
胸に閉じ込めなければならないもの。
けれどもそれはふとした瞬間に浮かんできて、そして。
そして消えない痛みを、俺の胸にもたらした。


「…ルトガー……」


無意識に零した名前に俺ははっとして我に返る。あの日以来、自分の想いに気付いて以来、意識的に避けて来た。出来るだけ…近寄らないようにしてきた。ほとぼりが冷めるまで…いや違う…お互いの想いが、消えるまで。


剣を振るう。何度も何度も剣を振るう。まるで血に飢えた狼のように。それが俺の生きてきた道。そして俺が生き続ける道。それ以外に何もない。それ以外に何も、ない。それ以上でもそれ以下でもなく、それこそが俺の生きる意味。
「うぎゃあっ!!」
断末魔の叫びとともに最期の敵を倒した。これでここにいる敵はあらかた片付けた筈だ。そう思い軍に合流しようとした瞬間、背後から剣が振り下ろされる。それを寸での所でかわすと、俺は振り返りその男に切りかかった。けれども剣は受けとめられ、その男はうっすらと笑った。
「なるほど…いい剣さばきだ。我等部下を全て倒しただけのことはある」
「お前がこの軍の指揮官か…わりーな、あんたの命も頂くぜ」
「さあそれはどうかな?」
指揮官だけあってさっき倒した雑魚とは格段に腕が上がっていた。けれども俺にとってはそれでも雑魚でしかなかった。剣がぶつかり合う音数回した後、男の身体は血飛沫を上げ、そのまま砂の上に崩れ落ちた。
それは戦場では当たり前の…何時もの出来事だった。そうそれが、俺の日常だった。



その広い背中を見ているだけで、ひどく苦しかった。
絶対的な安心感と、そして絶望的な切なさが同時に襲って。
どうしていいのか分からずに、ただ。ただ視線を外し。
背中を預けられるというその言葉だけを頼りに、俺は。
俺はともに剣を振るう事しか…出来なかった。

―――馬鹿だと言われるかもしれない…でもそうすればお前のそばにいられたから。

相棒だと言ってくれた。背中を預けられる相手だと。俺にそう言ってくれた。お前だけが俺に居場所をくれた。俺がいてもいい場所を、お前だけがくれたから。
故郷をなくし、暖かい場所を失った俺に再び。再び俺にとっての場所を与えてくれたのはお前だった。
お前だけが俺に、もう一度『ひと』として生きる場所を与えてくれた。


穢れた身体、血塗れの腕。俺にとって唯一の綺麗な場所は。
綺麗で穢れていない場所は、お前を想う気持ちだけで。
それだけが闇しかない俺の唯一の光、だった。唯一の光、だった。


好きなんだ、ディーク…お前だけが…俺は……


言えるはずのない想い。告げれるはずのない想い。
それでもずっと、想っている。お前だけ、想っている。
何時しか俺を相棒としても必要となくなった日が来ても。
そんな日が来ても、俺はずっと。ずっと想っているから。
お前だけをずっと。ずっと、想っているから。


――――それくらいなら…許してほしい……


「すまない、ロイ」
あらかた敵を片付け俺は自らの指揮官に頭を下げた。こんな風に他人に頭を下げる自分が不思議だった。けれども、今はすんなりと。すんなりとこうして他人に頭を下げていた。
「どうしたんだい?ルトガー」
突然の行為に驚くのも無理はなかった。突然頭を下げられて謝られれば誰だってそうなるだろう。でも今の俺にはそんな事を考える余裕すらなくて。
「俺も下がらせてもらう」
「あ、ルトガー!」
静止の声に振り返る事無く俺は駆け出した。後方で独りで戦っているであろうお前の元まで。どうしても。どうしても、今どうしてもそばにいきたかった。

―――理由のない胸騒ぎ、そして理由のない焦燥…それが俺の中を駆け巡って。


最初の願いは、何だっただろうか?
一番初めに願いと言うものを知って、思ったことは。
それは一体何だっただろうか?
何も知らずただひたすらに無邪気な頃、願った事は。

――――それは一体、何だったのだろう?


砂漠を駆け抜け、その背中を捜した。広い背中を。
俺が唯一いてもいい場所を。
何よりも安心できて、何よりも切ないその背中を。
ただひたすらに俺は捜し続けた。



砂漠に広がる屍の後を追いながらルトガーは走り続けた。自分でもどうしてこんなに胸騒ぎがするのかは分からない。けれども今。今その顔が見たかった。その顔が、見たかった。
今回の件も本来なら二人で後方を食い止める作戦だった。けれどもディーク自らが自分一人で大丈夫だからと言い、ルトガーを前線部隊へと配属された。敵の量を考えれば決して一人では安全な任務ではないのに。
それにルトガーには気になる事が、あった。ある日を境に自分が避けられているような気がするのだ。初めは気のせいかと思っていたが、今回の事で確信した。普段のディークならば一人でとは決して言わない。どんな時でも自分に背中を預けてくれていたのだから。
「…ディーク……」
かと言って自分に冷たくされているかと言うわけでもない。ともにいる時間が減っただけで自分に向けられる態度は何一つ変わってはいなかった。だからこそルトガーにはその真意が…分からない。
「………」
ただ一つだけ。一つだけ思い当たる事があった。けれども自分はそれを受け入れる事は出来なかった。けれども瞼の裏にはまだ。まだ消えない映像が残っている。


慈しむように向けられた笑顔。
綺麗な金色の髪の彼に、そっと。
そっと向けられたその笑顔。


あの時の笑顔が瞼から、消えない。けれども必死にそれを押し止めてルトガーはディークの後を追った。彼の倒した敵と血の後を捜しながら、追い続けた。



―――――そして……



未だに悪夢は消えない。あの時の、男たちの精液の匂いはずっと。ずっと身体に染みついている。何度も何度も身体の中に吐き出された欲望が、身体の芯に染み付いて消えることがなくて。
消える事のないすえた匂い。肌に刻まれた陵辱の痕。何度も貫かれ、そして肉の欲望に壊れたこころ。


死体が、転がっていた。砂まみれの死体が一つ。
その切り口は間違えなく自分の探している相手のもので。
そして。そしてその死体の顔を、自分は。


――――自分はよく…知っている……


そう忘れようもないその顔を。忘れたくても忘れられないその顔を。どんなに消そうとしても消えない。身体に刻み込まれた陵辱の痕と、そして注がれた精液の匂いが。


「…あ………」


消えない、消えない。どんなに洗っても。どんなに洗い流しても。
それは俺の身体から消える事がなくて。匂いが、消えなくて。


「…あ…ああ……」


自ら腰を振り、その肉を求め。刺激を求め。
雄を求め。そして。そして性欲に溺れ。



「あああああっ!!!」




―――――きえない、きえない。おれのからだから、きえない……




何時もそこには優しい光があった。ただ優しく暖かい光が。
『ルトガー、サカの民は誇り高き一族だ。どんな事があろうとも俯く事だけはしてはいかん』
優しく暖かく、そして強い光。何時も自分の周りには、この村にはそれがあった。
『どんな時でも、前だけを見つめるのだ』
強く生きる事、決して負けない事。どんな事があろうとも、誇りだけは失わない事。


――――それが天と大地に生きるサカ人の誇り、だった。


繰り返される悪夢。消えない痕。染みついた匂い。どんなに身体を洗っても、どんなに血で手を穢がしても、何も何も消えない。
何時しか自分から、求めていた。腰を振り脚を開き、男たちの欲望を咥えていた。貫かれる痛みすら激しい快楽となり自分の身体を襲い、それに溺れてゆく。口からは自分でないような甘い悲鳴が零れ、何度も何度もイッた。


――――どんな時でも、前だけを見つめるのだ……


前だけを見つめようとした。前だけを見つめていたかった。
けれども自分の前にあるのはただ闇だけで。深い闇、だけで。
その闇に進めば進むほど、堕ちてゆくしか自分にはなかった。


深い闇へと、復讐の闇へと堕ちてゆくしか。


『ルトガーだろう?俺はおめーを知っているぜ』
そんな俺にそっと。そっと光が与えられた。
『まさかこんな所でともに戦う事になるとは…思わなかったぜ』
優しい光が、暖かい光が、そっと。そっとこの手のひらに。
『ま、お前がいりゃー百人力だな。よろしく頼むぜ、相棒』
ただ闇しかない俺の前に優しい光が、降り注いだ。


何もない。俺にはもう何もない。残っているのはただ。
ただ復讐する心だけで。それだけで。それが終わったらもう。
もう俺はただの抜け殻になるんだと、そう思っていた。


でもお前が、現れたから。俺の前に手を、お前が差し出したから。
居場所をなくした俺に、お前だけが再び場所を与えてくれた。
俺を必要だと言ってくれた。唯一背中を預けられる相手だと言ってくれた。
お前だけが、俺を。俺自身を必要だって…言ってくれた。


サカの人達以外に、俺を受け入れてくれる場所が…そこにはあった。



身体が、震える。がくがくと震える。その場所に立ってはいられずに、そのまま。そのまま砂の上に崩れ落ちる。立っている事が、出来ない。
「…あ…ああああ……」
手も脚も身体も、震える。がくがくと、震える。止めようとしてもその震えは止まらず。止まらず激しく心が乱されて。乱され、て。そして。そして、俺は壊れてゆく。
「…い、いやだ……」
抵抗しようにも薬のせいで身体が火照って叶わなかった。心は嫌だと言っているのに、身体の熱は止められなかった。男たちの手に嬲られて、そして貫かれて。
「…いやだ…いやだ…俺は…いやだ……」
嫌だった。こんな事、嫌だった。死ぬよりも、嫌だった。それなのに俺は何度も何度も男たちの欲望を受け入れさせられ、自分から腰を振って。そう、自らその肉を求めて。
「…いやだ…俺は…俺は……」
誰でもいいから貫いて欲しかった。痛みとともに襲う快楽に夢中になって溺れて。嫌なのに。嫌なはずなのに。吐き気がするほど、嫌なのに。それなのに。
「…俺は…こんな事…望んでなんか…望んで……」
溺れる。快楽に、溺れる。注がれる精液に満足したように喘ぎ、口の中に流し込まれる液体を飲み干して。そして壊れるほどに、貫かれて。
「…望んで…なんて…いない……」
貫かれて、そして達した。何度も何度も、達した。前を弄られてもいないのに、それだけで俺は。
「…いない…いない…いない…俺は……」
俺は何度も自分自身から、欲望を吐き出していた。



「うあああああっ!!!」



違う、違う違う。俺は、そんな事望んでない。そんな事したくない。
違う、違う、違う、違う…俺は…俺は俺は俺は……

抱かれたくなんてない。男の欲望の玩具になんてされたくない。

怖かった。怖かった、怖かった。自分が自分でなくなるのが。
今まで築き上げてきたもの全てが崩壊して、そして奪われて。
奪われて与えられたものが、この。この男に貫かれ感じる身体。
そう、自らの器官に楔を貫かれて感じる、この身体。


大きな手が、お前の大きな手が。俺に触れてくれたら、と。
お前が俺を抱きしめてくれたらと。お前が俺を抱いてくれたらと。
お前の肉が俺を貫いて、くれたらと。そんなそんな穢れた欲望が。



「――――うぐっ!!」



口から、胃液が零れた。昨日お前が独りで戦うと言ってからろくさま食事を取れなかったから。だから俺の胃の中は空っぽで。空っぽだったから吐き出すものが、それしかなくて。
乾いた砂漠に嫌な匂いのする俺の胃液が一面に広がる。広が、る。


お前だけが俺の光だった。全てを無くした俺の唯一の綺麗な場所がお前だった。
それなのに俺は。俺はその場所ですら自分の欲望の為に…穢していた。こころで。


―――こころで、本当は、穢して、いた。


「…うぐっ…はぁっ……」
吐き気が、止まらない。出すものは無いのにそれでも零れる。
「…ぐふっ…うっ……」
身体中の体液が、零れる。口許は汚れ、顔が汚れ。
「…お、俺は…ぐっ!……」
おれはぐちゃぐちゃの穢たない生き物になった。でもそれが。


…それが俺の、本当の姿だ。本当の…俺なんだ……



俺の望み。本当の心の奥からの、望み。
そうだ、俺は。俺はお前に抱かれたかった。
お前の腕で、溺れたかった。夢を見つづけるのは。
悪夢を見続けるのは、本当は。
本当はその抑圧していた欲望の裏返しだった。


穢したくないと言う罪悪感が、それでも求めてしまう相反する心が、生み出した…悪夢。



ただひとつ、綺麗な場所。闇しかない俺の、唯一の綺麗な場所。それがお前を想うこころだった。お前を想うこのこころ、だった。
「…ディーク……」
けれどもその想いすらも、もう。もう俺は穢してしまった。自らの欲望が、穢してしまった。
「…俺は…ディーク……」
自らの奥に芽生えた欲望を。植え付けられた、快楽を。それをお前に求めている。お前に、求めている。
「…それでも…お前が……」
でもそれは。それはお前でなければ、駄目なんだ。他の奴じゃ、駄目なんだ。お前が…いいんだ。



――――こんな俺でも、お前を好きでいる事は、許されるのか?



想いすらも、自らが穢して。
ただひとつ綺麗な想いすらも。
そうしたら、もう。もう俺には。
俺には何も、残ってない。
何一つ、残っていない。何もない。
もう後は広がる闇しか、ないんだ。



「…好きだ…ディーク…お前が……」



意識が、遠ざかる。このまま死にたいと思った。
このまま二度と目覚めたくないと思った。
このまま壊れて崩れ落ちて、そして。
そして全てを無にしていまいたいと思った。


何時しか俺にとって復讐よりも、お前が大事になっていた。一番の俺の想いはお前になっていた。


何もかも、なくなってしまえばいい。そうしたらもう苦しくない。
何もかもが消えて、そして何もかもが消滅して。俺自身も。
俺自身という存在がこの世界から全て消えてしまえばいい。


…皆の記憶から…そしてお前の…記憶から……


お前には優しい瞳を向ける相手がいる。金色のあの髪の。
お前には暖かい場所が、大切な場所がある。お前には、他にある。
俺にはお前しかいないけれど、お前には他にあるから。


だから消えればいい。俺だけ、消えてしまえばいい。




…それでも。それでも俺は…お前だけが好きだったんだ…ディーク……




指先に絡まる砂が、零れてゆく。さらさらと、零れてゆく。この砂とともに自分も全て流されてしまえたらいいと、そう思った。流されて、しまえたらと。
『お前はどーしてそうっ!』
背後から切り付けようとした俺に呆れながら、言って。そうしながらも大きな手が俺の髪をくしゃりと乱してくれて。
『って大事な相棒を殺すなよ、ルトガー』
そうして微笑う顔が。太陽の光みたいに眩しくて、そして。そして何よりも暖かかったから。


――――ずっとここにいたい、と思った……



強い風が吹いて、一面の砂が散らばった。遮られる視界に煩わしさを感じながらも、ディークは歩き続けた。用心のため、もう一度周囲を見渡し完全に敵を倒した所で、元来た道を引き返す。砂で視界はかき消されたが、それでも自分が歩んできた道は、大抵は分かっていた。
「ってついてねーな」
呟く言葉すら砂に流されてゆきそうだった。けれども歩みを止める訳には行かない。早く軍に合流しなければならない。
さくっと足を進めるたびに砂に埋め込まれる。それを掻き分けながらディークは足を速めた。ほとんど見えない視界の中にうっすらと倒れている人の影を発見する。さっき自分が倒した敵の大将の屍だろう。
「―――え?……」
その黒い影の隣にもう一つ影が、見える。その場所で倒したのは一人きりだ。間違えない。自分は道を間違えたのか?それとも。それ、とも?
「…まさか?……」
その時にふと浮かんだ考えが間違えであったら、と。そんな訳はないと否定しながら消せないものが、あって。そう…消せないものが、あって。
「…冗談…だろ?……」
それを否定したくて必死になって自分はその影に向かって走り出した。


『…お前が…悪い……』
何時かお前がぽつりと、言った。
『お前が俺に居場所を与えた』
その時は深く考えようとはしなかった。
『―――お前が俺に……』
けれども今。今その言葉の意味が。



「――――ルトガーっ?!」



長い髪が砂に絡まっている。砂に絡まり、お前の白い肌を汚して。汚し、て?
「おいっルトガー!」
駆け寄りその身体を起こそうとして、広がる匂いに気が付いた。死臭の匂いじゃない。これは。これは胃液の、匂い。
「ルトガーっ!!」
顔にへばりつく髪を払い除け砂まみれになっている顔を布で吹いてやった。それでも匂いは消えずにこびり付いている。お前の口許から液体の跡が残っていて、吐き出した跡がくっきりと残っていた。
「おい、ルトガー何があった?おいっ!」
ぴくりとも動かないお前の身体を揺さぶり、頬を軽く叩いた。それでも意識は無く、ただぐったりとしたままだった。
「ルトガー?おい、ルトガーっ?!」
唾液の跡を指で擦りながら、もう一度お前の頬を叩いた。けれども一向に目が醒める気配は無くて。まるで屍のように青白い顔のまま気を失っている。
「…ルトガー……」
名前を呼んでも反応が無く、意識は失われたままで。何処にもお前がここにいないような気がして。何処にもお前がいないような気が、して。それが何よりも俺を…俺を不安にさせて。



――――その不安を打ち消すように…俺は無意識にお前の唇に自らのそれを重ねていた……



夢だと、ずっと思っていたあの時の感触が蘇る。
冷たい月の夜、ともに戦いの中で野宿したあの日。
お前の髪が俺の頬に掛かり、そして。
そして押し当てられた唇の感触が、今。
今こうして、俺は。俺は、感じている。


『…好きだ…ディーク……』


俺も、だ。俺もお前が好きだ。お前の事が、好きだ。
こうして腕に抱きしめ、唇を重ねたいと願うほどに。
お前の事が、大事だ。大事だから、俺は。


――――俺はお前を受け入れられないと…そう思っていた……


でも、もしも。もしもお前が。
「…ルトガー……」
お前が俺のいない所で、何かあったら?
「…目、開けろや……」
俺の見えない場所で、こんな風に。
「…開けろ、お前は……」
こんな風に独りで、倒れていたら?


「お前は俺の相棒だろう?」


離れる事が最善だと思っていた。俺の手は血に塗れ、お前をしあわせにする事は出来ない。俺の生き場所も死に場所も戦場でしかありえない俺には。でも。
でも今、気がついた。今、分かった。あの時お前が零した言葉の意味を。お前が呟いた言葉の意味を。


『お前が俺に居場所を与えた』


お前が言う場所は。お前が言った、場所は。
俺の隣、だったのだと。こうして背中を預けて。
預けて、戦うこの場所だったのだと。


何も俺は持っていない。けれどもお前も持ってはいなかった。
その事に俺は、気付く事が出来なかった。
故郷をなくしたお前に、帰る場所はなかった。
けれどもそれに捕われているお前には、その原因さえ取り除けば。
取り除けば別の道があるんだとそう思っていた。

でもそれは、違う。違うんだ。

お前が見つけた場所は。お前が見つけ出した場所は。
もう一度お前が手に入れた場所は。お前が選んだ場所は。


…俺の…隣だった……。


睫毛が、揺れる。微かに、揺れる。
そして開かれる漆黒の瞳に。その瞳に。


「…ルトガー……」


名前を、呼ぶ。ぼんやりと焦点の合わない瞳は、それでもゆっくりと俺を見つめて。
見つめて、そして俺だと分かった瞬間。分かった瞬間、ぽつりと俺の名を呟いた。



手を、伸ばした。そっと伸ばした。その傷のある頬に。
「…ディーク……」
夢かどうかを確認する為に。その頬の暖かさを。
「…お前が…殺したのか?……」
その暖かさと、ぬくもりを確認して、俺は。


――――おれは、こわれようと、おもった。


「殺した?誰を…何の事だ?」
もう壊れしてしまおう。全てを吐き出して。身体の中の液体は全て吐き出してしまったから。後はもう。もう心の膿を吐き出してしまおう。全部、吐き出してしまおう。
「…俺の仇…お前が倒したのか?」
全部吐き出して、そして。そしてさよならを言おう。それでいい。それで、終わろう。お前がこうして俺に気付いて、救ってくれたから。救ってくれたから、もう。もうこれ以上望んではけない。もう、これ以上お前の優しさを求めてはいけない。
「仇ってまさか……」
「ブルガル侵略時の隊長だ」
俺が指を指した先にある屍に、お前はひどく驚いたような顔をして。そして俺に一つ詫びた。すまなかった、と。



お前の言葉に、俺は詫びる以外に何も出来なかった。何も、出来なかった。お前がこうして血塗られた道を歩みながら、必死に探していた相手を。お前の、目的を…俺が…。
「…いい、戦場なら…当たり前の事だ…敵を倒すのが……」
「でも仇を取るのはお前の…目的だっただろう?」
そんな俺にふとお前は微笑った。それがひどく綺麗で。ひどく、綺麗で。そんなお前の顔を俺は初めて見た。そして。
「…いいもう…いいんだ…目的なんて俺には……」
そしてもう一度俺を見て微笑って。微笑って、そして。そしてその瞳からひとつ、透明な雫を、零した。



「…どちらにしろ…俺には殺せなかった……」



もう一度手を伸ばし、お前の頬に触れた。大きな傷のある頬。消えない細かい傷のある肌。顔に傷のない俺よりも、ずっと。ずっとお前の方が、綺麗だ。
「―――何故だ?」
身体の奥底から、心から穢れている俺よりも、ずっと。ずっとお前は綺麗で。綺麗、だから。
「…殺せない…俺は…トラウマがある限り…」
だから、俺はお前にはこれ以上近付けない。俺自身が一番の闇だから。だから、もう。もうこれで、俺から。俺から離れられる…ように。


「…俺は…あいつに…以前…犯された……」


「…ルトガー?……」
これで、もう俺にはお前は関わらない。
「兵士数人がかりで、やられた」
穢たない俺には、関わろうとはしない。
「それが、俺が生き延びた理由だ」
もう、これでお前が俺を受け入れる事は、ない。


「―――全員虐殺の中で…俺だけが生き残った理由だ……」


「そうさ、俺は男に腰振って、そして生き残ったただの卑怯者だ」
嫌うなら徹底的に、軽蔑するなら、何処までも。
「男咥えて、喜んで…こうやって今も……」
そうしてくれ。そうして、くれ。もう二度と俺がお前に未練を残さないように。
「…今も男が欲しいって身体が疼いている…お前が……」
もう二度と俺が。俺がお前を追いかけないように。


「…お前に…抱かれたいって……」


これで、終わりだ。これで、さよならが出来る。
さよならが、出来る。後は俺が壊れればいい。
お前の知らない場所で、知らない所で、もう二度と。
もう二度と、お前の前に現れなければ…いい……。


手が、伸ばされる。伸ばされ、る。
俺の言葉にお前は軽蔑をするわけでもなく。
蔑むわけでも、嫌悪感を抱くわけでもなく。
ただひたすらに。ひたすらに苦しげな顔をして。
そして。そして、そっと俺の頬に。


おれの、ほほに、てが、のばされて。




「―――抱いてやるから…だから…そばにいてくれ……」




零れた涙をそっと。そっとその指先が…拭ってくれた……。




救いの光も、癒しの言葉もいらない。
欲しいものはただひとつ。ただひとつ、だけ。
その手のぬくもりが。その大きな指先が。
それだけが、欲しかった。それだけが、ずっと。


――――それだけが、ずっと。ずっと…俺は欲しかった……



「…ディーク…お前何言って……」
頬を包み込む、手。大きな、手。優しいぬくもり。
「…何…言って……」
あたたかい、て。あたたかくて、やさしくて。
「…な…に…言って……」
やさしすぎるから、必死で被ろうとした仮面ですら。


それすら、いとも簡単に剥がされてゆく。


それ以上声が、言葉が、出ない。俺は何か言いたいはずなのに、喉の奥に言葉が詰まって。詰まって、それを吐き出す事が、出来ない。
「俺はお前とともにいるのは…間違えだと思っていた…お前には必要ないと」
俺の頬を包み込む、手。そして零れる涙を拭う指。涙なんてものは、もう。もう俺には枯れてしまったものだと思っていた。もう何処にもないものだと思っていた。
「俺は自ら望んでこうして血に塗れる道を選んだ。でもお前は違うんだと。復讐が終わったら、別の道を選べるのだと…そう……」
枯れて、失われて、踏み躙られて。もう何処にも。何処にもないものだと思っていたのに。後から後から、雫は零れ落ちて。
「だからお前と俺がいるのは、間違えだと思った。けど」
言葉の代わりに零れ落ちる涙を、俺は止める事は出来なくて。ただひたすらに、零れ落ちる涙を。
「けど、お前が前に言った『居場所』が…俺の隣だと言うなら……」


「…だったら…そばにいてくれ、ルトガー……」


頬に触れていた手が外され。そしてそのまま。
そのまま広い腕が、きつく。きつく、俺を抱きしめた。
その強さに、俺はただ。ただひたすらに、切なかった。


「…そばに…いてくれ…俺の見えねー所で…気付かねー所でお前が苦しんでいるのは……」
いても、いいのか?俺はお前のそばにいてもいいのか?こんな穢れた俺でも、お前のそばに。お前のそばに、いてもいいの?
「…お前がこんな風に苦しんでいるのに…何も出来ねーのは嫌だ……」
こんな俺を、お前はそばにおいてくれるのか?相棒だって…認めてくれるのか?俺を必要だって、言ってくれるのか?
「…俺のいない場所で…もうお前がこんな風に泣くのは……」
こんな俺に、お前は居場所を与えてくれるのか?この腕の中に…いてもいいのか?



「…ディーク…俺…俺は…お前と…ずっと…いたい……」



「…お前だけが…もう一度俺に居場所をくれた……」
「…ルトガー……」
「…何もない俺に…もう一度…与えてくれた……」
「―――俺は何も、持ってねーぞ。それでもいいのか?」
「…お前だけがくれたんだ。俺に居場所を、そして光を……」
「…光?……」
「くれた。闇だけの俺の心に、お前がくれた」


「――――復讐しかなかった俺の心に……」


そっと背中に腕を廻した。その広い背中に。腕を廻したら、突き上げてくる想いが止められなくなって。止められなくなって、そのまま。そのままきつく抱き付いた。そんな俺の身体をお前も、強く抱きしめてくれる。抱きしめて、くれる。
「…好きだ…お前が…ディーク…ずっと……」
このまま死んでもいいと、本気で思った。けれどもそれ以上に、もっと生きたいと思った。もっと生きて、お前を。お前をずっと見ていたいと、そう思った。お前だけを、見ていたいと。
「…ずっと俺は……」
顔を上げた。自分でもみっともないほどぐしゃぐしゃな顔をしている。けれどもそんな事よりも今は。今はお前の顔が、見たかったから。お前の顔が、見たいから。
「俺もだ、ルトガー…俺にとって一番大事なのが何なのか…やっと分かった…」
もう一度その手が伸びてきて、俺の涙を拭ってくれた。そして。そして胃液の痕が残る俺の顔にゆっくりと唇が降りて来て。


―――穢たない俺の顔を、その唇で…拭ってくれた……



そばにいられるだけで、よかった。
お前が俺を相棒だと認めてくれた瞬間から。
ずっと、それだけを思っていた。
お前の隣にいていいんだと。ここが俺の場所なんだと。
こうしてともに戦える事が出来る限りは。
ずっとお前のそばにいられるんだと。


だから強くなりたかった。復讐の為に力を得ようとしていたはずが、何時しかその思いは別のものに摩り替わっていた。そう、お前とともにいる為の資格としての、強さが。お前が認めてくれるだけの強さが、欲しくなっていた。
けれども今。今、一番おれが欲しい強さは…お前とともに歩めるこころの強さ、だ。


「…ディーク…俺…汚いから…今は……」
嫌な匂いの残る俺を抱きしめ、汚れを拭ってくれる指先、そして舌が。その全てが、俺にとっては。俺にとっては。
「そんな事気にすんな…って俺の前では気にするな」
俺にとっては何よりも、どんなものよりも。他に代えられない、かけがえのないものだから。
「気にすんな。俺の前でだけは…いいから……」
「…ディーク……」
好きだ、と思った。本当に俺はお前が好きなんだ、と。どんな俺でも受け入れてくれるお前の心の広さが、大きさが全部。全部、好きなんだと。好き、だと。
「――――いいから……」
誰よりも何よりも、俺にとってお前が。お前だけが、唯一の救済、だった。



穢たない俺を、お前が洗い流す。
深い闇をお前が打ち払い、そして。
そしてその手が、俺を。


――――俺を、明るい場所へと引き上げてくれた……




「俺もお前も何も持ってねーけど…でも分かった気がする…何も持ってねーのは…二人で見つける為だって……」



俺の顔を見て、お前がひとつ微笑う。
何よりも優しい笑顔だった。何よりも暖かい笑顔だった。
その顔が何時も俺を救っていたことを。
何時も俺を癒していてくれたことを。


――――お前は気付いているだろうか?……



ひどく回り道をしていた気がする。
答えはこんなにも簡単だったのに。
答えはこんなにも近くにあったのに。
俺はひどく回り道をしていた気がする。


――――ルトガー…お前がずっと俺の答えを持っていたのに……


何の為に生きるのか。何の為に生きてゆくのか。
俺はただ戦い続ける事だけが。剣を振るう事だけが全てだと思っていた。
戦いの中で生き、そして死ぬ。それで構わないと思っていた。
それが俺の生き様だと。それが俺の生きる道だと思っていた。


けれどもそんな俺に別の道を…違う答えを与えてくれたのは他でもないお前だった。


リグレ家にいた時のあの暖かさと優しさは、俺にとって一時の安らぎを与えた。けれども同時に理由のない淋しさも与えていた。
幾ら彼らが親切にしてくれてても、所詮俺とは生きてきた道も、生きてきた場所も違う。そんな俺が永遠にあの生ぬるく暖かい場所にいられる筈がなかった。
一時的な安らぎと暖かさを得られても…永遠の場所はそこではなかった。けれども。


けれども今、お前がそれを俺に与えてくれた。


お前とともにいる事が。お前とこうして戦い続ける事が。
俺にとって唯一背中を安心して預けられる相手が、お前だと言う事が。
それが何よりも。何よりも俺を。何よりも、俺を。



「―――俺にとっての相棒は…生涯お前だけだ……」



強いだけじゃ駄目なんだ。ただ強いだけでは背中は預けられない。
それ以上のものが、それ以上の信頼が。そして。そして何よりもこころが。


こころが何よりも、安らげる相手でなければ。


「…その言葉…信じていいのか?…ディーク……」
「―――ああ…信じろ」


「…お前以外に…この言葉は…言わない……」


ともに。ともに、いよう。
剣を置いても。戦いを止めても。
死ぬ瞬間まで、ともにいよう。
お前なら、一緒にいられる。
戦場で死ぬことがあっても、お前を。


――――愛する者と…最期の瞬間まで…一緒にいられる……



ディーク…ずっと、一緒にいよう。死ぬまで。
「…信じる…だから……」
ううん、死んでも。死んで離れ離れになるとしたら。
「…だから…俺から離れるな……」
そうしたら俺も、死ぬから。死ぬ、から。
「…絶対に俺を…離すな……」
だからずっと。ずっと、一緒にいてくれ。


「―――離さねーよ…絶対に…離さない…お前だけは…絶対に……」


お前が俺を、見つめる。真っ直ぐな瞳で、見つめる。思えばずっと、俺は。俺はこの瞳に焦がれていた。
「…ディーク……」
ずっとこの瞳が好きだった。何時も血に塗れ戦い続けているのに、真っ直ぐでそして暖かいお前の瞳が。その瞳が何よりも、好きだった。
「―――ルトガー……」
お前の手が俺の髪を撫で、そして。そして頬を包み込み、ひとつ微笑って。ひとつ、微笑んで。


「…お前を…愛している……」


その言葉とともに、降りてくる唇に。その唇に俺は。
俺は瞼を閉じて答えた。微かに震える睫毛を堪えながら。
お前の言葉に、想いに、俺の全てで…答えた。



――――俺もずっと…ずっとお前だけを…愛していた…と……



救いの手、唯一の救済。
闇だけに捕われし俺の、ただひとつの。
ただひとつの、光は。



――――お前のその手、だった……