IF



もしも、違う答えを出していたならば。もっと。もっとふたりは違う場所に立っていたのだろうか?―――そんな事を考えてみても、もう遅いかもしれないけれど。


正直、初めは妬ましいと思っていた。迷うことなく真っすぐに前だけを見ている瞳が。自分にはない、その痛い程の真剣なまなざしが。悩みも迷いもなく、ただ一つのものだけを見つめている瞳がただ妬ましく、そして羨ましかった。
「―――カイン」
けれども今は。今はもっと違うものへと変化している。もっと醜く、もっと深く、もっと…苦しいものへと。
「どうした?アベル」
アリティアの騎士として互いを高め合ってきた相手。この国にマルス王子に仕える為に共に競い合い、時にはライバルとして時には親友として、共に歩いてきた二人。ずっとそうだと思っていた。ずっとそうだと思ってきた。これからもそうだと…思っていた。けれども。
「いや、何でもない…君の姿が見えたら声を掛けただけだ」
けれども今は、もっと別の。もっと別の想いが俺を支配している。そんな綺麗ごとではすまされないもっと深く醜い想いが。その想いが少しずつ俺から染み出して来て、そして少しずつ全身を蝕んでゆく。それを止める事がどうしても出来なくて。どうやっても、出来なくて。
「変な奴だな、疲れているのか?」
屈託のない笑顔を向けながら、近づいて俺の前に立つ。ほとんど変わらない身長差が、今は少しだけ恨めしかった。もしも俺の方が少しだけ高ければ、この瞳の奥に在る醜い火種を隠す事が出来たのに。もしも俺の方が少しだけ低ければ、口許に浮かぶ微かな戸惑いを隠す事が出来たのに。
「そうだな、少しだけ疲れているのかも…この所戦い続きだったからな」
ふわりと髪から太陽の匂いがする。不思議なほど暖かい日だまりの薫り。不思議だ、あれだけ血に塗れているのに。こんなにも互いに血塗れな日々を送っているのに。ずっと君だけ。君だけが、綺麗。
「大丈夫か?無理だけはするなよ。お前は俺にとって大事な、相棒なんだかんな」
逸らされる事のない真っすぐな瞳と、子供のような無邪気な笑顔。どれを切り取ってもそこに生臭いものは何一つない。誰よりも一番に戦場に飛び出し、誰よりも一番危険な場所に立って戦っているのに。どうしてこんなにも君は、綺麗なのだろう?
「―――相棒か…そうだな…俺たちは……」
口に出して確認する言葉の意味を誰よりも俺は知っている。誰よりもその言葉の重みを、その言葉の尊さを。どれだけの想いで目の前の相手がその言葉を俺に告げてくれているのかを。けれども。けれども、俺は……。
「そうだ。大事な相棒だ。だからこれからもよろしくな」
差し出された手を握り返しながら、思っていた。このまま引き寄せ抱きしめたいと、そしてそのままその身体を組み敷きたいと。組み敷いて、そして。そして無茶苦茶にしてやりたいんだと。
「…ああ、よろしくな……」
その身体の隅々まで指と舌を這わして、そのまま全てを手に入れたいんだと。自らの欲望の証を埋め込んで、鳴かせたいんだと。汗と体液と涙で、その綺麗な顔を穢したいんだと。


――――そんなどうしようもない欲望だけが、俺の心を蝕んでゆく……


最初は別の想いだった。友になると同時に襲ってきたのは妬み。ただ羨ましかった。ただ妬ましかった。迷いのない瞳が、真っすぐな視線が、強い意志が。俺の思考は何時も迷いだらけだったから、その強さが羨ましかった。君への距離が近づくたびに自らとの違いが浮き彫りになってゆくのが、ひどく嫌になっていた。
だからわざと距離を置こうと思った。少しだけ他の人間と同じように壁を作ろうとしたのに。


『…アベル、俺の背中はお前に預ける…やっとそう言える相手に出逢えた……』


微笑うから。君が微笑むから。屈託のない笑顔で、剥き出しの感情で。そこには一転の曇りもなく、ただ純粋に。ただひたすらに綺麗に。そこには微かな染みすらなくて。だから。だから、俺は……。


『―――お前は俺の一番の相棒だ』


作ろうとした壁はいとも簡単に崩れた。それどころか自ら足を踏み入れた。進んではいけない場所へと。もう戻る事が出来ない場所へと。何処にも戻る事が出来ない所へと。それは今ここに差し出された最上の言葉すら無意味になる場所。それすらもただの痛みにしかならない場所。

――――それは目の前の願いとは矛盾しか生まない、醜い感情だった。

もうきっと何処にも戻る事は出来ない。望み通りの『相棒』でいる事はきっと。きっとこの先出来なくなる。それは君に対しての最大の裏切りだと分かっているのに止められないでいる。想いを、欲望を、止められないでいる。


もしも、違う答えを出していられたならば、きっとふたりは違う場所に立つ事が出来た。きっとふたりは違う場所に立つ事が出来た。君が望む場所へと、ふたりで高みを目指す場所へと。
「…カイン……」
「どうした?アベル?」
「君が好きだよ」
けれども俺は君の手を取ってそこへ昇る事が出来ない。それどころかその手首を掴んで引きずり降ろそうとしている。君を俺の場所にまで。
「何だよ、いきなり本当に変な奴だな」
「―――好きだよ、カイン」
その言葉の意味を君は気付かない。気付かないでと思いながら、気付いてほしいと願う。この矛盾した想いが徐々に俺の心を蝕み、内側から壊してゆく。ぽろぽろと、剥がれてゆく。
「俺も好きだぜ、アベル。改めて言うと何か照れるよな…あ、俺そろそろ行かなきゃ―――じゃあな」
剥がれてそして最後に剥き出しになった塊が残った瞬間、君は今と同じ言葉を俺に与えてくれるだろうか?


――――俺の気持ちが何処にも戻れない以上…そんな仮定なんて無意味でしかないのに……



もしも俺が違う言葉をあの時告げていたならば、ふたりの間に在るものが変わっていたのだろうか?もしもあの時違う言葉を告げていたならば。


『…大事な相棒だ……』


その言葉に偽りはなくて、その言葉に嘘はなくて。けれどもそれ以上に。それ以上にもっとと願ってしまう自分に気付いたのは…何時からだった?
「…アベル…俺……」
手のひらに微かに残るぬくもりが消えないでほしいと、馬鹿な事を思うようになったのは何時からだった?何時からそんな事を考えるようになっていた?
「…俺…最近何か変なんだ……」
大事な親友、大事な相棒。ずっとそうだと思っている。ずっとこれからも変わることなくそう思っている筈だったのに。なのにどうして。どうして?
「…お前を見ていると…凄く苦しい……なのにそばにいたいって…思うんだ……」
このままずっと、と。ずっと一緒にいられたらと。こうしてともに歩んでいけたらと。同じ道をふたりで進んでゆけたらと。そして。そして、それ以上に。


――――ライバルでも親友でも相棒でもない…もっと違うものになりたいと……


何を願っているのだろう?俺はお前に何を望んでいるんだろう?お前の『何』に俺はなりたいんだろう?その答えが見つけられず頭の中を堂々巡りしている。ぐるぐると思考が輪になって、廻っている。
「…ずっとお前のそばに…いたいんだって……」
この気持ちの名前を知りたいと思った。そうすれば少しだけ楽になれるような気がしたから。けれども。けれども、分からない。この気持ちの名前が何なのか、分からなかった。


もしもあの時。あの時違う言葉を告げていたならば。そうしたら、ふたり。ふたり違う場所に立っていたのか?ここではない別の場所へと。ここではない何処かへと。


「…好きだ、アベル……」


さっきは迷いなく言えたと言葉なのに、今はこんなにも。こんなにも苦しい。言葉を零すだけで胸が締め付けられるように苦しい。これは、何?
「…俺『は』…好きだ……」
言い換えてもう一度言った言葉が、もしかしたら答えなのかもしれない。けれどもそれを認める事は出来なかった。だって俺たちは相棒だから、俺たちは親友だから。それはふたりで大事に育ててきた関係だから。


「…好きだ……」


けれども、もしも。もしもこの言葉を告げたならば。親友でも相棒でもなく違う意味でのこの言葉を告げたならば?何かが、変わるのだろうか?


――――もしもこの剥き出しになった気持ちを告げたならば……