君が生まれた日



―――――ずっと、笑顔でいよう。どんな時でも微笑っていよう。そうすればきっと。はっと辛い事も哀しい事も全部忘れられるから。


生まれたての小さな手のひらがそっと命を描く。静かに伝わるぬくもりが、泣きたくなるほどの暖かさが、その全てが『生きて』いた。
『…ありがとう…オリヴィエ…ありがとう…』
小さな手のひらをそっと包み込めば、命の鼓動が伝わる。壊れそうなほど小さい手のひらなのに、そのぬくもりは何よりも無限の強さを感じられるものだった。強くて、そして輝いているもの。
『…はい、ヘンリーさん…私頑張りました…貴方にずっと微笑っていてほしいから…そして貴方に『家族』を…ううん、貴方と一緒に家族になりたかったから』
『…うん…ありがとう…僕に家族を作ってくれて…僕に生きている意味を教えてくれて…僕に大切だと思えるものを与えてくれて……』
おかしいな、嬉しい筈なのにどうしてだろう?どうしてこんなに涙が零れてくるのか。どうして涙を止められないのか。でも君も。君も一緒に泣いてくれるから。微笑いながら、一緒に。
『ヘンリーさんも…くれました。いっぱい、いっぱい、くれました。大事な気持ちを…大切な気持ちを…だから』
だから、ずっと。ずっと微笑っていよう。一緒に微笑って、毎日ささやかな幸せに包まれた日々を送ろう。僕と君と生まれたばかりのふたりの子供と。
『だからこれからもずっと一緒に…三人で家族として…生きていきましょう…』
指を絡める。絡めて、約束をする。こんな子供染みた事すら僕にとっては大事だった。僕にとっては大切な事だった。――――君との日々が何よりも、大切だった。



――――辛くても苦しくても微笑っていよう。そうしなければ生きてゆく事すら諦めてしまうから。だから、僕は微笑う。想い出の中の笑顔とともに、微笑うから。


何時も目を閉じて真っ先に浮かんでくるものは何時も楽しそうに微笑っている父と、少しだけ恥ずかしがりながらそれでも嬉しそうに微笑う母の姿だった。どんなに辛い日々でもふたりはずっと笑顔だったから、僕も笑顔でいようと決めた。辛くても苦しくても、淋しくても。
「…いいんですよ…もう…もう無理はしないでください……」
微笑って、笑顔を作って。そうやって弱い心を辛い思いを必死で隠して生きてきた。けれども、もう。もう今はそんな事をしなくてもいいんだ。
「…母さん…僕…僕…っ……」
今ここにいる母は自分も知っている母親とは少しだけ違うけれども、けれども間違えなく『母さん』であることには変わりない。恥ずかしがりやでけれども何時もでも包み込むような優しい笑顔を浮かべてくれていた母と。
「…大丈夫です…私はここにいますから…だから…アズール……」
包み込む手のひらの優しさは僕が知っているぬくもりと何一つ変わりない。暖かくて優しくて。だからもう僕は我慢しなくてもいいんだ。
「…母さん…もう何処にも…何処にも行かないで…ずっと一緒に…」
「…はい…ずっと…ずっとそばにいます…お父さんと私と…ずっとあなたのそばに…」
「…うん…うん……」
小さな子供のように声を上げて泣いた。みっともないとか思うよりも今は。今は何よりもそうしたかった。喉の奥に閉じ込めていた全てを吐き出したかったから。そうしたら今度は本当に。本当に、微笑う事が出来るから。


呆れるほどに泣いて、僕は気がついた。こうして声を上げて泣く事が出来る事がどんなにしあわせな事なのかと。想いを吐き出す事が、感情を曝け出す事がどんなにしあわせな事なのかと。
「…良かったです…あなたがちゃんと…こうして泣いてくれて」
「え、でも男なのに泣くなんて…恥ずかしいよ……」
「…いいえ、そんな事はないです…あなたのお父さんはそれが…出来なかったから…」
「―――え?」
それから先の話は父と母が生きている時には聞く事が出来なかった、父の子供の頃の話だった。父の両親の事、施設に入れられていた事。そして感情を知らなかった事。
「けれども母さんに出逢って好きになって感情を知ったんだ…凄いね母さんは」
「…そ、そんな事ないです…そんな風に言われると恥ずかしいです…」
「でも僕の記憶の中のふたりは何時も幸せそうで、楽しそうだった。辛い日々の中でも常に僕の前では笑顔でいてくれた」
その笑顔は僕のように作った笑顔じゃない。本当に心からのものだった。心からの笑顔だった。本当にささやかだけど幸せな日々だったんだ。
「…それはきっと…あなたがいたから…あなたがいるからふたりで微笑っていられる日々を送れたのだと思います……ありがとうアズール…生まれてきてくれて…ありがとうございます…」
「…母さん……」
「…ありがとう……」
今こうして僕の前で微笑ってくれるその笑顔が、記憶の中のものと何一つ変わらないから。だから、信じられる。貴女の言葉が心からの想いだという事が。



――――ずっと笑顔でいよう。ずっと微笑っていよう。本当にしあわせだと思えるから、その想いを隠さずにいよう。


君が生まれた日、きっと僕も生まれた。握り返してくる小さな手のひらが、伝わるぬくもりが、その全てが。その全てがどうしようもなく愛しいと知った時、理由も理屈もなく護りたいと思った時、僕はもう一度生まれた。君という小さな命が、僕の壊れた命に生命を吹き込んだ。
『―――ありがとう、オリヴィエ…アズール…僕は死ぬ瞬間…人間でいられる…』
生まれたから死ねる。命があるから、終わらせられる。心がないままならば、命がなくなってもそれはただ壊れただけだ。入れ物が壊れただけだ。
『…そしてごめんね…もう…護ってあげられなくて…ごめんね……』
僕は生きていた。ちゃんと生きている。だからこうして死んでゆく。後悔と悔しさと無念さと、そして何よりも幸福な日々を想って。―――僕は生きて、いたんだ。
『…ごめん、ね……』
最期の瞬間に瞼の裏に浮かぶのは君の笑顔とその腕の中ある幼い命。それが僕の全て。僕の全てだ。これ以上のしあわせを僕は知らない。…しら、ない……ぼくは…しあわせ…だ……



未来の僕は死んでしまった。けれども今生きている。未来からやってきた君と一緒に。そして。
「父さん、一緒に生きて行こうね」
そして生きてゆく。一緒に生きてゆく。家族として、未来を掴むために。
「うん。僕とオリヴィエと、君と家族として」
――――今度こそしあわせになる為に、生きてゆく。


ずっと笑顔でいられる日々を。愛するという事だけで包まれる日々を。