月のない夜



月のない夜に思い出すのは、何もない空っぽの部屋だった。真っ白な壁に覆われ物音一つしない部屋。そこにちっぽけな僕が膝を抱えてぼんやりと座っている。ただぼんやりと座っている、そんなどうしようもなくつまらない光景だった。


―――――君のぬくもりが、君の手のひらが、ただひとつ僕が『生きている』と感じられる場所だった。


笑ってさえいれば、苦しみは何でもないものになると思った。笑顔でさえいれば痛みすらも消えてゆくものだと思っていた。楽しいと思えば、哀しみも辛さも全てが何処かへと消えてゆくものだと思っていた。けれども。けれ、ども。
「…大丈夫です…ヘンリーさん…私は大丈夫ですから…だから…泣かないで……」
何時ものように笑えばいい。簡単だ、常にしている事だから。口の端を上げて視界を隠すように目を閉じて、そのまま笑顔を作ればいい。とても簡単な事だ。なのに。なのに、どうして?
「…泣かないで…ください……」
どうして僕は笑っていないの?どうして僕は声を上げて泣いているの?泣いて、いる?そんな行為はもうずっと。ずっと昔に忘れてきたはずだ。なのに、どうして?どうして?
「…オリヴィエ…死なないで…オリヴィエ……」
何で瞳から涙が溢れてくるの?どうして喉の奥から嗚咽が零れてくるの?どうして、僕は。
「…死なないで…僕は君が……」
頬にそっと手のひらが重なる。それはとても暖かいものだった。暖かくて優しいものだった。だから、僕は。だから僕は、どうしようもなく泣きたくなった。


何時しか痛みは感じなくなった。慣れる事で痛みは和らぐものなのだと知った。いや違う、きっと僕の『感情』というものが少しずつ剥がれ落ちていった結果だった。痛いという感情も苦しいという思いも哀しいという心も、そんな全てのものがぽろぽろと僕から剥がれていって、そして。そして残ったものがこの笑顔のカタチを作った僕という名の人形だった。僕という名のぬけがらだった。
そんなぬけがらがぽつんとそこにある。膝を抱えながら何もない真っ白な空間にぽつんと在った。たただそれだけだった。


――――君が、微笑う。君が、そっと微笑む。僕の本当の顔を見ることが出来たと。僕の、本当の顔を。


剥がれて崩れて零れて抜け殻になった僕に、君は命という名の暖かいぬくもりを吹き込んでゆく。感情という名の苦しくも優しい命の鼓動を差し出してくる。
「…君がいなくなったら僕は…僕はっ……」
何を告げようというのか?何を伝えようというのか?僕には分からない。分からなかった。けれどもひとつだけ分かった事がある。ひとつだけ僕は気付いた事がある。
「…僕は君を…失いたくない…っ……」
伸ばされる指先が、そっと触れるぬくもりが。僕が今まで知らなかったもので、知る必要のなかったもので、けれども知りたかったもので。本当はずっと。ずっと欲しかったもので……。
「大丈夫です…私はここに…ここにいますから…だから泣かないでください…私はずっと…ずっとここに……」
何でだろう、僕はずっと前に全部を捨ててきたのに。痛みから苦しみから哀しみから自分を護る為に捨ててきたのに。なのにどうしてそんなものが、今。今こんなにも欲しいと願うの?

―――――こころを、ぜんぶ、こわしてきたのに。

気持があるから苦しくなる。感情があるから哀しくなる。心があるから痛みがある。だから全部。全部捨ててきたのに。全部捨てて、そして。そして笑う事を覚えたのに。どんな時でも笑っている事を。笑っていられる事を。それなのに、君は。
「…でもヘンリーさんの本当の顔を見る事が出来て…少し嬉しいです……」
僕と同じように涙を浮かべながら、君がそっと微笑うから。それはとても。とても綺麗だった。綺麗過ぎて僕が触れていいのか戸惑う程に。
「…嬉しいです…ヘンリーさん……」
けれどもそんな僕の心を見透かすかのように君の指先が触れるから。僕の頬に触れて涙を拭うから。君の、てのひらが。



貴方の本当の顔が、見たいんです。どんな些細なものでもいい、どんな小さなことでもいい、貴方の感情の破片でいい…どんなものでもいいから私は見たかったんです。だって私は気付いたから。貴方がどんなに優しいひとなのかを。貴方がどんなに純粋な人なのかを。だから、もっと。もっと『ひと』として貴方と触れあいたい。貴方に触れてみたい。それは我が儘な事ですか?


――――我が儘だといわれてもいいです…貴方の本当の笑顔を見る事が出来るなら、私はどんな事でも出来るから…だから微笑ってください…本当の笑顔を見せてください…それはきっと。きっとどんなものよりも優しいから……



月のない夜、深い闇。そして真っ白な壁。四角く区切られた空間から覗く闇は何処までも深いのに、囲まれた壁は無機質なほど真っ白だった。闇に呑まれてちっぽけな塊になってしまいたいと願っても、突き刺す程の一面の白はそれを許してはくれなかった。闇に紛れたくても、溶けてしまいたくても、その鮮やかな白が僕をくっきりと浮かび上がらせる。醜い塊の僕を、ぽつんと。
「…何処にもいかないで…オリヴィエ…どこにも…」
けれども今、浮かび上がった僕を包み込む腕がある。包み込み抱きしめそって隠してくれる腕がある。僕はこの腕が欲しいと、この手のひらが欲しいと、君が欲しいと、想った。
「…行きません…私はここにいます…ここにいますから……」
捨ててきたものをもう一度拾い上げて、そして見つめ直したら気がついた。気が、付いた。

――――ああ、そうか。そうか僕は君が好きなんだ。君が、好きなんだ。

君が微笑ってくれるなら、僕は何でも出来る気がした。どんな事でも出来ると思った。君が望むなら僕は本当の笑顔を向ける事も、捨ててきた感情を拾い上げる事も。剥がれ落ちた全てのものを再び掬いあげる事も。
「…ありがとう…オリヴィエ…ありがとう……」
君が微笑ってくれるなら、僕は。僕はどんな事でもしよう。きっとそれが僕にとっての『生きる』事だ。命の意味を教えてくれた君に、出来る事だ。


もし僕がまた月のない夜の事を思い出す瞬間は、きっと。きっと君の笑顔を思い出すだろう。泣きながら微笑う今ここにある君の笑顔を。