見上げた月が雲に隠れてぼやけて見える。それはまるで今の自分の存在のようだった。輪郭がぼやけておぼろげになった自分のよう、だった。
――――目を閉じた先に在るものが、きっと俺の全てだったんだ……
風が吹いて髪を乱した。整える事も無意味のような気がしてそのままにしておいたら、そっと手が伸びてきて乱れた髪を整えてくれた。
「―――考え事か?ウルフ」
「…ザガロ……」
伸びてきた手の相手を見つめれば何時もの穏やかな瞳が返ってきた。穏やかでありながらも、その奥に秘めた強い意志を持つ瞳。その奥底に在る強さが何時も。何時も、気付けば自分を『ここ』に呼び戻す。現実の世界へと。
「何でもないと言ってもお前にはお見通しなのだろうな」
「当たり前だ。何年お前の相棒をやっていると思っている?」
穏やかな口調と、静かな笑顔。普段はこんなにも物静かな男なのに戦場では誰よりも頼りになる相棒になる。安心して背中を預けられる男になる。
「そうだな、お前には隠し事は出来ない。お前だけには」
思えばずっと共に歩んできた。ハーディン様の元で、喜びも哀しみも幸せも苦しみも全て。全てこの男とともに分け合ってきた。何もかもを。だからこそ。
「…ありがとう、ザガロ……」
全てを曝け出すことが出来るようになっていた。何もかもを見せる事が出来るようになった。自分の弱さを、迷いを、愚かさを、その全てを。
「礼なんていらない。そんなものは俺達には…必要ない。そうだろ?」
「ああ、そうだな」
伸ばされた手が何時しか背中に廻りそのままそっと抱きしめられる。こんな風にされる事を拒むことない相手はただ一人だ。ただひとりだけ―――お前だけだ。
瞼を閉じた先に在るただひとつの真実が、現実から自分を切り取ってゆく。何が正しくて何が間違っているのか、それすら分からなくなって出口のない迷路を彷徨う。
本当に自分はここにいていいのか?この場所が正しかったのか?現実のこの世界が、自分が描いた進むべき道とずれていないのか?選んだ選択肢は間違っていないのか?
迷いはいつも自分のそばに在り、自分の中に在る。それが自分の存在を曖昧にする。ぼんやりとさせる。このおぼろげな月のように。
願いも意思もひとつだけだった。あの方のもとで生きてゆく。あの方の騎士として生を全うする。あの方とともに…。それだけだった。それただけで良かった。それ以外のものは必要なかった。それこそが自分にとっての喜びであり、自分にとっての生きる意味だった。けれども。けれ、ども。
「…ハーディン様のいない世界で…こうやって生き伸びている俺は無様なのではないだろうか?…滑稽ではないだろうか?……」
「―――ウルフ……」
あの方の為だけに生きて、あの方の為だけに死ぬ。それはどんなことよりも甘美で幸福な夢だった。何よりも自分を満たし、自分の存在そのものを感じられる唯一の願いだった。
「あの方のいない世界でこうして生きている俺は…ただの空っぽな抜け殻ではないのだろうか?……」
それ以外の生き方なんて必要なかった。オルレアンの騎士として、狼騎士団の長としてあの方の掲げた理想をともに目指す以外には。何も必要なかった筈なのに。
「でもお前は俺の声を聴いた」
「…ザガロ……」
包み込む腕が強くなる。きつくなる。それは苦しい筈なのに、どうしてだろう?どうしてひどく心地よいと感じるのは。暖かいと思うのは、どうして?
「俺の声を聴いて、そしてここに来た。あの時あの場所で死ぬ事も出来た。けれどもお前は…俺の声に答えてくれた……」
囁かれる言葉は何処までも穏やかなのに、それは身体の奥底を貫く。痛いほど真っ直ぐに自分の身体を貫いてゆく。それは痛み、だった。現実な、リアルな、痛みだった。
きっと、求めていた。死に場所を求めていた。変わってしまったあの方と、光溢れていた過去の溝を埋められず、それでも追い続けた理想を粉々に崩されることに怯え、自分の中に抱えた矛盾を解決する方法が分からず、それから逃れるように死に場所を求めた。
「…それはお前が……」
その先の言葉を告げようとしてけれども告げられずに唇を閉じた。それこそが答えだと気付いたから、今ここに。ここに自分はいる。ここに自分は、在る。
「―――ウルフ、これだけは忘れるな。俺はお前の相棒だ」
求めていた死に場所と、生きる意味を奪ったのは目の前の相手だと。他の生き方を必要としなかった自分に別の道を開いたのは、他の誰でもない目の前の相手だと。
「忘れたくても、忘れられないさ。お前だけが俺をこの場所に…留めるんだ」
理想だけでは生きられない。現実だけで生きるには余りにも夢を描きすぎた。それでも生き恥をさらしても生きてゆこうと思ったのは、生きてゆくんだと決めたのは。
「…お前の声だけが…俺を…呼び戻すんだ……」
痛みを知っている相手。互いの傷を剥き出しにした相手。喜びも哀しみも笑顔も苦しみも、全部。全部、共鳴してきた相手。醜さも絶望も、願いも夢も、何もかもを見せてきた相手。そして何もかもを見てきた相手だから。
「ああ、そうだな。そして俺もお前だけが…お前のその激しい瞳だけが…俺を現実に引き戻すんだ」
目を閉じて浮かぶものはきっとふたり同じものなのだろう。もう二度と還ってはこない何よりも幸福で何よりも幸せな日々。どんなに願ってももう叶う事のない、ただひとつの眩い光の日々。だからこそ。だから、こそ。
―――――互いの瞳を見つめあう事を止められない。そこに映る現実を、真っ直ぐに見つめる事を。
生きてゆくのだと。生きてゆくんだと。あの方のいない世界で、掲げた理想も夢も何処にもなくなった世界で。それでも生きてゆくのだと。ふたりで、生きてゆくんだと。
「…幸せなんて言葉は俺達にはもう何処にもないかもしれない…それでもウルフ…」
この伝わるぬくもりを。触れ合う体温を。重なり合う命の音を。それは切ない程に愛しいものだった。愛しくて大事だと…そう思えるものだった。
「…それでも幸せになりたいと願っても…赦されるよな…ハーディン様のいない世界で…お前とともに…幸せになりたいと……」
あの方のいない世界。掲げた理想も夢も失われた世界。それでも生きたいと思ったのは。生きてゆきたいと思ったのは。
「…ああ、ザガロ…誰も赦してくれなくても…俺が赦すから…一緒に生きてゆこう…」
生きてゆこう。ふたりで生きてゆこう。あの方の願った世界の破片を少しでも現実に出来るように。ふたりの心に刻まれたふたりだけが知っている瞼の裏の世界を、少しでも現実の世界に出来るように。
お前の背中越しに映る月は雲に隠れたまま、おぼろげに光っている。それはひどく頼りなくあやふやな輪郭を作るだけだった。けれどもそんな月を見つめる俺を、抱きしめてくれる腕がある。暖かい腕がある。それはぼやけていた俺の形をくっきりと象り、この地上に揺らぐ事のない存在を映しだしてくれた。
――――月が隠れても、俺は消える事はない。抱きしめてくれる腕の強さが在る限り『俺』という存在はここにある。この現実という世界に、在る。