それは足許から、広がってゆく。そっと、広がってゆく。
つま先から染みこみ、内側を埋めて。そして。そして全身に。
消えない想いとして、消せない想いとして、広がってゆく。
ずっと捜していたもの。ずっと求めていたもの。
ただひとつ。ただひとつだけ、欲しかった。
――――ずっと貴方だけを…見ていたから……
そこに僕の居場所が少しでもあったなら、こんな想いはしなかっただろうか?貴方と王子だけのその場所に、少しでも僕と言う存在を置いてもらえたならば。
けれども貴方の世界に僕はいない。貴方にとっての全てが王子だから。貴方にとって大切なのは、何よりも優先させるべきものは、ただひとり王子だけだから。
「それでも貴方が、好きだったんです」
言葉にして胸に広がるのが痛みよりも、想いだと分かったから微笑う事が出来た。貴方の王子への想いよりも。僕が貴方を好きだという想いが、強いのだと。強いって、そう迷いなく言えるから。だから僕は微笑う事が、出来る。
「好きなんです、貴方の事が」
こうして耐えきれずに零れた涙ですらも。頬から落ちる熱い雫ですらも。何時しかきっと違うものへと変化してくれるだろうから。だから今は。今だけで、いいから。
――――この胸の痛みのままに、泣かせて欲しい……
苦しい、辛い。痛くて、切ない。
でもそれ以上に、好きだから。
貴方だけが、好きだから。貴方だけが。
だから大丈夫。きっと、大丈夫。
本当に貴方にとって必要なものを。
本当に貴方にとって必要なひとが。
今貴方のそばにこうして存在しているのだから。
だから大丈夫。だから…大丈夫。
――――貴方がやっと…本当の『貴方』へと戻れるのだから……
それでも零れて来るものが。胸から込み上げて来るものが。身体を引き裂かれそうな想いが、まだ。まだ僕の中にあって。僕の中に、あって。
「…どうして?……」
胸が、痛い。こころが、苦しい。心臓を抉られたように、痛くて苦しい。それがどうしても僕を壊してゆくのを止められない。
「…分かっていた事なのに…どうして僕は……」
頭で理解していても、心が追いつかない。感情が、追いつかない。気持ちが、全然追いつかない。だからもう。もうどうにもならなくて。
「…僕はこんなにも…弱いのだろうか……」
強さが欲しい。強い心が、欲しい。どんな事にも負けない強さが、欲しい。そうしなければ貴方にまで迷惑を掛けてしまうから。貴方にまで、この想いで負担をさせてしまうから。だから。
だからどうか、僕に。僕に全てを受け入れ、そして昇華出来るだけの強さをください。
浸透する水。足許から、つま先から広がる水。
それが想いだと。それが想いなんだと、気付いた時は。
気付いた時は、何時からだったのか?
これがお前への『想い』だったのだと。
お前の身体を抱いた、あの時からだったのか?
お前が敵軍へと寝返った、あの瞬間からだったのか?
それとももっと。もっと昔から。ずっと遠い昔からだったのか?
何時も私の後を着いて来た。紫色の瞳が真っ直ぐに私を見上げながら、着いて来た。
『パーシバル様』
私に追いつけば、息を切らしながらも嬉しそうに。嬉しそうに微笑う、その顔が。
『その、お姿をお見掛けしたものですから…僕…』
その顔を見ているのが、好きだった。お前が嬉しそうに微笑う顔を見ているのが。
…もしかしたら私はあの瞬間から…お前を想っていたのかもしれない……
「―――クレインっ!!」
例え何処にいても。例えどんな時でも。例えどんな瞬間でも。
僕は貴方だけを想っている。貴方だけを見つめている。
それがどんな愚かな事であっても、僕は。僕にとっては。
貴方が生きて、そして貴方が存在している事以上に大切な事はないから。
「…パーシバル…様?……」
ひととして、私は多分何かが欠けていた。それが何なのかを自分で説明する事は出来なくて。ただ漠然と。漠然と私は何か足りないとそう思っていた。
それは王子の存在で埋められたと思っていた。あの人に忠誠を誓う事で、騎士として生きる事で。その全ては埋められたものだと思っていた。
それでもまた何処かで気付いていた。それでも埋まらない空洞がこころの片隅に存在している事を。ぽっかりと開いた穴がそこに存在している事を。
それを埋める事だけが、どうしても出来なかった。いや埋める方法が、私には分からなかった。
驚愕に見開かれた紫色の瞳が私を見上げる。そこから零れ落ちる涙を拭う事すら忘れたように、呆然と私を見上げる。
「…どうして?…王子は?……」
やっとの事で出てきた言葉に、お前自身が傷ついていた。傷、ついていた。どうしてお前はこんな私をそこまで。そこまで想ってくれるのか?
こんなにも自分勝手で、そして。そして一度はお前を突き放そうとそう決めた私に対して。
「――――クレイン…私にとって……」
お前だけはどんなになっても、どんな事があっても私だけを見てくれる。私自身ですら気付かない『私』を、見てくれる。
…私自身ですら、気付かなかった事。それを持っているのは…お前だった……
私自身に欠けていたもの。私の中に空いていた空洞。
それを。それを埋められるのは。それを補えるのは。
私の中の足りないものは、お前が。お前が、持っている。
「…私にとって本当に必要なのは…お前、だった……」
気が付けて、よかった。全てが取り返しの付かなくなる前に。
今この瞬間に、その事に気付けて良かった。お前を失う前に。失ってしまう前に。
私にとっての唯一の真実がここにあることに。ここに、ある事に。
やっと、辿りつけた。やっと、分かった。
「…パーシバル…様…?……」
こんなに遠回りをして、やっと。やっと辿りついた。
「王子じゃない…私が本当に望んでいたものは…」
やっとお前と言う存在に、私は辿りつけた。
「騎士としてでなく『私』が望んでいたのは」
やっと、お前へと辿りつけた。やっと真実へと辿りつけた。
「――――お前だった…クレイン……」
足りなかったもの。人間として足りなかった部分。
私は騎士として生きると決めながらも、それでも。
それでもこころの何処かで求めていたもの。私が。
私がひととして、求めていたもの。ただの男として求めていたもの。
やっと辿りついた。やっと、分かった。
それは今ここに。今ここに、ある。お前の元にある。
私の足りないものはお前が持っていた。私が欲しかったものは。
お前がこうして持っていてくれた。ずっと、お前が。
お前だけが、私にそれを。それをずっと与えていてくれた。
「…愛している…クレイン……」
初めて貴方と出逢った時から、多分僕は恋をしていた。
自分では気付かない間に。気付かない、うちに。僕のこころに貴方が浸透し。
そして僕の全てを埋めてゆく。僕は貴方に浸されてゆく。
僕にとって貴方という存在全てが、道しるべだった。僕の行き先、だった。
夢なのかと、思った。夢ならば醒めないでと、そう思った。もしも僕が見ている夢ならば、醒めないでと。
「…嘘……」
それでも僕の口から零れた言葉は。零れた、言葉は。その夢すらも信じられないと言うように。全てが信じられないと、言うように。
「―――嘘じゃない。私はお前の事が……」
僕の言葉を否定するようにそっと手が、頬に触れる。大きな手が零れる涙を拭ってくれて。そして。そして生暖かい舌が、僕の頬に触れて。舌先が、涙を掬って。
「…う…そ……」
僕に貴方が、触れる。優しく、触れる。あの時のようにただ『行為』として僕を抱いた時とは違う。あの時とは、違う。優しく僕に。僕に、触れる。
「…だって貴方はずっと王子だけを…王子だけしか見ていなかった……」
どうしてこんな時。こんな時僕は貴方の顔を真っ直ぐに見られないのだろう。貴方の表情が見たいのに。見たい、のに。瞳が涙で雲って、視界が曇って見えない。
「…僕が一番…一番貴方を見ていたから…だから知っている…貴方がどれだけ王子の事しか考えていなかったか…僕が一番…見てきたから……」
貴方の顔が、見たいのに。今、貴方の顔が見たいのに。綺麗な貴方の顔を。誰よりも好きな貴方の表情を…見たいのに。
「…僕が…一番……」
なによりもみたい、あなたのかおが。なみだでくもって、みえない。
「…愛している…お前を……」
大きな手が僕の頬を包み込む。両手で、包み込む。
「私は騎士だから…騎士としてずっと王子の事だけを考えてきた」
そして。そしてゆっくりと。ゆっくりと唇が。
「でも分かったから。足りないものが、分かったから」
ゆっくりと唇が僕の額に触れ、睫毛に触れて。
「足りないものは『私自身』だった。そしてそんな私自身は」
そっと、唇に…降って来た。唇に、重なった。
「――――お前を…想っていた……」
唇が離れて、そして囁かれた言葉に。その言葉に、僕は。
僕は何も言えずに、何も言う事が出来なくて。ただ貴方を見つめるのが精一杯で。
精一杯で。零れる涙以外に僕は何も出来なくなっていた。
ずっと貴方が好きでした。貴方だけが、好きでした。
本当に僕にとってのただ一度の恋だから。ただ一度の。
ただ一度だけの、恋。だからこそ。だからこそ僕は。
自分でもどうにも出来ないほどに、貴方に恋をした。貴方だけに恋をした。
おかしいでしょう?でも僕は本当に。
本当に貴方以外考えられないんです。
自分でも笑っちゃうくらいに、貴方を。
貴方だけを求めているんです。
貴方だけが好きなんです。貴方だけが。
他に欲しいものなんて、何もなかった。貴方だけがそこにいてくれればよかった。
「…パーシバル様……」
好き。貴方が、好き。貴方だけが好き。
「――――クレイン……」
他に何もいらない。何も欲しくない。だから。
「…僕で…いいんですか?……」
だから僕をずっと貴方のそばに。貴方とともに。
「…ああ、お前がいい…いやお前じゃなければ駄目だ」
貴方とともに、生きてゆく未来を願ってもいいんですか?
「お前でなければ私は…自分自身を見つけられないから」
貴方とともにいられる未来を望んでもいいのですか?
「…お前でなければ…私には意味が…ない……」
好きで、どうしようもないくらい好きで。どうにも出来ないくらい、貴方が好きで。いつもいつも自分の心を、想いを、持て余してしまうほどに。こんなにも貴方が好きで、どうしていいのか分からなくて。分からない、から。だから何時も迷ってそしてもがいていた。
自分自身が壊れれば楽になれると、そう思うほどに。
でも壊れたらもう貴方が分からなくなる。
貴方を見つめる事が出来なくなる。貴方のそばに…いられなくなる。
そう思えば思うほどに、自分自身は追い詰められていって。
追い詰められて、そしてどうにも出来なくなって。出来なくなって。
けれども、それでも止められなかった。貴方への想いだけは…止められなかった。
「…貴方が…好きです……」
「―――ああ……」
「僕はずっと…貴方だけを見てきました…」
「…気付いていた…その事は……」
「…貴方にとっては…迷惑でしかないかもしれないけれど…僕は想いを止められなかった……」
「…いや…すまないと…思っていた……」
「…パーシバル様……」
「お前の想いに答えてやれない自分が不甲斐ないとも思っていた。けれども本当は」
「…そう思った時点で…私はお前を想っていたんだ……」
答えられないと、お前の想いに答えられないと。
それは王子への忠誠と、そして何よりも。何よりもお前を。
お前を私のこころの中で穢れなき者と、そう。そう思い込んでいたから。
そう思い込む事で、お前と向き合う事を避けていたから。
でも違う。違うんだ。本当は知っていた。本当は分かっていた。
ただそれを認めるのが怖かった。認めてしまうのを恐れていた。
認めてしまえば私は、自分が自分でなくなる気がしてならなかったから。
今まで築いてきたもの全てが、無になるような気がしていたから。
けれども本当はそれこそが。その先にあるものが。
今こうして私が気付き暴いたものが。それこそが。
それこそが本当の私だったのだと。これが私自身だったのだと。
―――今、お前の目の前にいる私こそが…本当の私の素顔なのだと……
「…クレイン…私はこのような情けない男だ…また自分を見失ってしまうかもしれない」
お前の背中に腕を廻し、そのままきつく抱きしめた。身体を抱いたのは一度だけなのに、それなのに。指先が、憶えている。この指が、憶えている。お前の感触を、憶えている。
「…お前をしあわせに出来るような器量もない…それでも……」
お前の髪の匂いを、お前のはだのぬくもりを、お前の華奢な身体を、私の全てが記憶している。
「…それでも私とともに…いてくれるか?」
私の全てがお前を、憶えている。こんなにもお前だけを、憶えている。
「…私のそばに…いてくれるか?……」
「―――はい、パーシバル様…僕はずっと貴方のそばにいます…いえ…いたいんです……」
ひどく遠回りをしていた。本当に答えはこんな近くにあって。
こんなにもそばにあったのに。それを見逃して。自ら拒否をして。
お前を結果的にこんなにも苦しめて。大切なものを、苦しめて。
答えはこんなにも簡単だったのに。初めからひとつしかなかったのに。
傷を作って。たくさん、傷を作って。そうしてやっと辿りついた。
…やっとお前と言う答えに…辿りついた……
「…そばに置いてください…僕を…ずっと……」
広い背中に手を廻した。あの夜以来、この感触を僕は指先に刻む。
「…ずっとそばに…死ぬまで…いえ……」
貴方の広い背中の感触を。傷だらけの貴方の背中を。
「…貴方が死ぬ時は…僕も…一緒に連れていってください……」
ああ、僕は。僕はこの背中をずっと追いかけていた。ずっとずっと、追いかけていた。
「…僕を…ずっと…貴方のそばに置いてください……」
その背中が今こうして。こうして僕の手のひらにある。貴方が僕のそばに在る。
どれだけの夜願い、どれだけの夜思ったことだろう?
「…ああ…約束しよう…クレイン……」
ただひとつ約束をした。たったひとつだけ、約束をした。
それ以外何もいらないから。何も望まないから。だからひとつだけ。
指を絡めて、約束をした。ただひとつの、約束をした。
足許から浸透した想いは。ゆっくりと浸透した想いは。
ずっとふたりの中に、あって。ずっとずっと、あって。
ただそれがあまりにも当たり前のように存在していたから。
当たり前のように浸透していたから。だから見えなくなって。
見えなくなって、そしてもがき苦しみ、やっと。
やっとこうして辿りついた。やっと辿り着く事が出来たから。
だからもう何も。何も怖くなんかない。どんなになろうとも、もう怖くはないから。
「…一緒にいよう…クレイン…ひとりでは見えないものでも…お前とならきっと…きっと未来も見えるだろうから……」