ガキの頃から、冷めているとよく言われていた。ガキの癖に無表情で何を考えているのか分からないとも。けれども実際振り返ってみれば、その頃の自分は何も考えていなかった。特に将来をどうしたいという訳でもなく、ただ何となく生きていた。
所詮十二、三のガキにそんな、きちんとした未来の映像など浮かんでいる訳もなく、ただ日々を可笑しく過ごすだけだけだった。
何かになりたいとか、何かをしたいとか、そんな事を考えるほど真面目に生きてはいなかった。
世界は不穏な情勢に包まれていた。今まで奇妙なバランスながらも平和を保っていた各国々に突如としてベルンの大国が侵略を開始したのだ。それが今は各国に飛び火をし、大陸全体が不穏な空気に包まれている。そしてこのサカ族の間でもそれは例外ではなかった。
遊牧民族として他国との干渉を避け、独自の文化を刻んでいたこの国にも、周辺国の戦火が飛び火しているのを感じずにはいられなかった。幾ら不干渉、独自の道を貫いても、それは避けられるものではなかった。
「―――相変わらずだな、あんたは」
自分よりもずっと年上のその男を見上げながら、シンは相変わらずの無表情のままそう言った。その言葉を言われた主は気にする風でもなく、何時もの穏やかな笑みを浮かべている。その顔を見上げながらシンは思った。自分は顔色一つ代えない無表情なガキだけれど、目の前の男は何時も微笑んでいる事もある意味一種の『無表情』ではないかと。
何時でもどんな時でも、この穏やかな笑みを浮かべている。それ以外の顔を、自分は知らないのだから。
「挨拶もなしにそれかい…君は相変わらずだね」
それでもシンがこの男を嫌いかと言えばそれはノーだった。感情の読めない男。心が全く読めない男。でも嫌いではなかった。嫌いなら『余所者』である彼に、逢いに来はしないのだから。
「あんたが、見境ないからだろ?」
「否定はしないが、ね」
きちんと着るのがめんどくさいのか、胸元は肌蹴られそこから鍛え上げられた筋肉が覗く。それと同時に無数の紅い痕も。それだけで彼がさっきまで何をしていたのかは分かる。目の前の男は情交の痕を隠しもせずに、自分の前に平気で現れるのだ。そこにあるのは『子供だから知らなくていい』と言った倫理はなく、自分は対等の人間であるという彼なりの扱いであった。
「昼間から男連れこんで、おさかんだな」
呆れたように言うシンに彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべながら、見下ろしていた。自分がどんな事を言おうとも、彼の顔は崩れる事がない。それがシンにとって、今一番崩したいものだった。その先にある表情を、見てみたいと。それが十三歳になったばかりのシンにとって一番の関心事だった。
「向こうから来たんだ。まあ来る者は拒まず、去る者は追わず…それが私の信条だからね」
「…何言ってんだか……」
ぼそっと呟くシンに彼はやっぱり穏やかな笑みを浮かべると、そのまま室内へと招き入れた。シンには断る理由がなかったのでそのまま、彼のテントへと入っていった。
サカの部族は、特定の地に定住しない。テント生活を送りながら大陸を移動し生活をする。季節に合わせるように移住をし、自然とともに生きてゆく。それが彼らの誇りであり、サカ族としての証であった。
「君の好物は覚えてしまったよ」
注がれる紅茶の甘い薫りが広がる。カモミールティーだった。紅茶の種類などシンはいちいち覚えてはしなかったが、目の前の男はちゃんと覚えているらしい。そしてどの紅茶の種類をシンが好んでいるのかも。
「光栄だな。あんたは寝た男の顔すら、ろくさま覚えていないのに」
「いちいち覚えていたらキリがない…それに万が一情が移ったらやっかいだからね」
紅茶が注がれたティーカップを手に取ると、その熱さにシンは眉だけを顰めてもう一度相手の顔を見上げた。ひどく綺麗な男の顔を。
「ふーん」
それだけを答えとシンは紅茶を口にした。舌に広がる熱さと味がひどく心地良かった。そうしてからもう一度相手を見上げる。自分とはちょうどニ十、年が離れていると言った。その割に彼は若く、二十代前半と言っても通るくらいだろう。無造作に伸ばされた漆黒の髪、自分の容姿には全く関心がなさそうな服装。けれども例え本人がどう思うとも、その綺麗な顔は一度見たら忘れられない代物だった。形がどうとか整っているとかそう言ったレベルじゃない、純粋に…綺麗なのだ。他人に無関心の自分ですら、彼の顔を綺麗だと認識するほどに。
「どうしたんだい?」
シンの視線に気付いて、彼は尋ねてきた。けれどもシンは答えなかった。答えずにその顔を見つめる。彼はサカ人だった。間違えなくサカ人である。けれどもここでは『余所者』だった。同じ部族でありながら、外様だった。その詳しい理由は知らない。けれども彼は部族を捨て、誰とも群れを成さず生きてきたせいだと誰かが言っていた。別の誰かが彼がサカ人である事を捨てたのだとも言っていた。
けれども彼は戻ってきた。それがほんの一時であろうとも。彼は自らの故郷に戻ってきたのだ。
「あんた、何者なんだ」
不意にシンの口から出た言葉ですら、彼は微笑っていた。けれどもそれはずっとシンの中にあった思いだった。ずっと自分の中にわだかまっていたものだった。彼は何者なのか、彼はどうしてサカ人なのに余所者なのか。そしてどうして彼は今になってここに帰ってきたのか。
「私はただの放浪者だよ。それだけだ」
知りたいと思った。知りたいと思ったから、こうしてここに通っていた。他人に関心のない筈の自分が、こうして脚を運ぶくらいに。他人に関心のない自分が、気にするくらいに。
「…あんたの事を…『剣聖』だって、言っていた」
「―――――」
「そして血に飢えたただの狼だとも、言っていた」
その言葉にすら、彼の表情は変わらなかった。まるで言われると分かっていたとでも言うように。見上げてくるシンの瞳を穏やかに受けとめながら、そのまま。そのままゆっくりとシンの前にしゃがみ込むと、彼に視線を合わせた。そして。
「それはどっちも正しくて、どちらも間違っているよ」
そして彼はやっぱり。やっぱりシンが彼と初めて出逢った時と同じ表情で、見つめるのだった。
今でも目を閉じれば、それは鮮やかに浮かんでくる。むせかえる程の血の匂いと、一面の紅。どす黒くなった死体が山のように転がっている中で、彼だけがぽつりと立っていた。彼だけが、そこにいた。その顔は穏やかに微笑っていた。その笑みだけを見れば、今ここにありうる現実がまるで夢だと言うように。いや、違う。彼の存在自体にリアリティがなかったのだ。ここにいるのに、この場所にいるのに、何処にもいないような。何処にも存在しないような、そんな感覚。
「―――――」
血塗れの剣を拭き取って、鞘に収める。その表情は全く変わらない。まるで春の日差しを思わせるようなそんな穏やかな笑み。小春日和を思わせる、そんな笑み。けれどもそれが。それがこの場所にどんなに似つかわしくないかは、廻りの死体が無言で告げていた。
「…君は、サカ人だね……」
言葉が出てこなかった自分に対して、彼は穏やかな口調でそう言った。それは今まで剣を振るっていた人物とは思えない程に。けれども間違えなく目の前の彼が、この死体の山を作ったのだ。
「ああ、そうだ」
リアルのない場面。リアルのない殺人。それに輪をかけていたのは、彼のその容姿。その、顔。一目見たら忘れられない、綺麗なその顔。
「…俺はシンだ……」
近付く人物を睨みつけるようにシンは言った。普段なら睨む事すら自分はしない。関心がない人間には一瞥するだけだった。いやどんな人間に対しても、自分はただ通りすぎるだけだった。
けれども今。今目の前の人物だけはどうしても視界から離す事が出来ない。真っ直ぐに視線を捕らえずにはいられない。
「シンか、いい名前だね。私は…カレルだ」
睨みつけたシンの視線ですら穏やかに受け止めながら、カレルはそう告げた。そしてゆっくりとシンの前にしゃがみ込むと視線を同じ位置に合わせる。それが彼なりの礼儀だと、彼が自分を対等な存在として認めている証だと気づいたのは後々の事だった。
「シン、私はしばらくこの場所にとどまりたい。君の部族を案内してくれないか?」
「――――他人を入れてはならないと長は言っていた」
「…そうだね…私は君達にとっては他人だ…」
「でもあんたは俺を助けてくれた。この死体等が何よりもの証拠だ。だから他人じゃない」
転がっている死体は恐らくベルン人のものだろう。自分等の同朋以外は見境なく殺す殺戮者の集団。それを目の前の人物はたった一人でその剣で全てを払い除けてしまった。その剣、だけで。
「…シン…君は……」
その先の言葉を口に閉じ込めてもう一度、彼は微笑った。それはやっぱりさっきと同じ穏やかな笑みだった。本当に穏やかな笑みだった。目の前の死体がなければ、全てを見失ってしまいそうなほどに。
ずっとその笑みだけが変わらなかった。部族に連れてきた時も、こうしてしばらくやっかいになると告げた時も。停留している村の外れにテントを張り、ひっそりと暮らし始めた時も。戦いが起こりついでだからと参戦し、誰よりも殊勲をあげた時でも。そしてその後で必ず自らの火照りを抑えるように、夜の相手を求める時でも。
何時も、穏やかに微笑んでいた。誰よりも綺麗なその顔で。誰よりも綺麗なその笑顔で。
「剣聖というのは廻りが勝手に付けた称号だ。私が望まずともね。そして血に飢えた狼も、私の本質をいい当てているが…それも所詮他人が付けたものだ」
男達も女達も、彼に惹かれる者は多かった。例え殺戮者だろうと、この容姿と剣の腕と、そしてこの笑顔が他人の心を捉えずにはいられなかった。
「私は私でしかない。何者かと聴かれれば、その答えは今ここにいる私以外にありえない」
相手など彼には幾らでもいた。どんな相手だろうと彼には選択肢が山のようにあった。けれども彼は同性以外をその相手として選ばなかった。抱かれる事以外を、望まなかった。
「今君の前にいる私が、君にとっての『何者』かという問いの答えだよ」
それはどうしてと前に聴いた事がある。その時の答えはこうだった。確かに、こうだった。
――――私が愛した女性はただ一人。だから同じ行為なら愛など必要ない同性がいい……
その先の答えを聴きたくて、けれども聴かせない何かがあって。それ以上の事は未だに聴けずにいる。いや一生自分は聴けないのかもしれないと思う。それほどまでに彼の中で自分の存在は大きくはないし、そして自分にとっても彼は全てを食い込むような存在ではない。
けれども知りたいと思う。知りたいと思っている。どんな事にも関心のなかった自分が初めて興味を覚えた他人だった。
「分かった、それでいいよ。今ここにいるあんたが、俺にとっては本当の事なんだろう?」
シンの言葉に彼はそっと微笑う。変わらない笑み、変わる事のない笑み。この時シンは、思った。どうしたらこの笑みを崩せるのか、と。どうしたらこの顔以外の表情を見る事が出来るのだろうと。
そしてそれが出来ればこの奇妙なまでの関心が。執着とも言えるような関心は、きっと満たされるのだろうと。
まるで恋をしているような、そんな執着から逃れられるのだろうと。
男同士でこうした行為が出来ると知ったのは、彼がこの地にやってきてから一週間ほど経ったあの日からだった。
彼と出逢った日。あれから彼を長の元へと連れてゆき、その間交わされた会話の内容は知らなかったが…その日以来彼はここにいる。
――――剣聖カレル…村の人々がさかんに彼をそう呼んでいた。その呼称には純粋な憧れと、そして微かな恐怖と…そして言い表せない何かが含まれていた。ほとんどの人間は彼を尊敬し、崇拝していた。けれどもそれと同時に別な感情が含まれているのも否定できなかった。それがどんな感情であろうとも、廻りが彼をどう評価しようともシンには関心のない事だった。関係のない事だった。あの日、までは。
それは本当に偶然だった。たまたま、だった。何時ものように馬に乗り弓の練習をした帰り、馬を休ませるために川面へ寄ったその時だった。
「……っ!」
男女の行為は知っていた。一年前民族恒例の収穫際の夜、部族一美人だと言われている年上の女が、自分にそれを教えた。他の男達の誘いを潜り抜け、その女はシンを真夜中の海へと連れ出した。
『フフ、子供の癖に凄いのね』
自分の上に跨りながら腰を振る女の揺れる胸を見ながら、シンは身体とは正反対に冷めてゆく心を感じていた。愛し合う男女がする行為だと教えられたものは、こんな簡単に愛などなくても出来るものだと。こんなにも手軽に出来てしまうものだと。
『貴方の将来が楽しみで…でも怖いわ…この年でこんなだったら…もう』
興味はあった。それなりに性に対する関心もあった。だからと言ってこんなにも早くそれを経験するとは思わなかった。けれども相手が誘ってきて、それを断る理由は自分に何処にもなかった。どうせ何れ経験する事ならば、今やってしまっても構わない。シンにとってはその程度の事だったのだ。
同じ年頃の子供達から見ても、自分が浮いているのは分かっている。馬鹿みたいにはしゃいだり、何でもない事を楽しめる。自分にはそれがなかった。子供らしいそんな感情を、自分は持っていなかった。不思議とそう言ったものが自分には全くなかったのだ。だから他人から見たら『ガキの癖に』という事になるのだろう。
『貴方のその目、不思議とそそるのよ…私以外にも貴方を欲しがっている女はいるわよ…子供なのにね。子供なのに貴方の目は、どんな男よりも魅力的に見えるのよ』
柔らかい身体を押しつけてきて、甘ったるいキスをしてくる。それは生理的に気持ちいいと感じ、感覚的に冷めてゆくものだった。セックスですら他人事のようにしている自分は、もしかしたら一生。一生何かに執着したり、何かに没頭する事はないのかもしれない。
見掛けよりも細い指が、背中に廻されていた。それが誰のものかは、すぐに分かった。緑の草の上に黒い髪が生き物のように蠢いている。それと同時に悲鳴のような声が響いてくる。紅い唇が解かれ甘い吐息が零れ、漆黒の濡れた瞳が閉じられてゆく。そこにあるのは何時もの穏やかな笑みとは違うもっと別の。別の顔だった。自分が見た事ない、自分が初めて見た彼の顔だった。
自分に跨り腰を揺すっていた女と同じ顔。同じ表情。あの時はただそれを何となく見ていただけなのに、今は。今はその顔から目が離せない。彼がその表情をしているという事実が、シンをその場に釘付けにした。
綺麗だと、思った。その表情に性的な興奮を覚えるよりも先に、ただ。ただ綺麗だと。綺麗だと、思った。それは自分には初めての感情だった。誰かを客観的に『綺麗』だと思う事が自分にはなかった。いや綺麗という感情が誰に対しても沸いた事がなかったから。だから今自分が彼の表情を綺麗だと思う事が…生まれて初めての感情だった。
「――――」
あの時の女のように腰を揺すり、貫かれていた。男同士でする時はその器官を使う事をシンは初めて知った。自分には必要のない知識だと思っていたから、それは思いがけない収穫ではあったが。
「…女…みたいだ……」
背中に爪を立て、快楽に喘ぐ顔。女のように身体を貫かれ、腰を振って。そこまでしてこの行為を彼が求める理由は分からない。分からなかったけれど。
けれどもその顔がただひたすらに綺麗だったから。綺麗だから、彼にとっては必要なものなのだと言う事だけは…分かった。
与えられた紅茶を飲み干して、もう一度シンはカレルへと視線を移した。彼は床に座り、本を読んでいる所だった。それはシンにとってカレルがここに来てから幾度となく見てきた光景だった。
こうして毎日のように彼の所に来ても、会話はそれほど交わされてはいなかった。こうして本を読む彼を見ていたりしているだけだった。けれどもそれはひどくシンにとって心地良い時間になっていた。
同じ年頃の子供達と馬鹿みたいにはしゃぐ事が煩わしく感じる自分には、こうして何をする訳でもなく静かに過ごす時間が何よりも心地良いのだ。その時間を感じたくて自分はここに脚を運んでいるのかもしれないと思えるほどに。
テーブルの上にカップを置き、シンはカレルに近付いた。そのまま座っているカレルの間にしゃがみ込み、至近距離で彼を見つめる。その時になってカレルは初めてシンの存在に気が付いた。本に没頭していたせいで、彼がここまで近付いている事に気付かなかったのだ。
普段なら他人の気配など嫌いう程に感じるカレルにしては、珍しい事だった。けれどもその事を実感したとして、カレルの中で何かが変わるわけではなかったが。ただ自分が気配を意識せずにいられる相手が出来ただけだ。今までその存在は二人だけだった。そのうちの一人は、もうこの世にはいないのだが。
「どうしたんだい?」
カレルは本を床に置き、同じ位置にある視線を見つめ返した。そんな彼をシンは無言で見つめる。整ったその顔を。
長い睫毛を。筋の通った鼻を。ほんのりと紅い色をしている唇を。そしてサカ人らしくない、きめの細かい白い肌を。
「―――あんたと、したい」
シンの言葉に初めて。初めてカレルが笑み以外の反応をした。それは本当に僅かな瞬間でしかなかったが。けれども自分に与えられた初めてのその反応に、シンは喜ばずにはいられなかった。自分でも驚くほどに、その反応を喜んでいた。
「…驚いたよ…君に口説かれるとは夢にも思わなかった」
そうだろう。自分でもそうだと、シンは思った。今この瞬間、彼の間近に来るまではそんな事考えもしなかったのだから。こうして間近に来て、その顔を見つめたら、無意識にこの言葉が出てきたのだから。
「こんなガキじゃ、満足しないか?」
けれどもそう思ったら、無性に彼を抱きたくなった。あの女とセックスした時とは違う。自分からそう、思った。彼を抱いて、あの時の表情をさせたいと。自分がさせたいと、そう思った。
「そんな事はないよ。だけど私は君をその場限りの相手としては…見れない」
「見なければいい」
「…そうすれば君も私も、傷つくだけだ」
「それは嘘だ。あんたは傷なんて付かないだろう?」
愛し合う男女がだけがセックスをするんじゃないと、愛なんてなくても出来るんだと。それを自分は身を以って知っている。だからそれと同じだ。自分が彼としようとしている事は。そのはずだ。
「本当にそう思うかい?」
それ以外のものはない。自分は彼の笑顔以外の顔が見たいだけだ。それさえ見られれば、この嫌になるくらいの執着心も関心もなくす事が出来る。この胸に引っかかる思いを、消化する事が出来る。
「あんたは傷つかない。だって愛じゃないんだろう?」
その言葉にカレルはひとつ。ひとつだけ溜め息を付いて。そして微笑った。何時もの顔で微笑って、そのまま。そのままシンの髪に指を絡めると、奪うように唇を重ねた。
口付けはひどく甘く、濃密なものだった。舌先で唇を舐められ、それに答えるようにそれを開くと、生き物のような舌が口内に忍び込んで来る。
「…絡めるんだよ…舌を……」
言われた通りに口内で蠢く彼の舌に自らのそれを絡めた。そうして舌をくちゃくちゃと重ね合わせる。その濡れた音と、舌から与えられる感触にこめかみが痺れた。
「…そう…だ…もっと…深く……」
息が途切れかけると絡まった舌が離れて、濡れ始めた声がシンの耳に響いてくる。それはじわりと脳内に忍び込み、シンの感覚を侵してゆく。まるで麻薬のような心地良さと、危険なもののように。
「…もっと…そう…もっと……」
指をカレルの髪に絡めて、そのまま引き寄せた。簡単に唇は深く重なり合い、口内の全てを味わうように。全てを舐め尽くすように、深く舌と唇が絡まった。
「…んっ…ふぅっ……」
何時しかカレルの口から声は消えた。貪り尽くす舌を全身で感じる為に、与えられる感覚に集中する為に。きつく引き寄せられる指の力ですら、カレルにとっては官能だった。自分の半分も生きていない少年。そんな少年が、自分の口中を犯している。その事実だけを感じようと。
「―――感じた?」
唇を離し、シンは囁くようにカレルに告げた。それはとても『子供』のする顔ではなかった。そこにいるのは独りの雄の顔、だった。
「…感じたよ…私が教えなくても…君はキスの仕方を知っている……」
指先がカレルの口許に零れた唾液を拭う。その手はまだ綺麗なものだった。綺麗な指だった。本格的に人を殺めたりした事はないであろう指。その指の持ち主を今。今自分は穢そうとしているのだ。
「でももっと、教えてくれるんだろう?先生」
「先生、か。いいだろう、おいで」
カレルはそれだけを言うと着ていた上着を脱ぐと、そのままシンの背中に腕を廻した。その身体に先ほどまで行われていた情交の痕を残しながら。
何かを考えて生きていた訳じゃない。何かを感じて生きていた訳じゃない。未来を描く事も、将来を考える事も、自分にはなかった。ただ毎日時間に流されて生きているだけだった。
「…はぁっ…あ……」
女の柔らかい胸とは違う硬い胸。そこにある小さな突起を指で摘む。強く摘んでやれば下にある身体が小刻みに揺れ、唇からは甘い吐息が零れて来た。
初めて抱いた女よりも、シンにとっては今の方が刺激的だった。関心のない相手と、興味のある相手との違いだけだったが。その違いだけで、感じるものはこんなにも違う。
「…君は…どうしてそんなに冷めた目を…するんだろう……」
カレルの指がシンの髪を撫でる。何度となくその髪を。指先を擦り抜ける細い髪だった。サカ人にしては珍しい細い髪。それを愛でるように撫でながら、カレルは自分を組み敷く相手を見上げる。濡れた瞳で。
「多分全ての事に冷めているからだ」
「…そうか…だからか……」
だから?と尋ねる前にカレルはその唇を自ら塞いできた。キスの仕方は覚えた。どうすれば感じるキスが出来るのか。最初の女が教えてくれた。身体で感じるキスは、教えてくれた。でも心から感じることは、心から感じるキスは知らない。彼ですらそれを自分には、与えてくれなかった。
「…だから…君と寝てもいいって…思ったんだ……」
「めんどくさい感情がないから?」
「…まあ…そんな所だ……」
繋がりたいと思った。繋がりたいと思う。身体を繋げてその表情を歪めたいと。けれどもその先を。その先を考えたら、シンには何も浮かんでこなかった。ただ身体を重ねて、笑顔以外の顔を見たら、その先は。その先はと考えたら…何も考えが出て来なかった。
「…っ…はぁっ…あ……」
身体に指を滑らせ、感じる個所を捜した。見つけた瞬間に答えるようにカレルはシンの髪に絡めた指の力を強くする。それをサインにシンは集中的にソコを攻め立てた。
うっすらと汗ばんでゆく身体。ほんのりと紅く色付く肢体。重ねた肌から感じる鼓動がひどく。ひどくシンを興奮させた。
「…指…ちゃんと濡らしてくれよ……」
脚を自ら広げてカレルはシンを最奥の秘所へと導く。その時に囁かれた言葉にシンは答える変わりに自らの指をぺろりと舐めると、そのままソレを中に忍ばせた。
「…くふっ…はっ……」
女は勝手に濡れるけど男はそうはいかない。いやむしろ当然だ。その行為の為にある器官ではないのだから。それでも侵入させた指をきつく締め付ける内部の肉は、行為に慣らされている証拠でもあったが。
「――――これさっきの男の奴?」
「…君とセックスしているのに…そんな事はいいだろう?…」
シンの指にどろりとした液体が当たるのが分かる。こびり付き乾き始めた精液。さっきまで他の誰かが抱いていた身体。さっきまで他の男の精液が注がれていた個所。
「それとも気に、なるのかい?」
「いや、あんたから男の匂いは消える事はないのかと思っただけだ」
「…嫌な回答だね…でも君らしい……」
中の指は蠢き、時折カレルの形良い眉を歪ませる。それでもカレルは言葉を紡いだ。繋がる前にどうしても。どうしても彼と言葉を交わしたかった。それは最後の確認であり、始まりの合図だった。
「…シン…君は…昔の私に、似ている……」
言ってそして、確認したい事。それはある意味過去の自分と向き合うものだった。カレルにとってシンは。今のシンはそういう存在だった。
「――――」
「…何もなくただ漠然と生きていた私に…ただ人を殺す快楽だけに溺れていた私に……」
初めて見た時から、そう感じていた。全てに冷めた瞳。何事にも関心がなく、何もかもを他人事のように見ている瞳。客観的に物事を捉えるあまり、主観を置き去りにしている思考。
「溺れるものがセックスだけの違いって言うのか?」
何もない、何事にも関心のなかった自分は剣の道に溺れた。違う、剣の道という名の『殺戮』に溺れた。人を殺す事に快楽を見出し、血で血を染めることこそが生きている証になっていた。
生きる事すら実感出来ずに、何事も他人事でしかなかった自分。そんな自分が生きていると感じられる瞬間が、人を殺す時だけだった。生きている自分と対称に、死が向き合うその瞬間だけだった。
そしてその結果。本当に自分にとって大切なものに気付いた時には。気付いた時にはそれは永遠に自分が手に入れることの出来ない場所に旅立っていた。永遠に、失ってしまった。
「違う、君は私とセックスをしても溺れないだろう。でもそれでいい…そうでなければいけない…」
そんな自分に彼はひどく似ている。似ているから、興味を持った。そばにいて見ていたいという思いに駆られた。そして彼がこの先、自分と違う答えを見つけて欲しいと。だからこうして。こうして確かめたかった。彼が自分と同じなのか。そして彼にとって自分が、踏み台になれるかどうかを。
「どうしてだ?」
自分を抱いて知ればいい。興味のなかった彼自身が唯一関心を覚えた相手が自分なら。そんな自分を抱いて、そして。そして少しでも考えればいい。彼にとって求めているものを見つけるための足がかりに。
「…君は本当に好きな相手でなければ…セックスに溺れる事は出来ないだろう…私が…そうだから……」
そうして、何時か自分のように気付いた時に…永遠に失う事が、ないように。
失って初めて気づくものがあると、教えてくれたのはこの時だった。本当に大切なものならば、そこに存在する間に気付かなければと。自分が手の届く場所にあるうちに気付かなければと。そうしなければ、何もかもが遅すぎるのだと。
その言葉の意味を本当に理解した時に、自分は一体。一体何をしているのだろうか?
貫いた器官はきつく、そして狭かった。初めて抱いた女のソコよりもずっと。ずっときつく自分を締め付けてくる。痛いほどの刺激に、シンは少しだけ眉を歪ませた。
「―――こんなガキのじゃあんた、満足しない?」
繋がった個所が濡れた音を立てた。そこからじわりと熱が広がり、全身を埋めてゆく。埋め込んだ楔を包み込む媚肉の熱さと、気持ち良さがどうにもならない熱を生み出した。
「…そんな事は…ないよ…感じている…だから…」
「だから?」
「…動いて…くれっ……」
懇願するような濡れた瞳がシンを捕えた。それは確かに自分が見たかったものだった。見たかった、もの。彼が快楽に表情を歪めるその顔。
身体を密着させ、形を変化させた自身をシンに押しつけてくる。両腕を背中に廻し、己の身体を引き寄せながら。そうして自分が感じている事を、刺激をねだっている事を伝えている。
「だったら名前呼んで」
何故自分がこんな言葉を告げたのか分からなかった。何故こんな欲求をしたのかを。自分の欲求はもう満たされたはずだ。彼の笑顔以外の顔。それ以外の表情。自分がもたらした行為によって、快楽に歪むその顔。今ここにそれはある筈なのに。
「…シン…動いて…くれ……」
きつく抱きしめられ掠れた声で名前を呼ばれる。いつもと違う濡れた声で。その声に、シンは感じた。身体が、感じた。全身が、感じた。
「…っ!…あああっ!!」
腰を引き寄せ、激しく身体を揺さぶった。もう何も考えられなかった。夢中になって腰を振り、ただイク事だけを望んだ。擦れ合う肉の熱に溺れながら、ただひたすら。ひたすら射精する瞬間だけを…思った。
「――――くっ……」
弾けるような音とともに、シンはその身体に熱い液体を注ぎ込む。それと同時に自らの腹の上に相手の精液が飛び散った。どくどくと音とともに自分の分身から欲望が吐き出される。その瞬間訪れたのは、溺れるような快楽ではなく、ただ。ただ排泄されたという開放感でしかなかった。それ以外のものは、シンに訪れなかった。
気だるい疲れがシンを襲い、そのまま彼の胸板に身体を埋めた。まだ鼓動の早い心臓の音を聴きながら、シンは目を閉じる。その音がひどく心地良く感じられたから。
「…汗で髪が張り付いている……」
しなやかな指がそっとシンの髪を撫でる。けれどもその指は細かい傷と剣蛸で、近くで見ればいびつなものだった。それでもこの手をシンは嫌いじゃない。
その手こそが彼の今までの証だった。剣士としての証。自分みたいに他人を殺した事のない手とは違う、本当の戦士としての証。
「…カレル……」
口にして気が付いた。初めて彼を名前で呼んだ事を。何時も『あんた』で済ませていた。名前で呼ぶのに、躊躇いがあった。呼んでしまったら、何か。何かを失うような気がして。
「うん?」
でも実際口にしてみたら失うものは、なかった。得られたものもなかったけれど。けれども心の何処かで思っていた事がある。何れ彼は自分から去るだろうと。その時に、その瞬間に、自分の中に彼という存在があまり残ったりしないようにと。心に深く残らないようにと。
それがあったから、名前で呼ぶのを躊躇っていた。名前を呼ばずにいた。少しでも彼という存在が、自分に深く根付かないようにと。
「…何で俺と寝たの?……」
でも、もう無理だった。いや初めから、無理だった。どんな形であろうとも、自分にとって彼は絶対に心に残る。こんなにも他人に興味を持ったのも、こんなにも他人に執着したのも、自分にとっては初めての事だったから。そんな存在を簡単に。簡単に片付けられる訳がないのだ。
「俺がしたかったから、拒む理由がない…って答えで逃げるなよ」
「全く君は…何処まで私を困らせるのか……」
何時もの笑顔に戻って、カレルは微笑った。でも今はその笑顔を見ても胸はざわつかない。それ以外の表情を、今。今自分はこの目で見たのだから。そしてこの身体でさせたのだから。
「相手なんて吐いて捨てるほどいるあんたが、こんなガキを相手にしたんだ。多少俺が自惚れても文句はないだろう?」
「自惚れるも何も…君は自分の価値を分かっていないのかい?」
「それをそっくりそのままあんたに返すよ」
「…本当に君は……」
シンの言葉にカレルはひとつ溜め息を付いて。付いて、そのまま。そのままゆっくりと唇を重ねた。触れるだけのものだったが、敏感になっている身体にはそれなりの刺激ではあった。
「君には嘘も偽りも意味がないからね…そんなものすぐに見破ってしまうだろう」
「――――」
「だからちゃんと答えるよ。私はこれでも君を…認めているんだ…対等の存在として」
そんな事は気付いている、とシンは言おうとして止めた。言わなくても目の前の男ならば、とっくに分かっているだろうから。
「正直、君に惚れそうになったよ」
「もう耄碌したのか?」
「そうかもしれない…でも君が私と同じ人種だと気付いたから…それは違うと分かったけれど」
「同族憐れみって奴?」
「それとも違う。けれども昔の自分に向き合っているようだった」
「………」
「だから気付いて欲しかった。君があまりにも私に似ているから…だから……」
「…大切なものを失ってから…気付かないように、と……」
その後カレルが話した事を、シンは一生忘れる事はなかった。そしてそれを誰にも話す事も、なかった。それは生涯自分の胸にしまい込むと決めた。誰にも告げずに、誰にも話さずに。
それが彼が自分を『認めて』くれた証でもあり、その話こそが彼が過去に向き合いそして決別する為のものであったから。
「こんな重い話、こんなガキに語っていいのか?」
剣聖カレルの心の歪み。誰にも語らない、語られる事のない深い病みと傷。それはあまりにも深くて、シンには終わりが見えなかった。見えなかったけれど、でも自分はそれがすんなりと理解出来た。それこそが、彼と自分が『似ている』という事なのだろう。
「いいんだ、私も誰かに本当は聴いて欲しかった」
「聴かされる身にもなれよ。俺の中にあんたがこびりついて離れない」
「実はそれが狙いだ」
「―――何だよ、それは……」
「君が私のようにならないように、と。ちょっとした呪いだよ」
柔らかな穏やかな笑み。この笑みを体得するまで、どれだけの精神的な葛藤があったのだろうか?この笑みを自然に出来るようになるまで、どれだけのものを捨ててきたのか?
「嫌な奴だ、あんたは」
いやもしかしたら。もしかしたら彼は捨てるものすらなかったかもしれない。自分にとって必要だと思うものがなければ、失うものもないのだから。だから彼が捨てたものは…失ったものはひとつだけ。今彼の口から語られたその事だけ。
「そんな事、君は初めから分かっていただろう?」
微笑う。何時ものように自分に向かって微笑う。その笑顔を見ながら、何時しか自分は思っていた。この先彼とって『失いたくないもの』に、自分が少しでも含まれる日がくるのだろうかと?そして自分にとって彼が『失いたくないもの』に、なるのだろうかと。
「ああ、そうだな…あんたは…」
その事は分からない。永遠に分からないかもしれない。もしかしたら本当に。本当に失ってから初めて気付くのかもしれない。
「そうだ、あんたは最初から…悪人だったんだ」
上半身を起こして、その髪に指を絡め引きつけるように口付けた。触れるだけのキスでは我慢出来ずに、深く舌を絡め合う。それは次第に熱を生み、再び二人の身体に火を付けて。後はただ。ただ無言のままで身体を絡めあい、繋げるだけだった。
ただ独り愛した女がいた。私は生涯彼女以外の女を愛せない。いや、他人を愛せない。私にはもう女を抱く事が出来ないんだ。それが私の罪であり、私の罰だ。
――――何で、それが罰なんだ?なんでそれが罪なんだ?
許されないからだよ。私が愛したのは…実の妹だ…血が繋がっているれっきとしたね。
――――………
可笑しいだろう?私の身体は男としては妹にしか反応しないんだ。以前は平気で女も抱けたのに…妹を失って以来…私は。
―――死んだの?妹?
ああ…病気でね…もともと身体が丈夫じゃなかったから。でも私はそんな妹の死に目にも逢えずに…いや死んだ事すらつい最近まで知らなかった。
――――妹から、逃げていたの?
その通りだよ。私は逃げたんだ。自分の抱えていた想いを、見破られたくなくて…違う、こんな感情で妹を壊したくなかったから。
しあわせになって欲しかったんだ。私とは違って、剣の道よりも、殺戮よりも大事なものを見つけられた。だから妹には…しあわせになって欲しかったんだ。
身体の感覚がなくなるまで抱き合った。互いの境界線がなくなるまで交じり合った。吐息を奪い、欲望を吐き出し。全てが無になってしまうほどに。けれども決して無にはなれない。溶けてなくなるまで、溺れられない。それは分かっていた事だった。
「…どんな形だろうと…あんたは俺の中に…残るんだろうな……」
指の先まで痺れるような感覚に、シンはその胸に身体を沈めた。汗の匂いが鼻孔を擽る。それすらも今はけだるい心地良さを与えるだけだった。
「――――きっと…残るんだろうな……」
重ね合わせた肌から、伝わった。言葉がなくても、伝わった。彼が近々ここから消えるだろうという事が、伝わったから。
「…それは…光栄だな…シン……」
どんな理由であろうとも、どんな意味であろうとも、シンにとって初めて。初めて『消えない』存在だった。それがどんな思いであろうとも、どんな形であろうとも。この先に何が起ころうとも、間違えなくシンにとって彼は…特別な存在だった。